「猫天地伝」
作/こたつむり


〈1章〉7p

「夫婦であるから、どうだと言うのか」
  天戒師(てんかいし)には特別威圧する調子はなく、末端の弟子にすぎぬ二柳毛にも問答の権利を与えてくれた。そこで二柳毛は思いきって、
「仙に必要な法は私にはわかりません。ただ元々俗人にすぎぬ私の気にいたしますことは、わが妻、園慕がもしもこの仙山に私を慕ってやってくることがあれば、追い返すは情にしのびがたく、やはりこのように師の情けにすがって入山の許可を待つでありましょう」
「そしてやはり許可せねば、そのときはどうする」
  そう聞かれて二柳毛は少し迷った。どう答えるか迷ったのではなく、答えを言ってしまっていいものか迷ったのである。しかし答えが決まっている以上、もしも自分の言ったとおりの将来が訪れれば、そのときに言うのだと思いきわめ、
「自決いたすでしょう」
  と言った。元々、仙人になりたくてこの山に入ったわけではない。二柳毛には矛盾を感じない結論だった。日々を鬱々と仙山に住まう彼の生きる唯一の支えは、生きてさえあれば、いつか妻に再びまみえる日も来ようということに他ならない。天戒師は、
「女にも仙を果せる山はある。が、山に入り、一生を奉仕に費やすだけの日常が、おまえの妻や、今ふもとで沙汰を待つ女にとって幸福といえるか」
「そのことにつきまして、その女、猫天地(ねこてんち)と申す者が言い及びますことは……」
  二柳毛の目は、このときとばかりに見開かれ、熱気を帯びて輝いた。今こそ受付の修行者に聞いた、猫天地の旅に到る話を披露すべき時だと思ったからだった。
「天を舞い、手と手の合間から火をともす女人に出会ったとのこと。しかも猫天地は、その女とじかに話をし、昔は人間の子であったとの告白をうけたそうにございます。さらにその女は猫天地に死を思いとどまらせたとの事。つまり猫天地の出会った者は、女にして入山しただけではなく、仙を果し、おのれの道として見事に真っ当しているのではございますまいか。古い昔話にも仙女の伝説はございます。女とともにあっては仙道の邪魔になるというのは、いつのまにかねじまげられた真実ではありますまいか」
「ほほお」
  天戒師の笑う声が、椎の木をざわりざわりと揺るがせて風をおこし、二柳毛はバタバタと吹き散る木の葉を、両手をあげて防がねばならなかった。師の、
「さすれば、女をこの山に入れたとき、どのようなことになるかを見てみるがよい」
  という声をうけとったと思ったとき、二柳毛の下半身はすっかり椎の葉で埋め尽くされていた。
  見上げると大木の枝には人影はなく、人ばかりか枝という枝のまとっていた葉のすべてが一枚のこらず落ちきっていた。二柳毛の立つ山中にただ一本、丸裸にされたその木は、人骨のように寂しく寒々しい風体のまま、二柳毛を見下ろしているのみである。
  二柳毛はやっきになって葉のふきだまりから両足を出し、一息つくと、
「とにかくお許しが出た」
  と独り狂喜して、転がるように坂を駆けおりて行った。


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