「猫天地伝」
作/こたつむり


〈1章〉6p

  やがて東の地に、逆光のために姿をくらましていたと思える人影がはっきりとあらわれ、駆けながらどんどん近寄ってくる。
「俺は……楽阜(がくふ)だ……おまえは……」
  猫天地のもとまで来るや、ハアハアと肩を揺さぶりながらその男はとにかく名乗りを上げたものの、どうやら寒さで窮しているらしく、猫天地の名乗りも待たずに、手にもってきた枝木を細々と折って火にくべた。男の急な出現にあっけに取られる猫天地をよそに、その男は慌てて背負っていた荷を下ろしてほどき、中から筒のようなものを取り出すと、今にも消えそうな炎の横からそれをあてがい、口をつけて、そおっと吹いた。
  美青蘭の言い残したとおりに、木を与えられて生気をとりもどし、火はとたんに蘇った。
  目をぱちくりさせる猫天地に何事か問う間も与えず、楽阜と名乗った男は砂地にひざをつき、すぐさまかじかむ両手をさすりさすりあてがって、
「ううっ! 生き返る。助かった」
  と、さんざんに火をありがたがった。

  楽阜は旅人だった。旅の目的地は仙山という。
  焚火の御礼と称して猫天地に笛を聞かせ、終わるや、聞かせるにしては下手だと自ら批判しながらも、ボサボサの頭をゆすって快活に笑った。
  猫天地は、旅というものをやったことがない。日が沈んだあと寝に帰る家がなくて、どうやって生きているのかを問いただすと、楽阜は困り、自分はものをしゃべって人にわからせるのが下手だから、やって見せるしかない、と言う。
  そこで二人は、よく身を暖めつくした炎を消し、連れ立って浜辺をあとにした。
  こうして旅が始まった。猫天地にとってはもう帰るところがないから、もっけの幸いでもあった。
  楽阜は猫天地から聞いた身の上話をすぐによく飲み込んだので、旅の初めのころ、猫天地が何度も何度も、
「旅というのは良いものだ」
  とおどろいたように言うと、その都度カラリと笑い、
「おまえの父も、商いの行き帰り、こういうことをしていただろう」
  そう答えた。
「もっと恐ろしいことばかりと思っていた」
「恐ろしいことも多い。おまえと会ったあのときも、夜盗に襲われ山に逃げ込んだために、あわや凍え死ぬところだった。だがそれも仙山に行けば、夜盗にも寒さにも困らされぬ我身が手に入る」
  猫天地はやはり目をぱちくりさせ、どういうことかと問いただすが、楽阜もやはり、口で説明する自信が足りぬと困り、結局、いっしょに仙山まで行ってみようと話はおちついた。
  ところが道のりは遠く、道の悪い時などにはひどく悩まされた。特に雨の降りしきる日はつらかった。しかし海に入ったおりに脱ぎ捨てたために無かった猫天地の履物を、楽阜は手持ちの銭から代わりを贖い与えてくれた。
  楽阜は親切だった。猫天地がときおり疲れ果てへたりこんでも、夫のように殴りつけたり罵ったりはせず、笛を吹き歌をうたい、旅のめずらしい話を聞かせて慰めてくれた。
  楽阜の下着の内がわには、肌身はなさず革袋がくくりつけられ、中には銭が入っていた。ところがそれも、いきなり増えた旅の道連れゆえに、どんどんと底をつく。それまでは楽しく思えた夜空の野宿も、人家が密集している村に来てまで続くようになると、ひたすらに惨めで空しくなった。往来する人々からは乞食夫婦あつかいを受け、二人は辛い思いを味わうことが増えた。
  そこで猫天地は、自分はもう引き返すから、これより先は一人旅をするがよいと楽阜にすすめた。
  すると楽阜は決まって首をふり、
「ここから戻るとなると、おまえの方も旅になる。女が一人でするようなものではない」
  さいごまで一緒に行こうと、明るく猫天地を励ました。
  二人はわざわざ村里を離れ、野にわけいって狩りをした。楽阜に教わった野うさぎの仕掛け罠を上手に作れるようになってくると、猫天地も、
「やはり、ついてきて良かった」
  と、上機嫌をとり戻した。楽阜も笑顔をみせながら、
「狩りは二人でやるのがうまくいく」
  と旅の道連れを満足する。
  焚火で焼いた獲物の肉を腹いっぱいに食べて眠りにおちると、猫天地は、すでに仙山で楽しく暮らす夢まで見るようになった。
  そこには、なぜか死んだはずの父が猫天地とともに暮らし、何度も見るうちにやがて、父にかわって楽阜があらわれる夢になっていった。

  そのころ二柳毛は、仙山の頂上と麓のちょうど中間の小屋に配置され、そこより高所に住まう天戒師(てんかいし)をはじめとした先輩たちに、ふもとの検問所からうけた情報をもたらす役割をになっていた。
  天戒師とは、仙山に迷いこんだ二柳毛に琴を弾かせ、弟子に加えた白髪の老師である。気の練功に鍛えぬかれてその首は異様に太く、指先は腫れたかに見えるほどに大きく、触れれば凄まじく熱い。
  熱い、と触れたときに二柳毛が感じたのであって、先輩たちの教えによると、熱をもっているのではなく、多量に発せられる気の威力によるのだという。その証拠に、同じ体験を、吸い込まれると感じた者、はねとばされたと主張する者、ふれた指には何も感じなかったが、いきなり脱糞してしまったという者などによって、様々な形容にいろどられているのを二柳毛はじかに聞かされている。
  この天戒師については謎がおおく、その名の「天」を、すでに天仙を果しているからだと思っている弟子もおれば、じつは未だ地仙の域におり、人間の目には見えぬ天仙たちに奉仕する立場だという者もいる。
  なんにせよ、二柳毛はこの白髪の老師によって下山をゆるされず、その罪状といえば、丹薬製法の一端をその目で見た疑いにあった。
  住まうこと一ヶ月もたたぬうちに、二柳毛は仙山の全容をあらかた知らされた。それによると言わゆる丹薬調合の場は、二柳毛の駐屯する小屋より高所にあり、実際に丹薬が完成したのかどうかについては、ほとんどの者が知らされていない。未完成とあらば仙山の威信にかかわるであろうし、完成となると、いつ長生を欲し略奪の心をもって仙山を乱す者がその内外からあらわれるかわからぬであろう。また、このことは長く仙山以外の広い世界を混乱におとしいれるに足る重大事であり、それゆえに秘めかくし謎を散りばめる必要があったのだろう。
  医者であった義父園珪ならばこうした話の一つも知っていたのかもしれないが、園珪によって医者の端くれにはなったものの、二柳毛は全くの俗人であり、これらはまるきりおとぎ話の世界だった。だからここに来た当初、丹薬の存在が実にまことしやかに流布される事象が奇異にすら思えたものである。
  しかし、二柳毛が検問所を避けて逃げこんだ場は、調合所よりはるかに低地にありながらも、丹の材料を採る鉱物の産地であった。そこにいきあわせただけで拉致され、一生を仙山に拘禁される運命を背負わされることになったところを見ると、あながち丹薬製法が全くの絵空事ではないぐらいには思えるようになった。完成は未だ成らぬにしても、完成を目指したなんらかの試みが日々おこなわれているにはちがいない。
  さて、この二柳毛の元に、楽阜と猫天地の入山願いが届けられたのは正午であった。到着は昨晩と聞く。そのため二人は一夜を検問所の隅ですごしたそうである。
  二柳毛(にりゅうもう)は、さっそくさらに高所の小屋に居る先輩弟子の一人にその報を伝えにいき、その場にとどまろうとした。楽阜という男より、猫天地という女に深い関心をもったためである。
  なぜなら、おしゃべりな猫天地が、入山の受付を行った修行者の一人に語った旅の話には、二柳毛の俗人としての関心を充分にひくにたる内容が含まれていたからだった。それで天戒師の二人への沙汰がおりるまでここに居りたいとがんばったが認められずに追い払われ、渋々と一人山道を下ってゆく事となったのだ。が、しばらく下りるとその背に、
「男は良い。女は追い返せ」
  上天より声がふってきた。二柳毛が仰ぎ見ると、なんと、目の前に立ちふさがる椎の大木の枝に、天戒師が立っているではないか。驚きつつ二柳毛は、
「二人の者は夫婦ではありますまいか」
  長旅を助けあいつつやってきたであろう楽阜と猫天地を、つい庇った。


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