「猫天地伝」
作/こたつむり


〈1章〉5p

  猫天地はふたたび叫び声をふりしぼり、
「おのれ、誰が邪魔をする!」
「邪魔ではありません。そなたを助けようとしているのです」
「いらぬお世話じゃわ! 姿をあらわせ、怪物め!」
「おおっ、こわ。入水をめざす、かわいそうな娘と思いきや」
  そう言って本当に相手は、もやもやと空中に姿をあらわした。
「何をしようと私の勝手じゃ。放っておけば、すぐにもすんだものを」
  と、悪態をついた猫天地(ねこてんち)だったが、あらわれでた相手の容姿を見るや、あっけにとられて全て言いおわる前に口をあんぐりと開けて止めた。
  相手は宙に舞いながら、猫天地の頬にその手を触れんばかりの位置までおりてきて、ひらめく羽の衣をたゆたわせつつもおのが身を波に濡らさぬ程度に浮かせている。
「天女じゃ、いや、仙女かの」と猫天地。
「はい、そうした者です」と相手。
「はじめて見た」
「そんなことはどうでもよろしい」
  さあさあと、天女は猫天地の両肩に手をかけて、空へ空へといざないかける。猫天地もいそいで彼女の両手をにぎり、
「もう死ぬるのか」
  と、咄嗟に何か勘違いをして喜びかけたが、
「とんでもありません。助けると申したではありませんか」
「ちょっと待て」
  あわてて天女をつきとばし、ために空気の中へさそわれつつあった猫天地は、再びざんぶと波しぶきを上げて落ちた。天女はあきれて、
「何をしているのです。さあ」
「いや、おまえはなんか勘違いをしておるよ。私はね、溺れてるんじゃなくって、潜ろうとしておるのさ」
  あっぷあっぷをしながら、猫天地は天女を指さして間違いを教えてやった。
「おまえさんは、人の望みをかなえるのが仕事ときいた。ならば私を、あんまり苦しめずにあの世へ運んでくれるのが、おまえの役目というものさ」
  猫天地がそう言うのは、どこか仙人を重ね合わせたからだろう。仙人は俗界に遊んでは気に入った人間を見つけ、何か良い事を教えてくれたり良い処へ連れて行ってくれると彼女は思っていた。しかし、
「問答無用。ここでは話もできません」
  そう言うや、天女はついに、濡れるのもかまわず水の中にざぶっと入り猫天地の両脇をかかえて、あっという間に夜空を飛翔してのけた。

  空中、猫天地は、元の浜辺はイヤだと天女相手にさんざん注文をつけた。凍てつくほど寒いのを我慢したのも、少しでも婚家から距離のあいた場所に連れていってほしかったからなのであった。
  天女もそれをわかってくれたのか、ようやく望みかなって遠い浜辺に連れて来られた猫天地だったが、夜空の散歩にさんざん冷されて歯の根もあわさらず、ガタガタと濡れたその身を震わせた。天女にはとりあえず、
「れ……礼を言うよ」
「生きていて良かったでしょう?」
「ち……ちがうさ。ここに連れてきてくれたからだよ」
  天女はふうっと溜息をつき、首をふりながらも、猫天地の目の前に両手をあわせ、それをやや膨らませるように離していった。美しい白い手の平のあいまにボウッと光がさす。
「不思議だなあ」
  と、猫天地が感心して見とれている間に、天女のつくった光はふくらんで二人の間に小さなたき火が生まれ出た。
「ああ、あったかいよ、天女さん」
「私の名は、美青蘭(みしゅらん)。そなたは天女と言いますが、こうして空を飛ぶ術を持つものの、未だ天仙を果たしたわけではない修業の身の上ですよ」
「私は猫天地さ」
  ニカッと笑うと、猫天地は、薪もないのに燃えさかっている不思議な炎にやけどをするほど近付き、少しでも早く身をあたためようと焦って、体のあちらこちらを炎の方へむけてみた。
「お日さまがのぼるまで、このままこうして、あったまっていたいなあ」
  すると美青蘭はフフッと笑い、
「五行に言うとおり、火は火のままではいつか燃えつきてしまいます。火に必要な親は木です。ほんらい火は木をくべてこそ、いつまでも燃えつづけるのです」
  猫天地は、ふーんと言ってひざを抱え、
「私には、もう親はいないのさ。せっかく助けてもらったけれど、もうそろそろ私の火も燃えつきてしまうころだよ」
  そこへ呼応するように、夜空から、
「ほら、ごらんなさい。美青蘭」
  とさらに声が降ってきた。がその声の主は、美青蘭が現れた時と同じく姿は見えない。声だけが続く。
「人助けなど、余計なことだと言ったでしょう?」
「あれほど止めたというのに、いらぬ情けをかけるから」
「人間はしょせん、そういう生き物なのです」
「仙を果した者には、厄介なだけの存在ですよ」
「わかったら、早くもどっていらっしゃい」
「それ以上かかわると、気を吸われ、邪気を背負わされてしまいますよ」
「そうなっては今までの修行も水の泡」
  次々と大勢の女の声が、ざわめきわたり降ってくる。
  広大な夜空を、おどおどと眺めまわしたが、猫天地には星いがいに見えるものがない。美青蘭は立ち上がりながら、
「猫天地。同じくこの世を去りましたが、私にもかつて親はいましたよ」
  と言った。猫天地はおどろき、
「じゃあ、あんたは人間だったのかい」
  美青蘭はうなずき、
「先ほど申したように、私は今は修業の身の上。まだまだ小さなともし火にすぎません。ですが、親がいなくなったからといって、自分から水にもぐって消える火はありません。さいごまで望みを捨てずに生きていれば、また明るい日もさすものです」
  美青蘭のそうさとす声につられたかのように、東の空にほのかなあけぼのの色が射しはじめたではないか。美青蘭はせかされているかのように中天にむかって一度うなずいて見せ、羽衣で風をおこして舞い上がる。
  いつ消えたという感触を残さぬまま、美青蘭は猫天地の視界から去っていた。まだその辺に見えるような、あるいは初めから天女などいなかったような不思議のままに、猫天地の足元の火もだんだんと小さくうずくまりはじめた。
  消さないでおくれー。
  ふと、そんな声が聞こえた気がして、猫天地はあわてて閉じてゆく炎を両手でかこった。
「おーい。消えるなよー」
  という声が遠い彼方から空一面にこだましてとどく。猫天地は地平線のすみからすみへと目をやった。声の出所が、まちがいなく地上のどこかだと感じられたからだ。それは今まで耳にしてきた天女たちのそれとは明らかにちがう、地に根をはって生息する者の気配にささえられていた。


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