「猫天地伝」
作/こたつむり


〈1章〉4p

  やがて灯された炎に映しだされた人間は五人いた。ここまで二柳毛を連れてきた三人と、声の主とその従者らしき男である。声の主は白髪をうしろに束ねた小柄な老人で、首だけが異様に太い。
「背にある荷物を見せてもらおう」
  と、この喉でさきほどの柔らかな声を放ってきたのかと、二柳毛を驚かせた。
「身構えることもないだろう。荷の中はわからないでもない」
  二柳毛が荷のかけひもに両手をあてがい握りしめたのを、老人は笑い、
「医者がなぜ琴を持って歩く」
  と、荷の中身とともに二柳毛の身元まで言い当てた。
  これが仙人か、と二柳毛は改めて驚きに目を見開いたが、仙人らしき老人は二柳毛の驚きには構わず、
「まずはその琴の音でも聞かせてもらおうか」
  と、二柳毛の鼻先を指でさし、
「うまく弾ければ弟子に加えてやってもよいが、そうでないときには、かわいそうだが、これよりもう少々のぼった先の池に沈んでもらうしかない」
  語尾だけを底響きさせて断言した。
「私は何ひとつ見てはおりませぬ」
  二柳毛があいかわらず紐をにぎりながら言い訳におよぶと、老人は、
「さて、その証明をいかに果す」
  やさしい声のまま言い放ち、
「丹薬製法は俗人の知るべき法ではない」
  と背を向けながらつけたした。
  修行者たちは乱暴に二柳毛の背の荷をはずし中に入っていた琴をとりだした。それを目前におかれると、二柳毛は顎からぽたぽたと涙を滴らせた。
  仙道の士は体をととのえるために武芸をまず基本とする。屈強そうに身構える修行者たちを前に、今どのように抗うとも、この場の選択にだまって従うより他に、帰るはおろか生き延びるさえ許されないとついにわかってきた。
  観念して二柳毛(にりゅうもう)が琴を手にとり、その弦をはじいて声を発するや、居並ぶ人たちからは驚嘆が起こった。
  弦に呼応するかのように、いかつい闇は、夜雲のむこうからあらわれた月光にいっせいに薙ぎ払われた。五人の人々の口からは、楽仙だ、音楽をして仙を果す天性の質だという、どよめきにも似た賛美が放たれた。
  二柳毛は歌いながら運命に泣き、泣きながらおのが境遇をうたった。
  父よ、妻よ、私はついにあなた方の子になり夫になることができませんでした。せめて、このような所で、こうして嘆き哀しみ、それでもまだ生きてこの世にあることを伝えられたなら……。
  月よ、どうか私の恩人たちに伝えてほしい。今は亡き母に、この声をとどけてほしい。
  生き延びることの叶わなかった母が伝えてくれた、この弦の響きのみが、それでも自分をこの世につなぎとめる唯一の手段になりえたのだと。

  二柳毛の住む北東の地域よりやや南下した地域、つまり都より見て東の国には、貧しい漁師が住む村が多かった。
  今ここに、猫天地(ねこてんち)という女が登場する(後で呼称された名だが、混乱を避け最初から「猫天地」とする)。猫天地はもともと、北國の山のふもとに住む豪商の娘であった。
  母は幼い頃にこの世を去り、父が後妻を迎えたため、猫天地も二柳毛と同じく血の繋がらぬ他人と同じ家に住んだ。ようやく十五歳をむかえたころ、唯一の肉親であった父は山のように積まれた宝の舟とともに海に沈んで、この世の人ではなくなった。
  しかし二柳毛と異なるのは、父の後妻、つまり猫天地にとっての継母が、夫との間になした我が子に財産を全て与えようと画策し、少ない持参金を父の遺産と騙して与えると、猫天地を追い立てられるように遠い東の海辺の漁師に嫁がせた点である。
  夫の漁師は気が荒く、深酒をすごしては猫天地に暴力をふるった。嫁いでから、どうやら夫はこの土地でもあまり評判が良くないとわかってきた。継母は、どこかでこの事を伝え聞き、わざと自分をこの男に縁付かせたのでは、と疑う気持も起きはしたが、継母とは言え、母は母。その言いつけに叛いて実家に帰るわけにもいかず、暴力に耐えるしかなかった。
  それでもまだ、持参金の残っていたころはよかった。が、それらも嫁いで一年もたたぬうちに、酒肴や付近への見栄張りにすぎない贅沢な配り物に変えられて見る見る底をつき、いよいよ、その身を慣れない労働に費やさずに日をすごすことが許されなくなった。
  朝に夕に浜辺にかりだされ、赤ぎれる手のひらを海水に傷みつけられながら捕り縄を編み、舟底に溜まる汚物をすくいだす作業は、たびたび食らう夫のはげしい平手打ちよりも身にこたえた。
  猫天地はついに辛抱をやめた。このままこうした日常を積み重ねても結果は同じであろうと思いきわめ、海のひだに吸い込まれて死のうと、ある夜婚家をしのび出た。死ぬのは怖くなかったが、連れ戻されてひどい仕打ちを受ける事だけは怖かった。だから、わざわざ月のない夜をえらんだ。
  闇が深くて海は見えなかったが、嫁いで来た日から毎日恨めしげに眺めたその姿は、闇の向こうに真っ黒にうねる様子がありありと想像できた。
  いま進んでゆく方向は、ふるさとのある山とは正反対であった。が、猫天地はむしろそれを望んだ。背にする故郷に住まうのは、我身がこれより沈む黒い海よりもっと暗い運命を負わせた冷酷な継母とその子たちだけであったからだ。それより自分の身柄をたしかに引き受けてくれるであろう父の元にいきたかった。
  父は本当なら遠い陸にたどりつき品物をさばいて、自分や家族を安心させるにたる金品をもち帰るはずであった。幸せな将来も、限りのない愛も、この水面下のどこかでつながるかなたに沈んだのだと猫天地は思っていた。今その思いは一層強まり、ひき返す将来を選ぶ気には全くなれなかった。
  入ってみると、海水は思いのほか温かい。猫天地のひざまでとどく長い髪は水になじまずに、身体が沈むごとに水面にういて広がった。砂場のやわい感触は、やがてときおり足の裏をとげとげしく石がつついたり、いきなりヌルリとした有機物が足の裏を舐めたりに変わり、猫天地はまろびつつ寄せる波に脇の下をもちあげられるまで身を侵されていった。
  耳に入った海水は、頭の芯に真空の状態をつくり、ついに身の丈をおおう波にのまれてもなお、肉体のほろびる難しさに翻弄される我身を、誰かがせせら笑っているような幻聴を猫天地にもたらした。
  一体どうしたことか。人の体は沈まぬではないか、と彼女は狼狽した。幼い頃から母や父に聞いた物語には海に入って死んだ人の話が出てきたはずだが、その入水を果した人たちが、この現象をいかにして乗り越えたのかまでは聞いた事が無い、と悔しくなった。
  海の底に足がとどかぬ辺りまできてなお、猫天地は、いくらがんばっても水上の空気にその背を引きつけられたまま寄せる波に後戻りを強いられる。つい泳いでしまうのが良くないのだと、やっきになって足をふんばるが、その先に重しでもつけない限り、海の神は猫天地におのが領域への侵入を許してくれないようであった。
  猫天地は思い出した。婚家には、捕ってきた魚をしばらく生きたまま保存するために、いくつかの水槽が置いてあった。そこにかわらけを入れたとき、その中にずぶずぶと水が入ってゆくとかわらけは水槽の底に沈んだものだ。この身の中に水を入れてゆけば、あれと同じ状態になるのではないか。
  うむ、と合点がゆき、試みはじめるや、
「飲んではいけません」
  きびしい口調が、浮き上がりつつ波にもまれる猫天地の背に降ってきた。
「やっぱり誰かが……」
  猫天地ははげしく憤って顔をもたげた。その勢いで体は反転し、背泳ぎの恰好で猫天地は敵を水上にさがしはじめた。
  とたんに夜風は顔じゅうをくすぐるように乾かしはじめる。あまりに入水を試みた時間が長かったせいか、こうして仰ぎ見ると、星の夜空はひどく久し振りに見え、また長い間猫天地の奮闘をあざ笑って見下ろしていたようにも思えて、それにも腹が立った。


3p

戻る

5p

進む