「猫天地伝」
作/こたつむり


〈1章〉3p

  おそらくは難産の疑いでもあるのだろうが、子が産まれるだけで医者を招こうというのだから、そうとうに財のある家にちがいない。いいご身分だと二柳毛は嘆息をつき、ついでに園慕を睨みつけて、奏琴に水をさされた心外を表した。
  二柳毛が琴を奏でる行為は、柳女の死後、公然と認められてきた。むしろ柳女の死の直後は園珪に所望されることすら多かった。二柳毛にとっては、他人にかこまれて口にはしかねる母への思慕を、この家の中で唯一わかちあえるのがこの逸品であった。しかしそうした事も、最近ではなにかに薄められ家の隅においやられてゆくように思えて仕方がない。この頃では園珪が奏琴を所望する事も無ければ、奏でた所でその音を懐かしむ事も少なくなった。
  非難するような二柳毛のまなざしを受けとめる園慕の両眼には、しかしいつもとは逆に、圧倒するような真剣で強い光が宿っていた。彼女はついに言った。
「お父様は、あなたと本当の親子になるためにお前の力を借りたい、これより数日の間はお館にとどまり、そう果されることを祈っていると私に申されました」
  ハッとして、二柳毛は琴をひざからすべり落とした。
  喜ぶべきか戸惑うべきか見当もつかなかったが、そのどちらも二柳毛にはゆっくりと味わっているゆとりがもてなかった。
  琴が床に叩きつけられ、一瞬にして弦のはげしく乱れさけぶ声が、天にも地にも響きわたって若い二人の緊張を何段階も高めた。
  二柳毛は立ち上がり、これからついに妻となる女の両肩をつかんでひきよせると、息もつかせずに行為に突進していった。園慕は、途中なんどとなく夫を寝台にいざなおうと試みたが、二柳毛にはその場から数歩の間でも時をおくことが不安に思え、恰好としてはねじ伏せるような状態で果されてしまった。
  ようやく二柳毛に顔を赤らめる程度のゆとりが生まれたころ、彼はむせび泣く園慕を抱き上げて寝台につれていってやり、ともに横たわりつつ髪をなでてやった。園慕も涙をやめ、沈黙をやめ、ついに顔をほころばせるように笑みをこぼしはじめた。そうした妻に対して、疑いつづけた自分の一生の安定が確かな形で約束されたことをあらためて知った二柳毛は、真剣な顔をしてある重大な計画と覚悟をうちあけた。
  仙山に忍びこむという。
  園慕は耳を疑い、驚きのあまり声を無くして目を見張った。
  仙山はその名のごとく仙人の山である。国を違えると幾つも名のつく名山であったが、二柳毛の住む村ではただ仙山と呼ばれていた。
  そこには未だ修行の身のものもおれば、地仙を果し天仙をも果して天空自在のものも数多くあるという。この山には仙を果すに必要なありとあらゆる薬草が植えられ、丹薬の元となる鉱物が貯えられているとも聞く。
「盗みをはたらくおつもりなの?」
  説明も途中のうちに、勘のするどい園慕は、ようやくそう声を発し、二柳毛(にりゅうもう)の衣服をにぎり激しく首をふった。
「何を盗みというべきか、乱れたこの世に問うてみるがいい」
  二柳毛は天井を睨みつけながら言葉を吐きすて、
「母には元々、ありあまるほどの財宝があった。それが、父の亡くなったとたん、瞬く間にこの家から次々と失われていった。何故だ。たちの悪い商人どもにもち去られたからだ。奴らが代わりに置いていった品物は粗悪品ばかりだった。男のおらなくなったこの家の女子供の足元を見て、みながつまらぬ物を高値で売り付ける。ただでさえ幼かった自分が、病弱の母をおいて遠い市場に何かと贖いにはゆけぬ。そこにつけこまれ、次から次へと大事な物を失うのをくいとめる方法がなかった。母の病は日に日に重くなった。母にこそ値の高い薬が必要だった。医者になった今にして、そこのところがよくわかる」
  こうした不満をはっきりと口にしたのも初めてなら、こうした過去の屈辱に細かに触れた事も今までには無かった。何もかも彼にしてみれば、こうした苦労を口にしても相手が逃げないという確信無しには話せない事だったのである。
「貴族に生まれ付いたために、乱れたこの世についていけなかった母を今でも哀れに思う。が、母のように世間を知らずに生きて行けばどういう運命を迎えるのかだけはわかったつもりでいる」
  しかしこのように会話がもどってくると、二柳毛は話の内容こそ今まで打ち明けなかった事であれ、どこか夫としてより、妹を前にする今までどおりの自分に戻っていたのかもしれない。彼はこれまでの思いとこれからの計画を打ち明ける事に精一杯で、いつまでも話し続けて夜を明かそうとしていた。
  ところが園慕の方は、この瞬間から完全に妻になったようである。
「なれば、お父様のもどってこられぬ内に」
  夜具をはねのけて、月明かりの下に全裸の我身を照らしだしながら、家出を手伝うと申し出たのだ。
「父上の許可を待たずに?」
  あっけにとられたのは二柳毛の方だ。うかつにも彼は言わずもがなのせりふを吐いている。園慕(えんぼ)はあきれたように首をふり、
「許可いたす筈がないではありませぬか。すでにわかっていたことです。あなたとお父様とでは、その事については決して折り合いますまい」
  まだ床の中で瞼をしばたかせつつも、二柳毛にもようやく、もどってきた義父との間で険悪なまでの口論におよび不仲になったあげく、結局は入山もままならずにこの屋にとどまった日には、一番心労せねばならぬのはすでに自分のものとなってしまった園慕にちがいないと思い到った。
  二人はすぐさま旅の支度にとりかかり、翌日の午後には整えた。二柳毛が別れを惜しむ間もおかず、箱製の荷物入れを背に負って家を出たその夜、山をひとつ越えた先の館が大火事に見舞われた。
  旅立った二柳毛はこの事実を知る由も無かったが、この夜、その館に医師として逗留中だった園珪は、逃げ遅れて炎にとりまかれ、全身を焦がしてこの世を去ったのである。

  仙山への道のりは、二柳毛の居た村よりそう遠くはなかったが、それでも旅は彼を疲労困憊させた。
  しかし今までも園珪と薬草探しに山奥を歩きぬいた彼には、深い谷間や切り立った岩をよじのぼる事自体に、さほどの恐怖も困難も感じなかった。山の麓から各所にもうけられた検問をうまく避ける方法もすぐに思いつき、草木に身を潜ませて入山を果せた。が、いざ山道をあがったとたん、彼を待っていたのは、あまりにも絶望的な状況だった。
  まさかにこれほどの砂地があろうかと目を見張るほどに、仙山は、昇るや否やあたり一面が荒涼と枯れ果て、やがて侵入者を追い掛ける人々の互いに呼びかけあう声が聞こえて来た。そうして近付いて来る声に追い掛けられようやく逃げこんだのは岩場だったが、そこには苔すら生えていない。あまりにも間抜けな成り行きに、二柳毛は歯噛みの思いしきりであった。
  暮れてゆく陽に真っ赤に照りつけられながら、次々と修行者たちが恐ろしいほどの健脚で砂塵を舞いあげつつ駆けくだってきて、あっと言う間に二柳毛は発覚され捕らえられてしまった。
  彼は薬草どころか雑草ひとつ手にしていない。それを確かめた修行者の一人が、一度二柳毛を縛り上げた縄をすぐに解いてくれたが、かわりに別の運命が二柳毛の身をがんじがらめにした。修行僧たちは物も言わずに二柳毛の前後を囲み、さらに山を登らせるべく威圧しながら彼を追い立て始めたのである。麓はどんどん遠ざかっていった。
  しかし見付かったからには突っ返されると打ちひしがれていた二柳毛(にりゅうもう)は、逆にこの分だと、なんとか修行者たちの目をくすねて登山できるのではないか、と新たに希望を抱き、登りながら行く手を観察していたが、彼らは無言のまま、どこまでもどこまでも砂地をつれていく。
  やがて岩場に草がぽそぽそと見えはじめ、急に周囲を切り立つ堅い岩に仕切られた一本道に入り、全く逃げる隙もない。そのうちに岩のかわりに背をおおう木々が現れ、森の奥深くに吸いこまれるやすっかりと日は隠れ、ついで虫の音があたり一面に響きわたり、いっきに暗がりがおとずれた。
  一団が立ち止まったのは、密林を刈って草場につくられた広場であった。背後の修行者に肩をこづかれ広場の中央に座らされ、どこからか闇の中から、これよりはこの山で暮らすがよい、と柔らかな声をかけられた時、二柳毛はようやく運命を知らされたのである。
「見えませぬ」
  二柳毛が腹を立て闇にむかって不満をもらすと、声の主はクスクスと笑い、火をつけてやれとあたりに命じてくれた。


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