「猫天地伝」
作/こたつむり

〈1章〉2p

  柳女と二柳毛の暮らしは、貧乏きわまる一方である。隠れ住むために来た土地では、医者など呼びよせることすらこれまで適わなかった。万が一、今回のように旅する医者と巡り会う幸運に再び見舞われたとて、それをつなぎとめ治療をうけつづけるだけの財にも不安があった。ときおり明日を知れぬような状態におちいる病弱な母のこの先を思うと、医者が家族となって無期限でこの家に住みつづけてくれるなどという機を今のがしたら、一生後悔するだろうと二柳毛には思えたのだ。
  柳女の見込みは、子供のそれを遥かに越え、自分の生涯が閉じた後に思いを馳せた。
  考えるなと諭されても、むしろ柳女にとっては、おのれの死後の息子の行く末が案じられるあまり、病が癒えないとすら思えていた。
  彼女の予想通り、いま園珪によって死後の安心を得たとたん、急に長生きのための余力がにじみ出て来たのである。そして柳女がこのとき、
「わかりました。あなたがたのご好意に、一切おまかせしてみましょう」
  と言い、結婚の約束をしてからというもの、彼女はだんだんと回復し、ついには起き上がって、新しく娘となるべき園慕に機織りを教えてやれるまでになったのである。

  回復すると柳女はますます思慮を深め、やがて自分の死後、園慕を二柳毛の嫁として迎えるわけにはいかないだろうか、と園珪に持ち出した。
  柳女の考えは、回復したとは言え、病がちの自分が死んだ後も園珪親子と二柳毛の縁を繋ぎとめるには、自分が園珪の妻となるより、まだ若い子供同志を結び付けた方が良策と思えたからであった。
  園珪は、それが母の心かとも思った。その約束を必ず果たすと承諾すると、さらに柳女は回復し、四人の幸福は三年の間保たれた。ことに三年目の柳女はなんら丈夫な人と変わらぬ張りをもち、窓辺に義娘を呼び、日なたに息子とつれだち、園珪との会話においても、何年も先の若い夫婦の行く末に思いをはせて多弁となった。その笑顔は死魔のしのびよる隙間もないほど輝きに満ち、その口をついて語られる計画は具体的ですらあったというのに、ある夜ふと風邪に見入られ、やや寝込みがちになるや、柳女は信じられないほど早く衰退をきたしていった。
  決して手抜かりがあったはずもないとは思いつつ、園珪もこのときばかりは狼狽し、ふと、おのれの診断に疑問をおぼえて、名医をさがし求める気をおこした。
  これが良くなかった。よりすぐりの名医にこだわるあまりの遠出となり、園珪(えんけい)が留守の間に、柳女(りゅうじょ)は肺をわずらうに至って絶命した。
  戻ってきた園珪には言い訳のすべもない。ただ、亡き人との約束を守りおおせるしか自分に残された使命はないのだと思いきわめて、その後はひたすらに二柳毛の教育に余念をいたさなかった。
  ために二柳毛は、血のつながらぬ母の恩人に実に丹念に知恵をほどこされ、この医者の知りうるかぎりの医術をあますことなく身に伝えたが、一方園珪は血のつながらぬ弟子とのえにしの浅さを、あとからあとから思い知らされる事が少なくなかった。
  三年の歳月をともに過ごしたとはいえ、柳女の死後、他人を多く見知ってきた自分ですら会話に困る事があるのに、これまでの人生のすべてをともにしてきた母をついに失った二柳毛にとってはなおさらであろうと察すると、それとなく娘、園慕に意見をあおいだ。
  今や一家の主婦の座にある園慕(えんぼ)は、しばし思いに沈んだあと、
「それならば、いっそ、亡き人の遺言通り、私と二柳毛が夫婦となれば良いのではないのでしょうか」
  と自ら提案した。園珪も深くうなずき、
「そうなってくれれば一番の安心だが、二柳毛の心はどうだろうか」
「そのことは私の口からは聞きにくく思います。どうぞ、お父様からお伝え下さいますように」
  やっと十二才を迎えたばかりの少女はほおを赤らめてはにかみ、柳女仕込みで見事に仕上げられるようになった織物をたずさえて市に出掛けていった。
  園珪は柳女との約束を、娘自身からの提案によってようやく果たされつつある事に喜び、さっそく二柳毛(にりゅうもう)をさそい出して、家の外をぶらぶらと連れ立ちながら持ちかけてみた。
  二柳毛はしばらく無言で立ち尽くしていた。しかし園珪が無理強いだったかと問うと、慌てて首を振り、身をふるわせるほどに感謝の態をもって即座に承諾した。天涯孤独の少年にとって、この瞬間こそが、これまでの人生で最高に幸福で、しかも最高に不安のときでもあった。
  しかし以来、二柳毛からは枯草のように頼りない影が見る見る失せ、変わって、一家の大黒柱ならしめんとする気迫が芽生え、徐々に屋内の暗がりを押しのけていったのである。

  二柳毛と園慕の結婚の宴には、それまで病人の出た時にしか声を掛けなかった周囲の村人や、この家の成り行きをただ物珍しげに、あるいは遠巻きに見てきた者までが喜んで祝いに訪れ、園珪は人々に亡き柳女の忘れ形見となった二柳毛を、改めてわが息子として紹介するに到った。
  しかし幼い二人は兄と妹のようにこの家に育った事もあって、未だ夫婦の情には至らぬのも無理のない事で、本当の夫婦となるのは、いずれ時が来たらという約束となり、二人は相変わらず兄と妹のままではあった。が、園慕と結婚すると、その前にはそれほど関心を示さなかった園珪の過去に、二柳毛はあらためて関心を覚えるようになった。
  もともと旅をしぬいてきた園珪の語ることは、外の世界を知らずに育った二柳毛にとって、そのまま社会を学ぶに役立った。名医として尊敬し、又、母の恩人として改めて頼りにも思えてきた。
  しかし、ただ他人が家の中に居るのではなく、家族として、自分の父として迎え入れる以上、彼の歴史ごと学び取らなくてはならないという気負いが徐々に芽生え、やがて園珪の軍医としての過去にも自分から質問を発して聞きだす事が増えた。
  中でも兵士に付き従い、戦いに明け暮れする中の数々の逸話を聞くのが好きになった。兵士の奮う民衆への乱暴にたえかね、幼い園慕を連れて果した決死の脱走劇を特にねだって聞いた。その後に行く先々で、村人たちに迎えいれられ精力的に病人の治療を行った話にも、感嘆をもよおした。
  しかし、いざ医者としての自覚をともないはじめたころから、二柳毛には、一つだけ父となったこの他人と衝突しそうなことが生まれつつあった。
  二柳毛には、園珪が軍医を降りてもなお医療を捨てなかったほど弱者の味方でありながら、お呼びがかかれば、何日も家や村を空け、遠い国の領主や寺院の館に滞在することが気にくわなかった。気にくわなかったが、同時に、やむにやまれぬ経済的事情という奴にも折れざるを得なかった。
  家計は、どうにか成り立ちはする。園珪や二柳毛がかわるがわる家を空け、旅の空の下、集まる村人を診るかわりに受けるほどこしと、柳女の機織りを引き継いだ園慕が市場でもうける銭のたくわえによってである。
  しかし人の病を直すには、なんといっても薬が手に入らぬことにはどうにもならない。ことに高価な薬は、今たもっている経済力ではどうにも手に入らない。幼いころより歩きつくし知りぬいている限りの山や川に出掛けても、なお見付からぬ薬草に関しては、園珪とよく冒険まがいのことまでして未知の山奥にさがし求めたが、一つの土地で足をたよりに入手する薬草には、あまりにも限りがあった。
  防犯にはぬかりのない園慕ではあったが、この先、実際の夫婦となり子でも生まれようものなら、男のたびたび留守をするこの家に立場の弱い女と子供を居残して、長々と危険にさらすはめに陥ることだろう。そうした家計にとって、園珪が様々な館からもち帰る、ときおり目も眩むような手当は、遠い所から来る商人達から楽に薬を手に入れるには、どうしてもなくてはならない蓄財となりえたのだ。
  わかってはいても、園珪の不在中に急患の報せを受け、駆け付けたあげく、治療の甲斐もなく死亡させてしまったり、不具合な体にしてしまう結果のたびに、二柳毛にはそれが父の不貞の結果であるかのように思えてしまうことが多かった。患者の最期を看取り、遺族には泣き叫ばれ、ときには恨まれ罵られねばならぬその同じ時、たいそう豊かな風情の大きな館の奥で、心地よく歓待をうけ、美食に包まれているにちがいない義父の、どこか脆弱さただよう様が想像される。そこには昔話に聞いた英雄的な面影は無いように感じるのであった。
  またどこで覚えて来るのか、園珪は帰ってくると、やたらと世の乱れについて語る事も多くなった。つまりは政治という奴だが、その話が長く、何か矛盾と嫌味を感じて、二柳毛は園珪が酔って帰って来ると顔も合わせずに寝たふりを決め込む事すらあった。
  そうした思いが体のどこかから吹きこぼれでもするのか、察しのいい園慕は帰ってくる実父にそれとなく注意をうながす事もあったが、そんなやりとりの後は重苦しい空気が流れるのが常で、二柳毛は、改めて家の中に屈託を感じるのであった。
  母の死後、時おりものおもいに沈むとよくやってきたように、この夜も二柳毛は母の形見の琴をかなでて自分の孤独をなぐさめていた。
  そこへ園慕が、山ひとつ向こうの館に義父がまねかれ、出産の立ち会いにでかけたと伝えにきて琴の音をさまたげた。
「また、お館に……出産の」

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