「山岡荘八『徳川家康』雑記」(「ご挨拶」から、6)

「今週のご挨拶とお知らせ」(2018年1月で述べた事から〜

     
 
〜前略〜

あと、そうそう!去年から話してる通り、『徳川家康』(山岡荘八)を読んでます。
でもこれは、それほど時間かけてないです(^^ゞ。
前に比べれば、忙しいせいで、読書時間は減りました。ホントちょっとした休憩時間に、チラと続きを読む程度になってしまい(≧▽≦)。。

前回……φ(。。)m、13巻に入ったと言ったようです。
今、17巻です。

ざっとその後の配分を言うと、13巻が小田原征伐、15巻の最後に秀吉が死にます。
だからその間に、利休・鶴松・大政所と死んで、大陸出兵があって、秀頼が生まれ、関白秀次の事件があって……という流れでした。

16巻は石田三成が家康の屋敷に逃げて来る所まで。17巻に入ると、佐和山に蟄居してます。
関ケ原は、どうやら18巻のようです。

え〜と。前から是非書こうと思いつつ、他の事に文字数を使ってしまい、いつも後回しにしてた事があります。今日こそ書きます(`・ω・)

それは、『徳川家康』における、「」と「茶屋四郎次郎」の存在です。
(「堺」と一言で言いましたが、利休をはじめ、多くの商人や文化人、芸術家などです)

登場頻度、メチャクチャ多いです。全体の比率から言ってもかなりの枚数を割いており、普通に『徳川家康』と聞いて想像する範囲を、大きく逸脱してると言って構いません。

私が「」と「茶屋四郎次郎」が書かれるのを、「意外」「逸脱」などと感じるのも、私に、徳川家について特定のイメージ(誤解や偏見があるにせよ)があって、小説がそのベースに沿ってないからだと思います(^_^;)。

かく言う私も、かれこれ17〜18年前に書いた『戦国武将一覧』(現在は『更新終了』に入ってます(^^ゞ)の『徳川家康』に、堺の商人や茶屋四郎次郎が家康の経営・その他の面を支えている事、質実なだけでない家康の側面について述べているんですが、あくまでそれは「側面」という解釈でした。

私のイメージする徳川家というのは、武田家と似て、トップダウンよりは合議制を重んじ、主従の団結が強く、利益より義理を、商業より農業を重視する……というものです。
司馬遼太郎が家康を評して、「重農主義」と書いた事も、このイメージを支えてます。

徳川と言えば徳川四天王であり、その結束を思う時、家康にとっての彼らは、家族以上に家族であり、仲間であり、だからすこぶる存在感が強い家臣団……といったイメージでした。

実際、大河ドラマで『徳川家康』をやった時は、途中までそんな雰囲気で推移してました。

ところが、この小説において、徳川家の家臣というのは、あまり存在感が強くないです(^_^;)。

色んな名が出ては来ます。
が、何の戦をするのに、これこれの陣容に誰々がいたとか、上洛するのに供連れは誰々だったとか、家康が何かを命じる時、それを受けたのは誰々……と、その個性も人間性も殆ど現れず、家康の考えを詳細に語らせるために出て来る道具にすぎません。

徳川と聞いて真っ先に思い浮かぶ、本多忠勝酒井忠次なんてのは、もう殆ど「その他大勢」って感じです(^_^;)。。
榊原康政は、登場回数は多いけど、使い走り申し次みたいな感じ。

(そういや大河ドラマでも、後ろに行くにつれ、だんだん家臣の影が薄くなってゆき、「あれ?」と首を傾げながら見てましたわ……。)

それでも三河にいた時は、何かというと三河武士らは出て来ました。
けれど、彼らは家康にとって、どちらかと言うと厄介な存在でした(^_^;)。
そのうち、彼らを教え導くのが家康の課題になっていった……この事が、家康を彼らの中で、ひどく孤独な存在にしていったように感じています。

江戸に来て以降、家康は身分も所領国も石高も導引兵数も肥えて、秀吉ですら簡単に御しえない存在になりました。

それにつれて、家臣らも、前のように平気で失礼な態度や高言をしなくなった、という風に受け取る事は可能です。

しかし、彼らが家康を認める、認めない、というよりは、家康自身が、三河以来の家臣たちより、天海柳生石舟斎といった、外側から得た参謀の意見に傾きます。

そんな中で、井伊直政は登場頻度も高く、比較すれば、家康の意を適度に踏まえた動きをする、珍しいタイプに思えます。
直政は小姓時代……つまり子供の頃から、家康の傍で成長したため、家康の手ほどきを受けた人材だから、という点が大きいでしょう。

しかし、これもやはり、直政の井伊家が、徳川内部における外様だから、という気がします。
裏を返せば、つまり家康にとって、やっぱり、三河武士鬼門だと……(^_^;)

徳川が豊臣政権の中で、関東よりさらに遠国に飛ばされたり、所領を削られたり、朝鮮征伐に行かされたりしないためには、秀吉に対して、敵対せず隠忍自重するしかないです。

さらに付け加えて、不要な存在になってしまう事も避けねばならない……これが家康の戦略、という解釈でした。
つまり、秀吉にとって頼りになる存在、すなわち政策顧問となるべく、家康は、京洛の知識人や堺の情報通と結ぼうと心を砕きます。

そういう、いかにも「父祖伝来の家臣団に飽き足らない」というステージの、まさに最初の一歩が、茶屋四郎次郎なんです(^^ゞ

茶屋四郎次郎は元は武士で、元の名を「松本清延」と書かれてますが、wikiで調べると「中島清延」が本名、と出て来ます。
小説では、元の稼業を武士とするだけで、誰に仕えていたとは書かれず、家康とは最初から顔見知りの出入り商人として、本能寺に信長が死ぬ直前あたりから出て来たと思います。

同時に、竹ノ内波太郎あらため、納屋焦庵も出て来て、本能寺の変を事前に察知したような、してないようなムードが漂います。

家康自身、長男の信康を切腹させるに至り、武田家を滅ぼした信長の刃が、ついに自分に向かって来たのを感じる……という流れがあり(^_^;)、何となく信長政権に翳りというか、限界を感じるんですね。

そういう世評のようなものが、信長の死の前後から必要になって、茶屋四郎次郎の登場がすごく増えるんです。
秀吉と丁々発止やってる間も、石川数正が出奔に至るまでの間も、家康の家臣は茶屋四郎次郎一人だけなんじゃないかと思うぐらい、その活躍は群を抜いてます。

秀吉の臣下となってから後も、その登場は頻繁ではありますが、代わって、本多正信の登場も増えてくる感じですか……。

ただし正信は、他の連中よりはイノシシじゃないだけで、家康の上げ足を取る発言が多い点、三河武士らと大差無いです(^_^;)。
家康が正義を重んじ、損得勘定だけで決定しないのを、深謀とは受け取らず、イチイチ揶揄したがる意地の悪い人間です(苦笑)。

正信と言うと、策謀好きというイメージがありますが、謀略に付き物なのは諜報網……。となると、伊賀者、甲賀者はどうか……。
う〜ん。今川から離れ、織田に走った頃に、デマを流す必要から出ては来ますが、殆ど出番ナシです(^_^;)。

家康の情報網を一手に支えているのが茶屋四郎次郎で、それが秀吉の死後から関ヶ原に至る頃に、いわゆる東軍組(藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・福島正則・細川忠興など)から情報が入って来るに至るのには、天海の考えが大きく関わってくるのです。

小説の第一巻、家康が生まれる前から、まるで話の主流格のように登場した納屋焦庵(竹ノ内波太郎)と天海(随風)ですが……。

天海に関しては、家康が江戸に来てから後が、驚きの展開(洒落じゃない(^_^;))でした!

これは、ドラマと大きく違うというか、小説の方が遥かにビッグイベントですし、正直ビックリしましたし、ある種、感動すらした点でした。

実は家康が、秀吉への対策で、外交派を育てようとしたり、知識人と知り合う必要性を痛感しだしてから、それが実を結んで、関ケ原の東軍を形作る諸将らと結託してゆくまでの推移は、天海に会う前と後で、二段構えなんです。

天海に会うまでの家康というのは、どこか本気じゃない(むしろ嫌々(^_^;))部分の否めない「天下人志望者」だったのが、「天海に会って変わった」と言えるとも思います。

つまり、この小説における家康というのは、「秀吉.で天下が収まるなら、もうそれでいいじゃん(^_^;)」と思ってしまう瞬間があって、それで小牧長久手の戦で、中途半端に戦線から手を引いてしまうんです。

勿論、頑固アタマの三河武士らは、家康のこういう軟弱な態度に、常に不満です。
時にその発露は、家康と秀吉の間を取り持つ役にさせられた石川数正に対して暴発。数正は逃げ出し、家康はウンザリし、両者は秀吉に慰められちゃう有様(汗)。。

家康もそんな家臣らに対し、意固地になって、朝日姫との縁談も、上洛も、臣下の礼も、そして関東移封についてすら、「トコトン秀吉に従う」腹を決めてしまうわけです。

(この時期の家康は、辛苦を共にしてきた家臣達より、よほど秀吉に惹かれてるんですが、秀吉の事は後で書きましょう)

しかし、それでは、家臣が納得して関東まで来てくれそうもありません。
家臣らの気持ちもわからないじゃありません。秀吉の傘下に就くという事は、徳川本体は滅ぼされないまでも、いつ縮小の憂き目にあうかわからないって事ですからね。
その場合、家康一人は何とか永らえても、彼についてきた家臣らまで、ちゃんとその先があるかは何とも言えませんものね(^_^;)。。

しかも、口が悪く、プライドばかり高い三河武士らです。 *ウンザリ*
仕方なく「天下を目指す」を掲げ、「だから関東で爪を研いで、秀吉の死を待ってるだけー」とか、家来の手前、嘯いてる家康です(^_^;)。。

(もちろん、三河武士の忍耐強さ、素朴さ、質実剛健さなどをいっぱい褒めてますし、天下を取る宣言をする家康が、それを聞いて喜びに沸く連中を見て、「秀吉に無いのはこの家臣たちだー!」とか涙ぐんで思うシーンなんかも、あるにはあるんですよ(^_^;)。。)

つまり、天海に会う前までの家康は、家臣らの手前、「目指せ天下人」の看板を掲げてるにすぎず、国内では靖国参拝して見せる癖に、アメリカに行った途端エルビス・プレスリーの物真似をする首相と大差ないです(苦笑)。

そこで、天海の登場です。二人の出会いはセンセーショナルでした!

私、家康と天海の対面シーンって、大河ドラマで見た覚えがありません(^_^;)。
そんなシーン、ありましたっけ?
しかし、そこにこそ、関ケ原や大坂の陣に登場する家康の付帯状況を決定づける「献策」が秘められているのです!(笑)

つまり、こうです。
朝鮮征伐に反対するな。してもどうせ取り上げられない。それよか、秀吉の傍に始終いて、秀吉に臣従した奴らを、そっくり自分の家来に頂いてしまえ

「織田がつき羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」←まんま

大河ドラマの『徳川家康』では、納屋焦庵(竹ノ内波太郎)がズバ抜けた天才軍師みたいな頭脳派であるのに対し、天海(随風)は、あくまでその弟分みたいな存在に過ぎませんでした。正直それほど存在感も無かったです。

前者は架空の人物のようですが、天海は史実の人であると同時に、物凄い長寿の人としても知られてますから、ドラマの設定上、納屋焦庵が先んじて世を去った後、その遺志を家康に伝えて、世を太平に導く補完的な役割なんだろう、ぐらいに思ってました。

実際ドラマで、その域を超えた存在には、全く感じられませんでした。

しかし原作では、天海こそが、これまで家康の前に現れる事のなかった、まさに人生の師として、ド〜ンとイキナリ大きな存在となるのです。
それは、納屋焦庵なんて全く問題にならない程の大人物!という突破力でした。

そして、それを山岡荘八が、ハッキリ断言するんですね!
納屋焦庵は高転びに転ぶが、天海はさりとてはの者、みたいな感じでした(笑)。

思えば、祖母の華陽院も、母の於大も、今川家の雪斎禅師も、大河ドラマでは偉い存在にしてましたが、小説では「通り過ぎていく人」という感じで、少なくても、天海を気に入り、その助言にいちいち耳を傾ける程、家康が意見を重んじた人達じゃなかったと思います。

実際の家康と天海がどうだったのかは、勿論わかりません。
歴史小説は、史実を取り上げつつも、あくまで創作の世界ですからね。

しかし、家康という人を、その生涯を通して見ると、本当に人格がいつの間にか変わってる、と感じるのは事実です。
私も「武将一覧」では、家康について、結局そう書いちゃってます(^_^;)。。

変化の転機をどの時点に見出すか、難しい点ですが、隆慶一郎の『影武者徳川家康』だと、関ヶ原の合戦中に家康が刺客に倒れ、影武者が入れ替わるんですよね(^_^A)。

でも私は、遅くとも関ヶ原が始まる前、つまり秀吉の死の直後には、その変化は完了してると思います。
となると、人間関係に積極的な変化が訪れる契機……やはり、父祖伝来の土地を離れ、人間関係も一新、すなわち江戸に行った辺りだな〜とは、私も見解する所です。

家康は江戸に行く前と後で、人格が大きく変わったと思います。
それはすなわち、関東で得た人材の違いと思うのが自然です。

この小説では、ちょうどその時期に天海との出会いを持って来てるので、関ヶ原の頃の家康と、スンナリ繋がって読める効果を生んでると思いました。

(私個人の想像としては、天海一人の影響と言うより、関東全般から受けた影響と見る方が、真相に近かろうと思います)

それにしても、朝鮮出兵に反対だった家康が、天海の提案で、賛成まではしないまでも反対もしなくなる。天海がいなかったら、やがては秀吉の逆鱗に触れ、もっと遠い、例えば東北に国替えされてたかも……とは、よく練られた当て推量です。

そもそも家康が秀吉に下るを決めたのも、世の中の平和のため……という解釈ですから、朝鮮出兵に対しては、当然反対派だった、という作りにしないと、道理が合わないわけです。

それを、家康が反対しなくなるには、誰か家康に対して強い影響を及ぼす人物が現れたから……安易な感じもしなくないですが(笑)、これはこれで良いと思います。

さて、朝鮮出兵についてですが……。
小説では、秀吉以外の全員が反対者と言って良いですが、ここで、さっきチラと書いた、秀吉をこの小説でどう描いているか……をちょっと書いておきます。

結論からいうと、メチャクチャ魅力的な描き方がされてます!

よく山岡荘八と言うと、『徳川家康』を読んだ人も、『織田信長』を読んだ人も、「信長が良い」「濃姫が良い」と言うのを聞くんですが、私は信長も濃姫も全く魅力を感じませんでした。
暴走族のボスとその女みたいな、ヤンキー夫婦に過ぎないじゃないですか(^_^;)。。

それと、よく秀吉の悪口を言う人に、歴史が好きな人の中でもちょくちょく出会うんですが、信長の後、「秀吉でなく、家康が天下を取れば良かった」という論調で話される向きを感じます。

この小説は、家康を主人公に描いてるんだから、家康こそ天下人に相応しい人物としてリスペクトされてると思いがちですが、秀吉が死ぬ所まで読んだ限り、必ずしもそうじゃない感じがします。

ただ、朝鮮出兵だけは完全否定されていて、秀吉自身、ずいぶんと初めの頃から「しまった」と思ったまま、ズルズルと終えられない状態が続いてしまう……という解釈に思えます。

秀吉は、よく色んなドラマなどで描かれる通り、老いるに従って感情に波が出て、短気に事を急いたり、怒り狂ったかと思うと、ボロボロ泣いたり、愚痴っぽくなったりはしますが、全体的には死ぬギリギリまで理性を保った描かれ方がされてます。

ただ、朝鮮出兵については、誰よりも石田三成が絶対反対という強い考えを持っており、これが秀吉の晩年の施政を、ずいぶん暗い雰囲気にした、という解釈でしたね……。

一番大きく影響が現れるのが、関白秀次の最期と、その家族が虐殺されるまでの流れです。
この事件の真相を、秀吉を朝鮮の戦役から目をそらさせるため、三成が国内にあらぬ噂を撒き散らした結果……と解明されてます。

なるほどー、と思いましたわ(^_^;)。。
ここにおいて、ごく初期の家康と三成の対立の構図がセットされるんです。
戦争容認派の家康と、反対&早期終戦派の三成……です。

石田三成を肯定的に扱ったドラマでは、秀吉の圧政を一人、三成が食い止める隠れたヒーローのような扱い方がされますが、その場合、朝鮮出兵が題材にされる感じがします。

大河ドラマ『黄金の日日』がそうです。
このドラマは、主人公が堺の船乗り、呂宋助左衛門ですから、堺や貿易の権益を守ってくれる存在が善玉で、三成が該当します。三成は助左衛門を陰に日向に助けてくれます。

そして、同じく堺の商人出身である小西行長と石田三成と、呂宋助左衛門と石川五右衛門などが、秀吉と朝鮮の間で、あれこれ画策して、戦争をさせなかったり、使者のフリをして誤魔化したりする話でした(笑)。

これは確かに、家康の側から見れば、何もかも「そんな小手先の子供だましでは、いつか破綻(露見)するのに(^_^;)」と言う具合に受け取れるでしょうね(笑)。

……そうそう。
ついでになりましたが、実は『徳川家康』の、特に秀吉時代を読んでると、「『黄金の日日』や『おんな太閤記』のネタが次々と出て来る(^_^;)」と感じる事が多かったです。

『徳川家康』が大河ドラマになったのは、上の2作品が大河化された後でしたから、オイシイ所は、『黄金の日日』と『おんな太閤記』で描き切って、使い古されてしまい、その2作品で取り上げなかったネタだけを取り出して……つまり、だいぶ「出がらし」状態になってからドラマ化されたのかもしれません(^_^;)。。

例えば、今言った呂宋助左衛門も、『徳川家康』には出て来ます(^_^;)。
『黄金の日日』はちゃんと原作のある作品ですから、助左衛門のキャラクターは、そりゃ『黄金』の方が良いですが……。

何しろ、『徳川家康』は名作なんですが、全26巻とすこぶる長編です。
大河ドラマとして扱うには長すぎて、取り上げるのが困難だったでしょうから、仕方なかったと思います。

が、ドラマとしては、『黄金の日々』『おんな太閤記』『徳川家康』の三点の原作、と見なしてあげる方が、山岡荘八の栄誉であろうと思います。

話は、だいぶ脱線してしまいましたが(^_^;)、何しろ、この小説における家康は、秀吉を大いに認めています。
だからこそ、「その後を継げるのは、自分しかいない」という自負を持つ、という作りになってます。

……確かに、家康の側から見ると、「簒奪」という意識は希薄だったのかもしれませんね。
そうでも思わないと、秀吉死後の徳川主従の国全体に対する態度って、「どんだけ図々しいのよ(^_^;)」って感じ濃厚ですもんね(笑)。

……又、長くなっちゃった。今日はこの辺にしときましょう(^^ゞ。


〜後略〜

(2018年01月10日・記/07月22日・掲載)

城主

 
     


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