「光の情景」
作/こたつむり



〈第9章〉11
   
  五月の事だ。国立O病院の産婦人科に顔を出していた時、時々内科で顔を遭わせていた患者が自殺未遂をして、精神科の方へ移された。教えてくれたのは、内科でよく会っていた患者の一人だった。入沢が、前から精神科の治療を要請していたと聞く。
  自営の会社が倒産し、妻は家出し、母親は寝たきりになるという、それこそ新聞の三面記事にでも出てきそうな、社会に至極当然のごとく存在する悲劇を一人背負ってしまい、言語障害に陥って内科に通院していた人だった。
  この人は入沢にとっては国立O病院のころからの患者で、実は今でもO病院の医者に診て貰っているのだが、私の他にたった一人、入沢を追い掛けて、わざわざ遠いK病院にも来ていた。
  奇妙な患者いう点では、私とも一致する。診察に来るというより、入沢に会いに来ている感じだ。特に定期的に、というのではなく、突然ひょっこり現れる。
  はじめから精神科の受け持ちで、前の病院でも入沢は丁寧にそちらへ移るよう薦めていたのだが、このくらいの年令になると、精神科の治療を受けるイコール気違いになった、という抵抗感でもあるのか、私もその患者に直接、
「アタマは、どこも、おかしく、ないよ」
  と、つっかえつっかえの言い訳を聞かされた事がある。入沢は手をやきながらも例によって無理強いはしない。肝臓障害という診断名もついている。
  この患者も以前、入沢にはベッタリだった。通院もずいぶんと長い。由有子が亡くなる前にも、よく入沢がその患者にむかって、
「うーん、そっかあ……それは困るなあ」
  などと笑いながら、すれ違う廊下で話していたのを、私はよく覚えている。彼は一時期かなり回復していたようで、
「先生も競馬は、よく見に行かれるんで?」
「いやあ、僕はあまりよくわからないんですよ。勉強不足でね」
「おやめになったが宜しいですよ。自分のようになりますからね」
  などの会話を耳にしながら、私は、入沢が競馬に手を出すハズがないではないか、とこっそり苦笑いしたものだ。
  その患者は言語障害だけでなく、耳も遠いのか(工場づとめが長かったと言っていたので、その関係もあるのかもしれない)実に声が大きい。診療所中に鳴り響いて、こちらも聞いてないふりすら出来ない。
  私と同じく中で待ってる患者もみんな笑いをこらえて聞いていた。一見気さくなオジサン風で、とても自殺するようには見えなかったが、日によっては怒ったように黙り込んで、挨拶も拒否するような所があった。躁鬱の気でもあったのかもしれない。
  入沢の応対は温かく、このオジサンにいきなり説教されても、おとなしく聞いているのが自分の勤め、といったような謙虚ささえ感じられた。オジサンの決まり文句は、
「先生はねえ、ちょうど死んだせがれと同い年くらいでしてね。出来が良くってねえ……。生きてれば先生みたいに、医者にくらいはなれた奴でしたよ」
  というものだった。これが、やや挑発的に聞こえる向きもあったが、入沢はこのオジサンにどんなにしつこく聞かれても、自分の父親も医者だとは言わなかった。
「自営業なんです。大変ですよ、やはり。年々厳しいようですね」
  などと言っていた。
  オジサンが、はじめて入沢の新勤務先であるK病院に来た時は私も驚いた。入沢と友達である私はともかくとして、普通は主治医が変わったからといって、その勤務先にまで来る事はないように思う。国立O病院で入沢に、今度から他の先生に診て貰うように言われているのを、偶然(いつも診察所で会うとは限らない)私も見た。
「そうかい、もういなくなっちゃうんですか。寂しいね……」
  なんて言いながらも、陽気に笑っていたものだ。
  だからK病院に突然現れた彼を見て、入沢も自分の引き継ぎの後、何か不都合でも起きたのかと心配になったようだ。
「ここは遠いでしょう? 無理しちゃいけませんよ」
  などと言っていた。肝臓が悪いのだから、確かに無理は禁物なのだ。ところが、そのオジサンときたら、
「ちょっと通り掛かったんですよ。この辺に用があってね。先生がこっちでもちゃんとやってるかどうか、見に来てやったんだから」
  なんて言って威張っている。どうやら前の病院にはちゃんと通院しているとわかると、入沢もようやく安心し、少し話してるうちに、早速、
「親孝行しなさいよ。親ってのはねえ、口ではうるさく言っても、子供の事はいつまでたっても心配なものです」
  と説教をされていた。入沢はカーテンに隠れてその表情までは見えないのだが、相手が耳が遠いものだから、これまたそういう患者には医者として慣れたもので、彼にしては声が通常よりデカくなり、
「相野さんに会うと、そうだなあって思います」
  と答えていた。自分を追い掛けて、わざわざ顔を出してくれたのだ。悪い気はしないだろう。
  それが最近では、何を言っても入沢は、
「そうですか」
  だったのだ。
「えっ?」
  などと大声で聞き返されても、ため息でもついてる様子で、繰り返し言う試みに至らない。
  私は、決してその患者が入沢のせいで自殺しようとした、などとは思わないが、どこかガッカリしないではいられない。
  そして、今六月。私はK病院に来るのは、これまでにしようと思っている。元々通院するほどの病気でもないのだ。今になって私は、由有子が死んでからもなお、何らかの変化を期待して入沢を見にここに来ていた事を、つくづく認めざるを得ない。
  今まで病院が、老人たちの憩いの場、コミュニケーションの場と化しているのを、それでこんなに混むのだと内心苦笑してきたのに、その自分もご多分に漏れずそうだったと思えてきた。かつての思い上がった鷹子のように、私も自分だけは特別であり、職業柄、治療を受ける義務があるのだ、と思い込んでいたのだが、今の私は産婦人科の方はともかくとして、その他には自分でもはっきりと通院する必要性を否定できる。
  関沼先生が、裁判でほぼ勝訴間違いなしと知らせてきたのは、つい最近だ。
  私は、この一年あまり、ひょっとしたら由有子は、本当に事故で亡くなったのではないか、という思いに何度となくかられた。
  心の弱さと言われても仕方ない。遺書と思っていたあの手紙も、日常のちょっとしたメッセージだったのでは、と思った事がないでもない。なぜなら彼女は、
「私は元気です。私は死にません」
  とはっきりと言ってきたからだ。
  しかしこんな言い訳を、私は入沢を見るたびに打ち消さねばならなくなる。裁判では事故でまかり通っても、あの子が本当にただの事故死でその生命を終えたというなら、入沢は以前にも増して、人の生命の尊さを思い、その救済に彼の全身全霊を傾けるだろう。それこそが由有子への供養となり得るだろう。現に、葬式の頃までの彼は、そうした決意を胸に秘めていたように思えた。
  しかしその決意は崩された。由有子の指し示した光の方向。入沢にはそれが理解できなかったわけではあるまい。誰よりも由有子の祈りを彼は知っている。しかし、彼はその祈りを由有子の魂と共に葬り去った。彼は結局、由有子その人自身を救う事はできなかったのだ。

  五十才近くにもなって、子にも妻にも先立たれてしまった関沼先生や、入沢とその家庭を支えていこうとする君子の献身を考えれば、こんな事は決して口にすべきではないのかもしれない。でも、今になって、私の心は叫ばずにはいられない。
  由有子は入沢と結ばれるべきだったのだ。私には彼らと知り合ってから今まで、いつも心のどこかにその思いがあった。
  確かに二人は、それぞれ別々の人生を歩み、その事によってそれぞれの幸福を手に入れ、私もその都度、これで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせてはきた。そして彼らは互いに、相手の幸せを心から喜び、相手が不幸にある時には、自分とでは無いにせよ、心底相手がはぐぐむ幸せをも願っただろう。そこにはつまらぬ嫉妬も恨みもなく、たとえ自身が不幸の谷間にあっても、彼らには、相手の幸福だけを祈る姿勢だけがあった。
  しかし、それは裏を返せば、二人にとってそこまで愛せる相手はお互いしかなかったという事ではないだろうか。入沢と美樹や君子。関沼先生と由有子がそれぞれ育んだ愛に嘘があったとは言わない。二人とも、それぞれの愛を大切にし、人生に対する真実も全うしぬいてきた。
  しかし、由有子を失った入沢は、この先一体なんのために医者をやっていくのだろう。
  もちろん彼の医療に対する熱意が由有子のためだけにあったと言うのは、単純であり、意識が低すぎるのかもしれない。でも、それならこう聞こう。
  入沢はなんのために医者になったのだろう。どんな精神、どんな心境を根拠に、そしてその一番根底をなす動機はなんだったのか。
  入沢のあの、誰にも真似できない慈愛の姿勢。それは単なる偶然で出来たものとは私には思えない。由有子との出会いすら人生の偶然と見なすならば、これほど貴重な偶然を人は何度も体験しうるものだろうか。
  彼の半生にきらめいていた、あの瞬間を私は忘れられない。それはすべて、彼の患者を通して由有子に捧げられていたとしか私には思えない。
  安っぽい感傷だろうか。そうかもしれない。それならそれでいい。むしろその方がまだいい。私はこの先入沢が、救いを求めて、その全身をもって彼にすがりついて来る患者に対し、何を心の支えにして接して行くのかが、やはり案じられてならない。

     
 
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