「光の情景」
作/こたつむり




〈第9章〉12
   
  こんな想像は、今むしろ空しくただ哀しいだけなのだが、私は、入沢と由有子が結婚していたら、と今考えずにはいられない。入沢は由有子を求め、由有子によって輝き、由有子も又、幾度となく振り切りながら入沢に助けを求め続けたではないか。彼らは、彼らの妻や夫の他に、いつも彼らの互いを求め続けたではないか。もし、二人が結ばれていたら、二人にとって互い以外の存在を他に求めただろうか。
  こんな哀しみは人生にはつきものなのだろうか。しかし、あれほど優れた美しい魂の持主同志が、どうしてこんな哀しい人生を終わらなければならないのだろう。優れた者が幸せになり、そうでない者は不幸になるべきだ、などと、そんなバカげた事を言うつもりはないが、それでも、他のどんな人々よりも、あの二人は幸せになる権利を持っていたはずだ、とどうしても思えてしまう。少なくても私は、彼らには最高の幸福を手に入れてほしかった。
  そして、彼らにとって最高の幸福を手に入れるためにはどうしたら良かったかを考える時、やはり私には、入沢と由有子が求め会う心のままに結ばれる以外、どんな方法もそれ以下に思えてきて仕方がない。そうした行き場のない後悔を感じるたびに、彼らにかかわってきた自分の人生も、今また、はっきりと哀しみに塗り潰されてしまったように思える。
  今、私は入沢のどこからも、彼に長い間感じ続けた、弾けるような魅力を感じ取る事はできない。入沢は天性、誰に対しても親切に接する事のできる人間だと思う。彼は相変わらず真面目で、そして慇懃なほど丁寧に仕事をし続けるだろう。
  元々彼という人間は、無用な欲や情念を天性持ち合わせていない。それが彼のいいところだったかもしれない。そういう意味では、入沢は確かに、この世に医師として最上の器を持って生まれてきた。
  しかし人間は、器だけで何かを成し得るものだろうか。今や、彼の抜殻が演じる空虚で無機的な風景には、固く閉ざされた、永遠に破れる事のない冬を感じないではいられない。いや、診療所で患者を診るその姿には、どこか空々しささえ漂う。彼が天性持っているもうひとつの姿……自分すら他人に預けがちな、どこか無意識の狡猾さすら感じなくもない。
  彼の性格や才能の器用さから、彼の将来からは良き医者、良き夫、良き父親の姿を連想する事はできる。そこに家庭があるかぎり、不幸があるようには思えない。
  しかし、なんとかして病人を直してやりたいと思う情熱、温和な彼が根底に持ち続けた病に対する憎しみは、由有子の存在なくしては植え付ける事のできないものだったのだ。
  彼は研究をついに断念してしまったが、医者からこの世の病を潰滅させるための強い情熱を取ってしまったら、医者にとって医療は、ただの生活の手段と何が違うだろう。
  医療とは、他の多くの者が生きがいとばかりにしがみつくどんな仕事より、真実の理想と生きがいを内包しなくてはならぬものではないだろうか。
  しかしそれは、光無しには継続できない。

  入沢について書くのは、これで終える事にしよう。
  最後に、書き忘れた人のその後の経過を述べたい。
  まず、入沢の初めの妻、美樹についてだが、彼女はあれから再婚した。地元の人とであるらしい。地元に帰り見合いでもしたのかもしれない。
  ただあれ以来、私は彼女とは直接連絡を取り合っていない。美樹が望んでいた海外留学があの後果されたのかどうかはわからない。当初、美樹は地元に帰るのを嫌がっているように思えたが、いい人に巡り会い、美樹が納得したのであれば、美樹にとって幸せな道だったと思うより他にない。相手の男性は公務員で、薬品の研究員をしているようだ。彼女の再婚は、入沢と君子の結婚より少し早かった。
  次に理恵だが、理恵は相変わらず独身貴族をしている。彼女はもう三十代に突入している。このまま独身で通すのかもしれない。いつか由有子が、理恵を結婚させるという私の言葉を聞いて、
「わあ、もったいない」
  と言った事をちょっと思い出す。
  由有子がこの言葉に自分の結婚を重ね合わせていた、とはさすがに思わないが、由有子も又、自分と面影の似た理恵に対する思い入れがあったのかもしれない。そして、理恵を独身のままにしておく事に満更反対でなかった事などは、由有子が自分のもうひとつの生き方を、理恵の中に夢想するような所があったのではないか、と最近思えなくもない。
  意外だったのは、この理恵だ。理恵は由有子の死の知らせを聞くと、まるでおのが友人の死を悼むかのように、ふさぎこんでしまった。
  私は初め、理恵が自分の分身として由有子を捕え、それを失ったショックでそのようになったのか、と思った。そして、由有子亡き後は、我こそ由有子の分身なりとばかりに入沢に付きまとい出すんじゃないか、と少しは気を揉んだものだが、どういうわけか、その後理恵はプッツリと入沢と交際しなくなった。入沢の方からはもちろんだが、理恵の入沢に対する動きは全く途絶えてしまった。理恵は入沢の名前すら言わなくなった。
  理恵にはどこか筋目を通さなくては気の済まないような所がある。由有子という、入沢の心のより所の死によって、その代わりに入沢の心の隙間に入り込む事を潔しとしなかったのか、代役にすぎない自分に、プライドの喪失でも感じたのか、私にもよくわからない。
  あるいは私と同様に、人の変わってしまった入沢に、同情以上のものを感じ得なくなったのかもしれない。
  理恵は長編の恋愛ものの連載を編集サイドに依頼されていたのだが、その主人公の女性の名が、
「ゆう子」
  と命名されていたのに驚かされた。
  その主人公が音大を卒業し、将来を夢見る天才新進ピアニストとして人生のスタートを切る所から、ストーリーが始まっている。
  今、その連載の第一回が掲載された雑誌が発行された所だ。題名が「光と影のノクターン」。
  その意味はまだよくわからない。今時、ピアノにかける少女の根性漫画? と思わぬでもないが、理恵らしい大袈裟なタイトルではある。理恵の作品は意外とコレがウケる。
  連載は二十回ないし十五回程度の枠だと聞くが、まだ、一回めの今から理恵は、
「二十回じゃあ終わんねえだろうなあ、多分」
  などとうそぶいている。理恵は連載引き伸ばしの天才だから、あるいは初めからその手で行くのかもしれない。
  主人公の女の子を通して、理恵の捕えていた由有子の面影を、私はどうしても探してしまうのだが、そういう私の彼女の作品に対する視点が、深読みなのか的を得ているのか、とんでもなく邪道なのか、なんとも図りがたい。
  ただ、なんとなくわかってきたのは、理恵にとっても又、入沢という存在は由有子を映し出す鏡だったのかもしれない、という事だ。
  理恵が由有子の生前、私にしつこく由有子の説明を求めていた事を今思い出す。あれはただ単純に、入沢に接近するため……理恵が由有子を演じるための手段であったのではなく、やはり彼女の何かが、由有子自身に魅かれていたのかもしれないとも思える。
  あるいは理恵も又、私と同様に、作家として由有子という素材にホレ続けてきたのかもしれない。そして、入沢に対し、由有子を映し出す鏡を演じているかのように装いながら、その実、入沢の方こそ理恵に対し、由有子を映し出す鏡の役を果してきたようにも思えてくる。
  今、まさに入沢から吸い取った由有子の姿を、理恵は彼女の作品の上に映し出そうと試みているのかもしれない。将来を宿望され、ピアノの前に座る天才少女の姿。人生や芸術に真正面から悩み、多くの困難を乗り越え、真の愛と幸福を手に入れる少女のサクセスストーリーというふれこみで、編集から連載許可を取り付けたそうだ。
  その風景……。
  それは、入沢が由有子に望んだ姿だったのかもしれない。  〈終〉
     
 

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