「光の情景」
作/こたつむり



〈第9章〉8
   
「この絵を前田が?」
  入沢は受け取ると、見入っていた。
「昔のよ。下手くそなんだけど、いつか由有子にあげたのよ」
  と言って、あげた時のいきさつや、これがかえって来た時の由有子の言葉を伝えた。
「そうか……」
  と言った入沢の顔を見て、私は、あっと思った。ほんの一瞬、あの懐かしい、高校の頃の彼の笑顔を見た思いがした。
「ありがとう」
  彼は優しくほほ笑んで受け入れた。
  入沢はジッと私を見ている。やがて彼の両眼が潤み、痩せている彼のほほを濡らしながら涙が流れ落ちていった。そして彼は、
「前田、ありがとう。由有子も君にそう言っていた」
  と、いつかあの八重桜の散る中で、私に言ったのと同じ言葉を言った。

  由有子も君に……それはいつの事だろう。彼がアメリカで最期に由有子に会った時だろうか。それともその前か。あるいは、彼の心に今もなお住んでいる由有子が言った言葉なのか……。

  年が明けて、二月の終わりごろに、堀内鷹子から手紙が届いた。
  私はそのブ厚い封筒を手にして、又何か抗議でもふっかけて来るんじゃないか、とドッと胸が暗くなった。
  今こんなものを受け取っても、私にはもう今更何か手段をこうじる気など消え失せている。入沢の母親は、私にいつまでも入沢の良き友人であってほしいと望んでいたが、由有子のいない今、私ははっきりとその無意味を悟っていた。由有子を失った入沢という人物は、私にとってあくまでも古い同窓生にすぎないし、これは決して入沢の責任ではないのだが、私には今の入沢には、友人としてつながっていたい部分を感じ得ない。
  入沢はひとまわり小さくなった。病院でも、どこにいるのかわからないほど、まわりの風景……病院の器具や殺風景な雰囲気の中に溶け込んでしまっている。彼の白衣からも、清潔さは感じられるが、救いを見出すほどの眩しさはもう感じられない。言ってしまえば、他の医者と見分けがつかないし、下手すると他の医者より、さらに存在感がない。
  入沢のカルテを書く姿……その横顔からは、おそろしくつまらない男になった、という印象を受けてしまいがちだ。これは以前の輝くような表情を知っていた私の感覚であって、他の人が見れば、あの優しさや親切なしゃべり方、品の良い振る舞いは、それなりに価値のあるものなのかもしれない。が、私には、彼が、彼の座っている椅子と同化してしまっているようにしか見えない。
  鷹子が今の彼を見たら、どう思うだろう。やはり同じように感じてガッカリするだろうか。それとも彼の中になんらかの魅力を感じてまた執着するだろうか。
  しかし今さら、私にはどうでも良いことだった。由有子のためにこそ、入沢の周辺に危険が感じられた時、何かどうにかしなくては、と思っていた自分に気付かざるを得ない。また今の彼には、放っておいても鷹子を突き放すだけの、何か特種なものが備わっているようにも思える。首を上げ、鷹子を見下ろしながら、
「心配してもらって、ありがとう」
  と冷たく言い放つ図が、容易に想像できる。
  しかし、彼女の手紙には意外な事が書いてあった。
「久世さん。私は今まで、長い長い間、どうしようもない暗がりの中にいた、とはっきりわかります。
  ドイツに行っても、見るもののすべてが入沢さんを思い起こさせて、とても音楽の世界に触れる勇気もなかったのだとわかったのです。
  私の指は、動かないと長い間思い続けてきたのですが、それは、単純に動かすのをやめていただけだったと、ようやくわかったのです。
  ある時、ハンブルグにいる音楽学校の先生に、ピアノを見るから音楽を苦しく思うのだったら、ピアノのない所で弾けばいい、と言われ、カーテンをひいた真っ暗の部屋の中で、先生が言いました。
『あなたは誰?』
『堀内鷹子です』
『あなたの好きな食べ物は?』
『ええっと……アイスクリーム』
『好きな色は?』
『白』
  すると次に先生は、
『あなたは誰?』
  と歌い始めたのです。とってもきれいな声でした。その先生は声楽家なのです。私は先生みたいに歌が上手じゃありません。恥ずかしくて黙っていたんですが、先生は又、きれいな声で、
『堀内鷹子です』
  と歌ってくれました。そして続いて、
『あなたの好きな食べ物は?』
  と歌うので、私も笑いながら、
『アイスクリーム』
  と歌い返しました。恥ずかしかったんだけど、先生にだけ歌わせているのが悪いな、と思ったからです。でも、声はのどにつっかえてるし、メロディーもメチャクチャです。先生が続けて、その会話をメロディーにして歌い、私も適当なメロディーをつけて応えて、そのうちに歌うのが恥ずかしくなくなってきました。
  先生が手探りでピアノの和音を弾いて、同じように歌問答を繰り返して行くうちに、私はだんだん楽しくなってきて、ずいぶん大きな声で歌いました。私は歌の方が向いてるんじゃないかな……ってその時思ったくらいです。
『うまいうまい、あなたは歌が上手だわ』
  と先生は誉めてくれたんです。そして私を呼び寄せて、
『ピアノだと、もっとうまく歌える』
  と私の指を鍵盤に乗せたのです。
『私、弾けないんです』
  と言ったんですが、先生は、
『メチャクチャでいいのよ。ほら……』
  と言って、本当にメチャクチャな音を出したんです。
『あら、真っ暗だからどこを押してるのか、わからないなあ』
  って先生は言うんです。声楽の先生ですから、もちろん音楽の大学を出た人です。真っ暗だからって、こんなにメチャクチャにしか弾けないなんて事あるのかな……って私は思ったんですが、先生にだけ恥をかかせるのは悪いと思って、私もマネして弾いてみたら、本当に私もよく間違えるんですよ。
『いやだわ、これでも弾けるようでないといけないのに』
  って私が言ったら、
『じゃあ目隠しをして弾く練習をしなくちゃね』
  と言って笑いました。
『でも、せっかく目が見えるんだから……』
  先生はそう言って、カーテンを開けて、
『これで弾いてごらんなさい』
  と私に言いました。
  その時の外の眩しかった事! 私は一瞬、白と黒の鍵盤を見て、ドキンとして、足がすくみそうになりました。
  でもピアノは弾けました。いつもつっかえる所では、相変わらずつっかえるんだけど。指が動かなくなってから、ピアノを弾くといつも詰まってしまう所ではやっぱり詰まってしまうんだけど。別に指なんか動かなくたって、どうって事ないやっていう気になってきたんです。弾けない部分は歌ってごまかしました。
  その後、ずいぶんと長いあいだ、私はそのように、いい加減な弾き方をしてみました。……というより、相変わらず指が動かないんです。でも、今までは指の病気を気にして、指を痛めるのが怖くて、ちょっと弾くとすぐに控えていたのですが、そのうち、
『もうピアニストになるなんて、どうせ無理なんだから、弾きたいように弾いてやれ』
  という、ちょっとヤケクソな気分になってきて、手首が疲れてきても、おかまいなしに弾くようになりました。しかもその時々、弾きたいと思う曲だけをいい加減に弾いていました。
 
     
 
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