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「光の情景」
作/こたつむり
〈第9章〉4p
もうずっと……私と同じように知りながら、いや、私より更に長い年月を、誰にも言えず、ただ黙って見守り、その思いの中で耐えてきたのだろう。そしてその結末に、このような不幸な由有子の死に涙を流すより他にないというのか。
たとえどのような因子、どのような付帯状況を抱えていても、入沢が望み、幸福になれるのであれば、由有子を迎え入れてやろうとする母の愛。入沢のあの救い上げるような優しさはこの人によるものなのだろう。
彼女は少しの間、悲しみを反芻するように、あるいは亡き人を偲ぶかのように沈黙した。私もそれに倣った。静かな寺の庭にサアッと柔らかい音が起こる。
雨……。
やがて、入沢の母親は静かに私を見詰めた。その瞳には穏やかな品の良さが供わっている。
「私も由有子ちゃんが大好きだったわ」
彼女は静かに言った。私も静かに頷いた。
「本当にあんないい子は他にはいないわ。あの子が私の娘だったら、健治の妹だったら、どんなに良かったかしら。そうしたら、どんな事でもしたあげれたのに……、そう思うと本当に哀しいわ」
その思い。そう、私も同じだった。由有子に届かぬ自分の手をどんなに呪わしく思い続けただろう。
「私も由有子を日本に帰してあげようって、入沢君と言っていたんです。由有子は入沢君のそばにいた方がいいって」
何もかも繰り言になった。誰かが何かで、
「人の死を悲しんで流す涙は、実は自分を哀れんで流す涙だ」
と書いてあるのを読んだ事がある。実際その通りだった。泣いても悔やんでも、もう由有子は帰って来ない。ただ私たちは、後悔と無念の心を今、ここで吐き出しているにすぎない。しかし、少なくても私にとっては、私以外にもう一人、あの二人を見守ってくれていた人がいたと知って、確かに救われた思いだった。
入沢の母親は再び話し始めた。
「健治は研究を止めて、大学を離れて、家を継ごうとしてくれているけれど、それがあの子にとって、本当にいい事なのかどうかわからないわ。ただあの子がそう言い出した以上、それを受け止めるしかないと思うの。主人は元々そのつもりだったのだし」
「去年、由有子や入沢君と長野に行った時ですけど」
私は遠くを見ながら口を開いた。
「入沢君と由有子が帰った後で、昔、由有子が住んでいた所に行ったんです。由有子が行けなくなってしまったので、代わりに行こうと思って。そうしたら地元の病院で、入沢君と同じ年令くらいのお医者さんが働いているのを、偶然チラッと見たんです。その時、由有子が考えていた入沢君のお医者さん像って、こんな感じかなって思ったんです。なんとなく……」
私にはあの時の理恵が、由有子だったんではないだろうか、と思える。
「あっ! 入沢先生だ」
と、理恵は声を上げたが、本当にあれは入沢に似ていた、と私も思った。私はその話を由有子にもしたいと思っていた。
「もしも入沢君が、特にこの先研究を続けなくてもいいと言うのなら、何も大きな病院にいる必要もないのかもしれない、という気がします。お医者さんの事はよく知らないけど、君子さんは、旦那さんが大きい病院の先生でなくてはイヤだ、というタイプの奥さんじゃないし」
無責任なようだが、私にはそんな事しか言えない。
「そうね、あなたの言う通りなのかもしれないわ。あの子は後になってやっぱり研究をしたかった、なんて言い出さないでしょうから。それでいいのかもしれないわ」
私の言うのを聞いて、彼女も素直にそう答えた。
私には、今はむしろ総合病院で淡々とした日々を送っている入沢の方がいたたまれない。
入沢の何がどう変わった、と説明するのは難しいのだが、以前の入沢は患者の話しを、いちいち頷いて感情をこめて聞いてやり、患者の話しが終わった後に、腕を組んだり、首を傾げたりしながら、真剣に手だてを考えていた。
それはまさに、高校の頃、由有子に体の不調や相談事を持ち込まれた時の通りの表情だったのだが、この所の彼は、親切で丁寧な態度だけは相変わらずだが、患者が自分の容態について話していても、まず頷くという事がない。目も患者をあまり見ない。カルテを見て、ちょっと考える顔付きになり、最後に患者の方を向いて首を上げ、見下ろすような目つきで、診断結果や病気の説明、生活上の注意などを一気に言う。
冷淡という感じはさすがにしないが、特に混み合っている時などは、一人一人の患者に対して、おそろしく事務的な態度を取る。見ようによっては、実験用動物でも扱ってるように感じなくもない。
勿論、私は看護婦のように彼のそばに始終いるわけではないし、自分以外の患者との会話は、直接覗くわけにもいかないから、雰囲気でそう思っている部分は多いだろう。しかし彼の表情については、患者が部屋に入る時、患者と彼が廊下で会う時、診療室から出てきた患者の様子から察する事はできる。
相変わらず身のこなしは上品でスマートで、どこかに落ち着きを持っているのだが、彼の背を見ていると、ひとまわり小さくなった感じがする。私は由有子を失ったために、一時的にそんな姿勢を取って、心の傷を見せまいとしていると思った。そして、確かに入沢からは、初めは、わざとそのように振る舞っているように見える所もあった。
しかし、入沢からはその後、徐々にわざとらしい気負いすら消えて行き、やがて、ただ与えられたノルマを果そうとする、白衣を着た男の姿だけが残った。
私は驚愕した。入沢から由有子を抜き取ってしまうと、このようになってしまうのかと思った。心の支えというより、むしろ生気そのものだったのではなかろうか。
この入沢の変化に気付いているのは、私だけではない。待合い室や廊下でも患者が、
「あの先生ネクタイを変えたみたいね」
とか、
「今日はとてもお忙しそうだったね」
とか、それぞれどこか入沢の印象の変化を府に落ちなく感じてはいるものの、自分なりの解釈をして結論づけている。あるいは、はっきりと、
「何かあったんでしょうか」
なんて私に聞いて来る患者もいる。私が入沢の知人だという事を知っているからだ。私は黙って何も答えないか、
「いいえ、別に。疲れているのかもしれませんね。忙しいようだから」
などと、つい冷淡な受け答えをしてしまう。
そういう私の言葉に、あるいは不審感を抱く患者もいただろう。しかし、それ以上突き詰めて詮索はしない。彼らは、私や前の病院の患者たちと違って以前の入沢を知らない。入沢はK病院に来てまだ日も浅い。慣れてくると初めの頃とは印象が変わってきても仕方ないのかもしれない。そんな風に解釈している人もいるようだし、それ以前に、一人一人の患者にとっては、医者など所詮通りすがりの存在に過ぎない。
七月も終わり頃になると、ようやく暑くなってきた。
私は君子に招かれて入沢の家に遊びに行った。夕飯を食べて行ってくれと言われたが、この日は用田が早く帰って来ると言って家を出たので遠慮した。
「じゃあ、せめて健さんが帰って来るまで」
と言って、君子は私を引き留めた。君子も入沢の変化に気付き始めている。
「由有子さんが亡くなったでしょう? きっとそのせいだと思うんですよ。由有子さんは健さんの初恋の人だったから……」
と君子もはっきりと認めた。
「初恋の人? 誰が言ったの?」
「健さんから」
「そう」
私は、少なくても入沢が君子にだけは素直に、なんでも話そうとし、話せる状況には、安心があった。
おそらく、前の妻、美樹ではこうはいかなかったろう。美樹は意外と、入沢の由有子に対する思いに気付いていたかもしれない、とすら最近思うようになった。あの鋭すぎるくらいの美樹だから、見抜いていたような気もする。ただ、夫の口から聞きたくはない、という感じも彼女にはあった。機転のきく人だったから、夫の告白を聞いても、大人の度量とユーモアで受け止めたとは思うが、君子のように、他人の私にまでヌケヌケと、
「由有子さんは初恋の人だから」
などと言えてしまう、ある意味ズボラな態度には出られなかっただろう。又、入沢が大学病院を辞めるという気になれたのも(それがいいか悪いかは未だにわからないが)、夫の仕事に良く言えばそれほど干渉しない、悪く言えば無関心な君子が相手だからこそ、とも思える。