「光の情景」
作/こたつむり



〈第9章〉3
   
  しばらく私たちは横に並んで座ったまま、何も話さずにいたのだが、やがて彼女の方から、
「ねえ、大変ぶしつけだけど」
  と話しかけてきた。
「何ですか?」
  私は笑顔で答えた。
「以前、片桐の妹がね、あなたの事を噂していましたの。うちの健治の事で……」
「あっ! あれ! あれは誤解です!」
  私は今頃になってそんな話題が出るとは思わなかったので、結構慌ててしまった。
「ええ、わかっているわ。本当にあなたには御迷惑をおかけしてしまって。あの時はお一人でいらしたのにね。いつか、一言お詫びしたいと思っていたんだけど、……ごめんなさいね」
「いいえ、いいんです。入沢君と噂を立てられるなんて、大変名誉な事ですもの。でも、あれは本当に違うんです」
「ええ、私にはわかっていましたよ。難しいわね、男と女って。世間ですぐにおかしな事にしちゃうでしょう? でも、私は、内心あなたが健治のお友達でいて下さったので、とても心強かったのよ。これからもずっとお友達でいていただきたいと思っているの。だから、本当にあの時の事は一言謝っておきたかったの」
  と彼女は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいえ。でも、彼もいろいろあったけど、立派なお医者さんになられたし、奥様もお子様もいらっしゃるし」
「ええ……でも、あの子、昔は医者にはならないって言ってたのよ」
  と入沢の母親はクスクス笑いながら言った。
「そうなんですか?」
「ええ、ほら、反抗期ってあるでしょう? うちの主人がね、自分が医院をやっているから、単純に健治は医者になって俺の跡を継げって思っていたんですよ。それで、あの子は、俺は医者になんかならないよって言ってたんです」
「まあ。あの入沢君に反抗期なんて、信じられない。じゃあ何になりたかったのかしら」
  と私が聞くと、彼女はコロコロと笑い出した。
「それがね……。医者にはならないって言うだけで、何になりたいっていうわけでもなかったんでしょうね。あの子って、特に何かをやりたいっていう所が昔っからない子でね」
  入沢らしい気がする。あんまり我の強い感じのしない男だ。
「あの子がどうして医者になる気になったか、ご存じ?」
  ふと、真面目に彼女は私に問い掛けた。私はそれを聞くと胸の中にスウーッと隙間風でも吹くような気持ちがした。
「あの子ね、あの子……大学病院を辞めて、入沢医院を継ぐと言い出したのよ。それはご存じかしら」
「ええ……知っています」
  入沢はM大病院の医局に在籍している。現在勤めているK病院もそこの支店病院(ブランチホスピタル)である。今までも病院勤めをするかたわら、入沢医院には時々顔を出していた。だが、入沢医院の院長になると言うからには、前にも書いたが、時々顔を出すというのではすまされない。
  父親が開業医だからと言って、息子が跡を継ぐ事になるとは限らない。入沢のように兄弟揃って医者になる家ばかりではなく、息子がサラリーマンになってしまうケースも多い。又、入沢兄弟のように、医者になったからといって必ずしも父親の跡を継ぐとも限らないらしい。
  年々開業医の経営には厳しい状況が加わり、総合病院なみの施設を揃える資金繰りが困難なために、患者が離れていったり、設備投資の行き過ぎで倒産したりするケースすらあると聞く。そんな困難な状況の中で、研究途中で大学病院を離れ、父の跡を継ぐ入沢の態度は、世間では親孝行と受け取るだろうが、当の入沢の姿にある空虚な影を、私だけでなく、入沢の母親も又、案じているのかもしれない。
  入沢は明らかに変わったと私は思う。そして、由有子の死の原因を知った日から、私は入沢がそのように変わっていってしまう事を知っていたような気がする。
「お父様のお体の具合が、あまり良くないとかで……」
「ええ、でもそんな事は今に始まった事でもないんですのよ。せっかちなもんだから、主人も健治をせっついてばかりいてね」
  彼女はふふっと笑ったが、そこにはどこか寂しさが漂っている。
「入沢君は研究もやめるんじゃないのかしら……」
  私は入沢について、心配な事を言った。入沢の母親はそう言う私を、それほど驚きもせずに見詰めた。
「あの子は本当は、大学病院に残ってやりたい事があったんじゃないかと思うのよ。そりゃあ医院を継いでくれるのは嬉しいわ。でも……」
  彼女は溜息をつくように言うと、その先を黙った。
「やりたい事がなくなったのかもしれない」
  と、私はつぶやくように答えた。すると彼女が、
「由有子ちゃんの事?」
  と突然言うので、私はギクリとした。
「ごめんなさい。おかしな事言っちゃって……」
  と彼女は俯き、ちょっと視線をそらしてくれた。
「由有子の事……入沢君は、由有子の事を何か?」
「あなたはご存知なのね」
「入沢君は……入沢君は、由有子のために」
  言ったとたん、私の目から噴き出すように涙が溢れ出た。
「そう。そうなの。やっぱりあなたはわかってくれていたのね」
  そう言って、入沢の母親は何度も何度も、優しく私の背を撫で、肩をさすってくれた。
「かわいそうに、あの子、由有子ちゃんはどうしてアメリカになんて行ってしまったのかしら」
  そう言うと、彼女も又、目頭を押えた。
「由有子は……入沢君がお医者さんになろうとしているのを知って身を引いたんだと思います」
  私の心から、止めようもなく感情の波が流れ出していた。私は由有子に出会った日から今までにあった事を次々と思い出した。
「由有子も又、入沢君のために独り立ちしようとしたんです。由有子は立派だったわ」
  入沢の母親は私から何を聞いても、決して驚く、という事はなかった。もう何もかも彼女にはわかってたのかもしれない。もうずいぶんと長い間、彼女は私と同じように、あの二人を見守ってきたのだろう。
「私は由有子ちゃんが結婚するって聞いた時、本当にガッカリしたわ。由有子ちゃんが健治のお嫁さんになってくれる日を、ずっとずっと待っていたのよ。でも、主人はあんまり賛成じゃなかったわ。主人だって由有子ちゃんの事は、それはかわいがっていたのよ。ただ、由有子ちゃんの話題が出ると、主人のセリフは決まって、
『あの子も、早く元気になっていい人に巡り会えればいいよなあ』
  ってそれだけだったわ。私はね、由有子ちゃんの結婚が決まって、寂しかったけど、そんな主人を見ていると、それはそれで良かったとも思えてきたわ。でも、きっとあの子にもそういう思いがあったのかもしれないって思うと、やりきれないくらい辛かったわ。それがね、いつまでもいつまでも悔いになって……」
  彼女はそこまで言うと、ウッと低く呻いて嗚咽を漏らした。
「由有子のお母さんの事で……」
  私は遠慮がちに言った。彼女が告白してくれた以上、私も聞いておきたかった。今はどんなに辛い思い出でも、それが由有子に関する事なら聞かずにはいられない。
  彼女はゆっくりと頷いた。
「そう……。でも、私はそれでもいいと思っていたわ。本気でそう思って、ずっと待っていたわ。だって健治は本当に由有子ちゃんが好きだったんですもの。私は知っていたわ。健治は私にもそこまでは言わなかった。あの子にも、父親の気持ちはわかっていたと思うの。でも、母親ですもの。私はかなえてあげたかったわ」
  入沢の母親はむせぶように泣きながら告白した。
  知っています。私は彼にはっきりと聞いているんです。由有子と一緒になりたかったと。でも、どうする事もできなかったんです。私もあなたと同じなんです。私は彼女の話しを聞きながら、そんな風に叫びたくなった。
     
 
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