「光の情景」
作/こたつむり



〈第9章〉2
 
  僅か一か月前、私と入沢は、由有子を日本に呼び寄せようと決意し、ひたすらに由有子が日本に訪れるのを待っていた。そして由有子は帰って来た。その生命を終えて。彼女は二度と再び日本を離れる事はない。

  彼女が妊娠していた事を知ったのは、葬式の後、再び関沼先生が帰国した時だった。
「由有子は、僕のせいで行かせてしまった」
  という言葉を聞いた時、私は激しい動揺を覚えたが、先生は由有子が自殺したのだと思ってそう言ったのではなかった。
「こんな事になるなら、どうしてもっと早く日本に帰してあげなかったのか……。そう思うと由有子が不憫でたまらない。かわいそうに、あの人は、こんな事になるとも知らずに、僕のためにアメリカに留まってくれていたんだよ。そしてあんな事故に……。日本に来ていれば、あんな事故に会わずに済んでいたのだと思うと、後悔してもしきれない」
  私は先生のそう言うのを、破裂しそうな感情を圧し殺しながら聞いていた。
  もっと早く日本に……。由有子が不幸な死を選ぶよりも前に。先生は何も知らないのだと安心する反面、先生が知らない分、先生以上の苦しみを入沢が背負っているように、私には思えた。その先生が、由有子を日本に帰してあげれなかった事を悔やんで泣いている。その苦しみを受け入れてやる余裕が私や入沢にあるだろうか。
「もう少し、もう少し早く日本に行っていれば、そうしたら、もうじき、かわいい赤ん坊が……僕も日本に戻って来る。どんな事をしても、由有子のために」
  先生はそう言いかけて泣いた。
「先生、由有子には赤ちゃんが?」
  と私は思わず聞いた。先生は涙をこらえようと懸命に努力しながら、激しく頷いた。
  私は複雑な気持ちにならざるを得ない。
  先生は子供が出来た事で、子供好きな由有子には生きる張りができていた所だった、と言うが、果してそうなのだろうか。
  一人娘の顔を見る毎に、狂気の世界をさまよってきた由有子の母親。男にとっては、どこかから配達でもされてきたプレゼントのようなものかもしれないが、女にとっては、子供とは、自分の総てなのだ。私にも、今、子供を宿してみて初めてそれを理解できる。もしも私が今、食べているもの、やっている事が原因で、生まれて来る子供に何か障害があったら……そう思うだけで、私はとても平静ではいられなくなる。重大な責任であり、大変な重荷なのだ。
  かつて由有子は我が子を思い、
「雄一のために、もう一度関沼を愛さなくちゃならない」
  と言い、アメリカに帰って、懸命な努力で先生との間に最良で理想的な関係を構築した。
  しかしその当の雄一は、由有子がほんの少し目を離しているスキに病魔に見舞われ、この世を去った。どれほど雄一の存在が由有子にとって大きかったか。それは、雄一の死後の由有子の姿の中に目で見てハッキリと受け取れるほど如実に表れていた。
  子供とは、幸運のシンボルなどと簡単に言い切れるものでは決してない。総ての力を振り絞っても、女は子供に与え続けるのだ。それこそ、鬼にも蛇にもなれる唯一の存在なのだ。命の的と言っても過言ではない。
  前の子供を失ったばかりで、その子の死の原因が、自分の体質の遺伝と関係あるかどうかもわからぬまま、今まで離れて暮らしてきた夫と二人きりになり、何日も入院させられた揚げ句、ノイローゼの刻印を押され、この先、祖国に帰って育てられるのかどうかもわからない子を宿したら、どんな思いを抱くだろう。
  由有子はそんな情況、そんな心身に宿った魂に、どれほど詫びていたか。
「私の健康な心と体を」
  それは取りも直さず、心底我が子に与えたかったものではなかったろうか。
  かわいそうな由有子。それらのすべてを一人で背負い、ついに背負い切れずに清算しようとしたのだ。そして、もう一度生まれ直して来ようと思ったのかもしれない。
  私は自分の妊娠を知った時、由有子が私の体を借りてもう一度生まれ直して来ようとしているのではないか、という思いから、しばらく離れられなかった。しかし、そうした妄想はやがて振り払えるようにもなった。生まれて来る生命は、全く未知のまるで新しいものなのだ。

  由有子の墓は八王子の方に立てられた。私は時々そこへお参りに行くようになった。
  ある日、そこで思いがけず入沢の母親とバッタリ出くわした。私は一瞬、入沢の母親とはわからなかった。葬式の時も来たのだろうが、私はあの日の事をほとんど覚えていない。裏方の手伝いをしていたのかもしれない。何しろ、入沢の両親とはあまり面識がない。しかし、やがてそうとわかると、お互い挨拶を交わした。
  私は線香を焚き、花を生けると、水で墓石を洗った。墓石はすでに濡れ、花も前のが生けてある。おそらく入沢の母親がしたのだろう。由有子の母親はあれ以来寝付いてしまい、墓参りにすら来られないと聞いている。
  私は手を合わせ、心の中で由有子に語りかけた。恨み事は言わない。安らかに、生前彼女が持てなかった安らぎを由有子に……。ここに来る時、いつも私はその事を自分に言い聞かせる。
  立ち上がり、振り返ると入沢の母は、私を待つように、日傘をさしてソッと背を向けて立っている。私の墓参りの邪魔をせぬように少し遠くの木陰に身を潜めていた。私は彼女の方へ歩いて行った。すると彼女は静かに振り返り、
「良かったら、本堂の方へ行ってみませんか? さっきお寺の方が、帰りに気軽に上がって行って下さいって、声をかけて下さったんですよ」
  と私にほほ笑みかけた。私は誘いに応じた。本堂はいつでも入れるように戸を開け放し、座敷の方には大きなポットが置いてあり、
「ご自由にお飲み下さい」
  と書いた紙が貼ってあった。そばに茶碗まで伏せて置いてある。ポットの中には麦茶が入っている。
  そんな季節なのだが、今年の夏は暑いのかそうでないのかよくわからないような、変な陽気だ。いつまでも梅雨が明けないような……そうかと言って、大雨が降るというわけでもない。ただやたらムシムシするだけだ。
「最近は毎年妙な陽気ですねえ」
  と入沢の母親は私に麦茶を注いでくれながらそう言った。
「ええ本当に……」
  と私は何気なく応対した。
「去年もこんな感じだったわ」
  そうだ。去年なのだった。由有子が日本に来て、私たちは共に旅行した。すると彼女は、
「去年、由有子ちゃんが日本に来てくれて……」
  と、同じ事を考えたのか、私にそう話し掛けた。
「健治と一緒に長野の方へ旅行に行ったんでしたっけ……。そう、あなたも御一緒だったわね」
「ええ。本当は健治さんの奥様も御一緒に……と思って、私、うっかり奥様に赤ちゃんがいるのに、お誘いしてしまって……。それで健治さんだけいらしていただいたんです。奥様には申し訳ない事を」
「まあ。いいのよ。君子もちゃんと女の子を生んでくれて、お陰様で健治もようやく一人前に家庭を持つ事ができましたわ。私もやれやれです」
  彼女はそう言って、笑顔で麦茶を一口飲んだ。
   
 
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