「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉12
 
「ちょっと待ってよ」
  冗談じゃない。これ以上入沢の周辺を掻き回さないでほしい。
  鷹子は興奮を押えるようにちょっと黙り、嗚咽をかみ殺していた。
「すみません。こんな事久世さんに言っちゃって。でも私、久世さん以外にこの事をわかってくれる人がいないと思って……」
  鷹子は私の事も又、モラルがある故に入沢から身を引いたとでも思っているのかもしれない。同病相哀れむという奴だ。自分の好きになった男はみんなが好きだと思うようだ。
  私は困った。心底困ってしまった。どうしたらいいのだろう。私には入沢と理恵をもう会わせないなんて約束する自信がない。だいたいそんな権利は私にはない。かといって、いくら妻でも君子に直接訴えるという鷹子の行為はやはり行き過ぎている。
  とにかくその日は鷹子に帰ってもらった。彼女は来週、再びドイツに行くらしい。しかし、又日本に戻ってきた時、この執念深さと臭覚の鋭さで、入沢と理恵の事を嗅ぎ付けたら、そして、その時になっても、入沢と理恵の交際が相変わらず続いていたら……と思うと、だんだん頭が痛くなってきた。
  私は取り合えず鷹子の見た事が真実なのかどうか、入沢に確かめる必要があると思った。理恵はともかくとして、入沢にだけでも自重させる必要がある。
  全く! 暇じゃないのに、入沢のバカめ!
  私は今度ばかりはガン! と言ってやるつもりだった。今まではこの事は触れにくく思ってきたのだが、反対に私が言えば入沢には効き目があるという自信はあった。
  それに鷹子のやり方は行き過ぎているが、確かに彼女があんな極端な行動にでも出なければ、誰も入沢と理恵の事を問い正さなかったかもしれない。それについての反省も多少あった。
  入沢には今度こそ君子との家庭生活をうまくやっていってもらわねばならない。

「わかった。気をつける」
  入沢は案の定私の見幕に押されて、ひとまず反省した。
「じゃあ、鷹子さんの言った通りなわけね」
「全くその通りだよ。面目ない。でもあの人に会うと、なんでかそういう雰囲気に持って行かれてしまうんだ。なんていうのか、こう……強引な所が……」
  入沢は弱り切った表情でそう言った。
「そう、理恵は暴君なのよ。入沢君の太刀打ちできるタイプじゃないわ。会わないようにしていくしかないわね。特に二人っきりにはならない事よ」
「でもあの人、誰の前でも結構堂々と二人っきりになりたいって言うよ。俺がなりたくない、と言うと、こう……肱で俺をつついて、なりたいくせに……とか言って回りを笑わせるんだよな。回りの連中もみんな冗談としか思ってないよ、実際冗談なんだよ」
  入沢もすっかり理恵の感覚に乗せられてしまっている。ヤレヤレという思いだ。鷹子のあの凄まじい見幕に出会うまでは、さしもの私でさえそうだったのだ。しかし、その冗談の通じない人間もこの世にはいるという事を知る必要がある。
「でも気をつけるよ。前田にも申し訳ない事をした」
  と、入沢は相変わらず私の旧姓を口にして私に頭を下げた。こういう所、やはり美樹の時よりは大人になったと思える。
「君子さん、どうだった? 手紙の事」
「いや、何も聞いてない。でもお守りは貰った。どうしたの? って聞いたらナイショーって言うんだ。あれがそんなものとは知らなかったよ。でもアイツは大事にとっているよ。カレンダーの横に張り付けてる。『家内安全』って書いてある方。別になんとも思ってないんじゃないかなあ」
「バカ言いなさいよ。なんとも思ってない事ないわよ」
  と言いつつ、実の所私も、君子が結構ズボラなのに驚いた。内心穏やかでないのでは、と思わなくもないが、あるいは君子は美樹と違って、そういう事を苦にしない性質なのかもしれない。その後入沢の家に行ったが、本当に壁にお守りが貼っつけてあった。ひょっとして鷹子の手紙を、どこぞの宗教団体から来たくらいにしか思ってないんじゃないだろうか。

  入沢はそれから約一か月後に渡米した。由有子の言った通り出張で、もう一人お医者さんが同行した。その先生はフィラデルフィアに一日滞在しただけで帰国したが、入沢はさらに二日居残ってロサンジェルスを回った。その最終の晩に由有子夫妻とも会ったそうだ。
  帰国すると、入沢はすぐに私に会いに来た。
「実は由有子の事なんだけど……」
  と相談を持ち掛けてきた。
「日本に帰してやりたいんだよ。由有子は日本に帰りたがっていると思うんだ。そうハッキリとは言わなかったけどね」
「私もそう思うわ。関沼先生はどうかしら」
  と私が言うと、入沢は難しそうな顔をして首を横に振った。
「たぶん向こうにいたいんだろうね。ただ由有子の帰国には反対じゃなかった。でも先生は例によって一時帰国のつもりでいるよ。由有子と一緒に日本で家を探すとか、そこまでは考えてないと思う。ちょっと実家に預けておく、という感じの言い方だった」
「そうか……」
  私は溜息が出た。実は入沢と同じ考えだったし、同じようにあの夫婦の状況を捕えてもいた。
「私が行った時もそんな感じだったわ。先生にインディアナに行くように由有子は勧めていたのよ。先生がそうしたら、自分だけ日本に戻って来る考えだったのかもしれないわね。でも先生は由有子のそばにピッタリくっついているからなあ……。由有子を離さないと思うな。もっとも由有子の病気を気にかけているんでしょうけど」
「病気?」
  入沢はその話しを聞いていないらしい。ほんの短時間しか関沼夫妻とは会ってないのだ。お互い仕事の話しなどで盛り上がってだけで終わったと言う。私は一連の話しを入沢にした。
「いやあ、たいした事ないと思うけどなあ。由有子のはノイローゼというより、ホームシックだよ。日本に帰ってきて、お袋さんに甘えてケンと遊んで、前田と又旅行でもすれば良くなるよ」
  私は入沢の言葉に思わずほほ笑んだ。何かサーッと目の前が開けるように明るくなってきた。
  鷹子の事で、私の頭を悩ませてくれた先日とは打って変わって、この日は彼の大きさに感動した。
  全くのところその通りだと私も思った。入沢にとって由有子は、相変わらず高校のころの気ままな少女のままなのだろう。実際、由有子に対するそういう捕え方は、入沢や私のような無駄な日常を共にしたものにしかない感覚なんじゃないだろうか。私もふと、由有子は向こうでビタミン剤なんて飲んでないで、一緒に松代の温泉に浸かって、おいしい山菜料理でも食べていれば、元気になってくれそうな気がした。ただそれを医者である入沢が言ってくれたために、私は心底救われた思いになった。
「ねえ、入沢君。由有子を日本に帰してあげようよ。ちょっと無理にでも連れ戻せないかしら。ひとまず実家に帰って来るだけでもいいと思うの。別に子供がいるわけじゃないんだし、定職についているわけでもないでしょう? 日本に戻って来て、のんびりと先の事を考えさせてあげればいいと思うの」
「うん、そう出来ればいいなあ。君子も由有子には会いたがっているし」
「君子さんが?」
「そう、この前の旅行で一緒に行かなかっただろう? 今も奈々が生まれちゃったから、旅行というわけにはいかないけど」
  いつだったか、まだ雄一が生きていた頃だが、君子は雄一と奈々を一緒に遊ばせたい、などと私に言った事があった。もっとも奈々はまだその時生まれていない。君子のおなかの中にいた時の事だ。
「幼なじみなんてロマンチックでしょう? 健さんと由有子さんみたいに……。それで将来結婚なんてしたりしてえー」
  なんて、ちょっと赤くなって言ったのだ。夢見るような瞳をする。
「結婚?」
  気が早い。その子供はまだ生まれてもいないではないか。むろん女か男かもわからなかったのだ。
  結局生まれたのは女の子だったが、ほほえましい反面、親の考える事は予想もつかない、という気にも、子供が出来ると、君子のようなあどけない想像もするものなのか、とも思い、ちょっとおかしくなったものだ。
 
 
 

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