「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉9
 
  しかし今は違う。入沢もあの頃の優柔不断な入沢ではないし、今ははっきりと妻子持ちという動かしがたい状況があるのだ。
「アレも、もうそろそろ結婚させないとなあ……」
  と、私は本当に理恵にとってもその方がいいような気になって言った。
「あの人結婚するの? わあ、もったいない」
「もったいない?」
「だって……あの人も漫画を書いているんでしょう? ひさみたいに理解のある、いい旦那さんに巡り会えればいいけど、そうでなきゃせっかくのいい時期を潰してしまうかもしれないと思って。ひさはその点、本当にいい人と一緒になったわ」
「いやあね、そんな事ないわよ」
「でも、普通のサラリーマンと結婚するのかしら、あの人は」
「違うのよ。まだそんな話しすら出てないの。あの性格だから、回りで何言っても聞きゃあしないのよ」
「うふふ。そんな感じかもしれないわね、あの人……」
  由有子は嬉しそうに笑った。私は理恵が由有子について異様な興味を持っている、とばかり思っていたが、この時、由有子も理恵に結構興味があるんだ、とちょっと意外に思った。由有子は生来、厭味こそないが希に見る優等生の雰囲気がある。由有子には理恵のような知り合いはいないだろう。理恵のああいう性格は、由有子にとっては刺激的な部分もあるのかもしれない。
「本当にマイペースよ、あの女は」
  あれも面白いには面白いが、しょっちゅうつきあっている私には、やや溜息の出る思いにさせられる奴なのだ。
「いいじゃないのよ。人それぞれですもの。ところで、その健ちゃんだけど、今度こっちに来るって言ってるのよ。何か聞いてる?」
「え? 知らないわ、旅行?」
「ううん。ほとんどお仕事でしょうね」
「学会……とかかしら」
「そうだと思うわ。多分観光なんてしてる暇もなく帰っちゃうんでしょうね。忙しそうだわ」
  確かに入沢は、又、このところ忙しくしているようだった。私が鷹子の事を入沢に言っても……と思った事情はそんな所にもある。会いたくてもこのごろは会う暇もない。
「へえ、そうなの。そう言えば君子さんに昨日会ったけど、そんなような事を言ってたわ。でもアメリカだとは知らなかった。あれ、そう言ってたかしら」
  なにしろ、鷹子の手紙に気を取られて、君子のおしゃべりをだいぶ上の空で聞いていた。
  私はそろそろ約束の時間だと思って、その辺で電話を切った。

  鷹子とは喫茶店で会った。鷹子は会って挨拶を交わすなり、私を誘ってすぐにそこを出た。そして近くの公園に二人で行った。
「鷹子さん、どういうつもりなの?」
「やっぱり入沢さん、久世さんには話したのね」
  チラッと鷹子は私の顔を見てそう言った。
  どういう意味だろう。私には嫌な言い方に受け取れたが、鷹子は、
「入沢さん、何かおっしゃってました?」
  と臆面もなく聞いて来た。
「彼には何も聞いてないわ。私、あなたが入沢君の奥さんに出した手紙を見たのよ」
  鷹子は疑い深そうな目でじっと私を見詰めていたが、やがて、
「入沢さん、どういうつもりなんでしょうか」
  と言った。なんの事を言ってるんだろう。
「言ってる事がわからないわ」
  と素直に私は言った。すると鷹子は、
「そんな……とぼけないで下さい。理恵さんの事よ」
  と言うではないか。
「理恵の事?」
「あの人、まだ入沢さんと……信じられないわ。どういう神経しているのかしら」
「どういう事?」
  私はちょっとハラハラしてきた。私は鷹子が手紙を通じて昔の事でも持ち出して、君子に挑戦してきたかのように勘違いしていたようだ。
「久世さん、もうやめて。ここまで来てシラを切るなら、私帰ります」
  と鷹子は腹を立てたように言ったが、やがて溜息をついて、
「私、見たんですよ、この目で確かに。入沢さんと理恵さんが腕を組んで歩いているのをはっきりと。私、ここにはよく来るんですけど、この公園で、二人でベンチに座ってベッタリくっついて……私の方が恥ずかしくなるくらいだったわ。あれは確かに理恵さんだったわ。あの人、得意気な顔して……」
「見た? 見たって……そんな」
「本当に見ました」
  鷹子はどうだ、という顔をして迫って来る。
「ちょっと待ってよ」
  一瞬、別にそれくらい、いいんじゃないか、と思ってしまった。
  しかし、よく考えてみれば、私のこういう感覚は長い時間を通して理恵に感化させられている所がある。世間一般の通念からすれば、それは少々異常な光景かもしれない。入沢と理恵は、職業的にも全然合わさる所のない者同志だ。又、この二人にはその人生においてお互い交わる場面もあまりない。学生時代の友達とか、何かの会合で出会ったとか、同じ団体に所属していたとか……。
  又、考えてみれば、理恵は入沢とは仲良くやっているようだが、その妻の君子とは全くつながりを持っていない。なるほど異性との友達づきあいというのは、この年令になると、仕事とか家族ぐるみとか同窓生とか、何かそういったシチュエーションがつかないと普通は存在しないのかなあ、なんて私もしみじみ思った。
  異性同志がバッタリ出会って、いきなり仲良くなって腕を組んで歩いている。あんまりないと言えば言える気もする。少なくても鷹子の目に理恵は、入沢の昔の女、という具合に見えるのかもしれない。
「それは……あなた誤解よ。あの二人はそんなんじゃないわ」
  私は思わずそう言ってしまった。別に理恵を弁護する気はないが、親しそうに腕を組んでたぐらいで、鷹子が入沢にまで制裁を加えようとしているのなら、それはやり過ぎというものだ。
「やっぱり知ってらしたんでしょう? そうだと思ったわ」
  鷹子はキッと私を睨むではないか。さも私まで共犯者と決め付けている目だ。私はムッと来た。
「あなた、本当に見たの?」
  だいたいそれも疑問だと思った。鷹子の言い方は、まるで入沢と理恵が不倫でもしているような言い方ではないか。
  どこまでが友達づきあいで、どこからが不倫なのか私にもよくわからないが、腕を組んでた程度で不倫だとか言うのも幼い感覚だし、ベッタリくっついていた、なんて言うからには、鷹子は通りすがりにチラッと見たわけでもあるまい。むしろマジマジと見ていた。、何か半分、思い込みや想像でそう感じているだけのようにも思えた。
  その思い込みを持って、例えば入沢と理恵がホテルで良からぬ関係を結んでいる、なんて考えてるとしたら、芸能ネタ以上に下世話な想像としか思えない。
「私ね、前から思ってたんだけど……」
  この際、この異常な鷹子の感覚を正してやりたい、という気持ちを押えられなくなった。
「そうよ、私は知ってるわよ」
  とついに、私は長年鷹子に抱いていた疑問をぶつけた。
「あなたが、どうして入沢君の家を知ってたのか聞きたいわ。今のじゃなくて、昔のよ。私ちゃんと知っているのよ。聞いたのよ。あなた、まだ前の奥さんがいた頃の入沢君の家に押し掛けて行ったじゃないの。なんでそこまでする必要があるの? あなたには何でもする権利があるとでも言うの?」
  いくら病気だったとは言え、今考えてもあの行為は許しがたく思える。
「そんな昔の事を……」
  私が凄むものだから、鷹子は少したじろいたようだった。
「あなたと入沢君の事も昔の事だわ。理恵の事だってそうだわ。昔、あなたと入沢君がつきあっていたからって、今そんなおせっかいを言い出す必要はないんじゃないの? 今はあなたには何の関係もないでしょう? 理恵との事をそうして疑うのだって、昔、理恵が入沢君とつきあっていたから今もそうなんじゃないかってわけでしょう? そういう昔の縁を持ち出してあの二人を見るから、そんな場面に目が行くのよ」
  私は決め付けた。実際その通りだと思った。
「いいえ、理恵さんの事は今の事です」
「ちょっと!」
  私は足を踏み鳴らした。
「そんな事聞いてんじゃないわ。はっきり答えなさいよ。なんで入沢君のうちなんか知ってたのよ。あんた、あの人の後でもつけたの? そういうやり方はフェアじゃないわよね」
「違います」
  と鷹子はやや困惑の表情になった。少し唇を噛んで考えていたが、やがて思い切ったように、
「看護婦さんに聞いたんです。この事は、入沢さんには言わないでほしいんだけど、看護婦さんが教えてくれたんです」
  と告白した。
 
 
 

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