「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉6
 
「それとね、私、入院って言うといろいろ思い出すのよ。中学生の時にはお母さんも健ちゃんもいたでしょう? あの頃が懐かしいなあ……とか、雄一を産んだ時の事とか思い出しちゃうと、やっぱりね……」
  そりゃあ、わかる。それにしても、そう言う由有子には病気をしている様子はまるでない。前日までは精神的に病んでいるのでは……という思いもあったのだが、
「ひさがわざわざ来てくれるとは、本当に思わなかったわ。でも、ひさには面倒をかけちゃったけど、私やっぱり来てもらって嬉しい」
  などと言う由有子を見ていると、とてもノイローゼにも見えない。入院はしたものの、たいした事はなかった、あるいは、もう治ったのだと、てっきり私はそう思っていた。だから、先生が殊更に由有子の様子など聞いてきたりすると、面食らってしまう。
「由有子は時々ピタリと口を聞かなくなるんだよ。初めのうちは、何か怒っているのか、それとも雄一の事を思い出して沈んでいるのか、と思ってたんだけどね、様子が普通じゃない。宙を見詰めてボーッとしたまま総てが上の空という感じになってしまうんだ。何かを思い詰めてそうなっている、というより、何も考えてない、何も感じてないようにすら見える。かなり長い時間、時には少し口を開けたままになってしまう」
「そんなに……」
  私は驚いた。
「それだけじゃない。夜中に一人で起きてベッドの上に座って、ちょっとした一人言をつぶやくんだ。もっとも、それは自覚がある。僕がどうしたの? って聞くと、
『あら、ごめんなさい、起こしてしまったかしら』
  てすぐに謝る。僕が、
『何か言ったろう?』
  って聞くと、
『独り言よ。私、あなたは寝てると思ってて……』
  って言うからね。ただ今までこんな事は一度もなかった。ちょっと心配になってしまってね」
  先生は、それでもしばらく様子を見ていたと言う。子供を失うショックがあった後だ。誰だって少しはどこかおかしくなるものだ。しかし、今度たまたま病院に担ぎ込まれるような騒ぎがあった。由有子には、頭を強く打ったから検査をした方がいい、と言い聞かせ、病院の医者に相談した。医者はすぐに、
「実際、本当に頭を打っているのだし、彼女は元々体質的に丈夫な方ではないから、定期的にチェックした方がいいと思いますよ。それも併せて検査してみましょう」
  と応じてくれた。由有子は日本にいた時も、定期検診を受けたりしていた。由有子の病院嫌いを笑いながらも、それでも時々は健康状態を確認した方がいい、と以前入沢も言っていた。
  入沢の教訓の効果があったのか、由有子はアメリカに渡ってからも、雄一を産む前にそういう検査をした事はあったらしい。もっとも子供を生むとなれば自分一人の問題ではないから、由有子にもそのころには自分の健康に関して、責任感が出て来たのだろう。
  先生は雄一のいない今、やはりもう一人子供が欲しいと思っていた。その事を子供を失ったばかりの由有子に言うのは気がひけるが、由有子が元気を取り戻した時、彼女が健康で、又子供を産める事がわかっていたらその方がいい。もう一度確認の意味でも検診を……と先生は思ったそうだ。
  医者はその辺の事情を由有子に隠さず説明してくれた。精神鑑定についても、
「誰にだって、心に悩みがあったり疲れていると、体の調子がおかしくなる事はあるよ。それを調べるだけで、もしあなたが嫌なら調べない」
  と由有子の気持ちを尊重してくれた。由有子も同意した。
  それなのに、私の所に電話をしてきた。不安になってイキナリ。
「それで検査の結果は」
「うん、体の方は健康だそうで、心の方も軽いノイローゼだと言うんだ。自律神経失調症みたいな奴なんじゃないかな。気持ちが不安定だと心と体のバランスがくずれる。これは女の人にはよくある傾向だからね。夫婦で仲良くやっていれば良くなるだろう、とその医者も随分と親切に説明してくれた。話し相手がいれば良くなるそうだ。由有子だってその手の職業にいたんだから、よくわかっているはずだと思う。僕も由有子も納得した筈なんだ。
  ところが由有子は、これは入院する前からだったのだが、僕にインディアナに戻ってほしいと言い出すんだ。自分のために僕をくぎづけにしたくないってね。僕は今はそうしたくないって言ってるんだけど、由有子は、それは僕らしくない。自分が病気だと思って気を使っているからだって言ってね。このところ何かというと、この話しになってしまう」
「でも、そうすると由有子は一人になってしまうわ」
「そうなんだよ。今はメアリーも再婚して、ちょっと遠くに引っ越しているから、そうそうここにも来れないし……」
  と言ってから、先生は、
「メアリーの事を聞いているかい?」
  と私に言った。
「メアリーの事?」
「うん、由有子はおかしな事を言い出すんだ。僕とメアリーについて」
「先生、それは……」
  この事は由有子からも聞いていた。
「それは冗談ですよ」
  本当に冗談だと思う。メアリーが再婚する時、由有子が先生に、
「あれ? がっかりしている。あなたメアリーの事好きだったんでしょ?」
  と言ったそうだ。由有子は、
「ドギツイ冗談だったかもしれないわね。ちょっと言っただけだったんだけど、あの人青ざめちゃって。私、しまった! と思ったわ。ほら、メアリーって、私と関沼が離婚した方がいいなんて言ってた事があったでしょう? 今はそんな事思ってないわよ、メアリーも。でも考えようによっては、私と彼とを離婚させてメアリーが彼と結婚する気があった、とかいうような事を私が勘ぐっていると思われても仕方ないじゃない? 微妙な事だったのに、私もデリカシーがなかったわ」
  と舌を出しながら言っていた。ああ、それでか……と私は思った。ここに来た時に、メアリーがあまり由有子と交際してないように思えたんだが、それはメアリーより、由有子の方が先生に気を使ってそうなったのかもしれない。
「メアリーは知ってるの?」
  と私が聞くと、
「うん、知ってる。話したの。ヤバイ事を言ってしまったって……。でも笑ってたわ。だって彼女には、今はすてきな旦那さんがいるしね」
  とこんな風に、由有子はなんとも思ってなさそうだった。
「そうか」
  先生もそう言ってほほ笑んだが、
「僕もメアリーに由有子の事を任せていたからいけないんだね。由有子にインディアナに行ってほしいと言われた時、メアリーがここにあまり来ないようになったのが気になってね。由有子は彼女にはいろいろ相談に乗ってもらっていたようだったから、僕がいない間助けてもらえれば、と思って彼女に頼もうとしたんだが、由有子はそんな必要はないと強く言うんだ。それで、何か由有子が怒っているのかな、と思えてきて、ついそんな事を考えたんだけど、由有子が気にしてないなら良かったよ」
  しきりに由有子の心配をする先生の言葉を聞いてるうちに、私はその日の由有子を徐々に思い出した。
  確かに彼女は車の中でも、先生に研究を続けてほしいと話してはいた。ただ、私のちょっと気になっていたのは、彼女がその話しをする時に、
「私の事なんて、放っておいても、どおって事ないのに……」
  というような言い方をした点だ。決してイライラしたような口調でもないし、夫が自分より学問の方がどうせ好きなんだから、といった皮肉な言い方でもない。
  しかし、ちょっと気にはなった。おそらく先生が由有子に対して神経質になるのも、そんな態度に関してなんじゃないだろうか。少し先生に対する態度に冷たさがあるのだ。精神的な病気のせいでもなく、メアリーへの嫉妬でもない、となれば、何だろうと先生が思っても無理はない。
 
 
 
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