「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉5
 
  今、私は、悲しみや重荷など、この数年の間に彼女が身につけてきたあらゆるものを消し去った、元来の由有子そのものと向かい合っている気がした。それは不思議な快感でもあった。元来の私は、彼女との会話から、新鮮な命題を受けたものだった。彼女の状況に対してではなく、彼女自身に関心を持っていた。そしてそれは、手ごたえのある意見交換によって、感性の優れた友人と接する喜びであり、自分を高め、成長欲を満たすに足る贅沢な達成感に他ならなかった。
  翌日、由有子は私を車に乗せて運転をしながら、海岸に連れて行ってくれたり街中を案内してくれたり、揚げ句の果てに、日本へのお土産を買うのにつきあってくれたりもした。
  私は悲しみと絶望に暮れる友人を慰め、励まし、将来への展望を共に考えるつもりで来ながら、全くの所、ただ海外に遊びに来て、現地の友人に面倒を見てもらっているような事になっていた。観光が目的ではなかったので、午前中は由有子の誘いを遠慮していたんだが、由有子が、
「せっかく来たんだから、ちょっと見て行かない? もうちょっと時間があればサンディエゴ辺りまで出られるんだけどなあ。途中にとても奇麗な海岸があるの。是非案内したかったわ。この前の旅行では、ひさたちに随分とお世話になっちゃったから、今度は私が」
  などとはしゃいで言うので、昼前ごろから出掛ける事にしたのだ。先生は、
「恋人と二人で行っておいで」
  などと昨日のジョークで気をきかせてくれた。由有子は、
「あら、行かないの?」
  と言って、ちょっと肩をすぼませたが、
「執筆があるのね」
  と笑って言った。
  ダウンタウンに出て、昼食を取り、そこでお土産の話しが出ると、
「そうねえ、明日出発じゃあ、もうお土産を買って帰るだけになっちゃうわね。じゃあちょっと見て行こうか」
  なんて由有子は言う。ひょいとブルックス・ブラザースに寄って物色していたが、急に、
「ひさ、ブランドものなら日本にいる人の方が詳しいかもしれないわ。連れて行くからひさが好きなお店を選ぶといいわ」
  と言って、そのままハリウッド・ハイウェイからサンタ・モニカ大通りに出て、ロディオ・ドライヴを目指した。
  おお! あるある! セリーヌ、ティファニー、カルティエ、ヴィトン、シャネル、ラルフ・ローレン……。しかしブランドものというと私も詳しくはない。どこの何がいいのか由有子と相談しながら、ついに買い物ざんまいしてしまった。
  由有子は元気だった。私が、
「もういいわ。帰りましょうか」
  と言うと、
「何か買い物だけになっちゃったわね」
  と残念そうに言って、最後にロング・ビーチへ連れ出してくれた。余程嬉しかったんだと思う。夕方に家に帰ると、
「ちょっとくたびれちゃったから、お昼寝していいかしら」
  と言って寝室に入った。私も思わぬ観光に疲れて客室で少し寝たが、やがて目が覚めると、由有子が夕飯の支度をしているかもしれないと思って起き、居間の方へ行ってみた。
  由有子はまだ起きていなかった。関沼先生がソファーで本を読んでいる。私に気付くと先生は本を閉じて向かいの側のソファーを勧めてくれた。
「すいません、お邪魔しちゃって」
  と私が言うと、先生は例の気さくな態度で、
「いいや、ちょうど話し相手がほしかったからね」
  と言ってくれた。先生は、
「飲むかい?」
  と言ってバーボンの瓶を持って私に見せた。
「いいえ、私、あんまり飲んじゃいけないって言われてて……」
  私がそう言うと、先生は心配そうに、
「どうしたの? 体の具合でも悪いの?」
  と聞いてくれた。
「たいした事ないんです。前、ちょっと胃を壊してしまって……」
「病院には行ったの?」
「ええ」
  と言って私は笑った。
「入沢君に診てもらいました。彼はもうお医者さんになっているんです」
「ああ、そうだったね。……で、やっぱり神経性胃炎とかなの?」
「誰でもなるらしいんですよ。たいした事ないんです」
  生理不順までは先生には言えないから、その話しは濁した。
「そうか、それは良かった。大事にして下さいね」
「ええ、ありがとうございます」
  先生はそれから、私の仕事や夫の話を聞いてくれたり、今、日本で何が流行っているのかなんて、先生らしい興味が出て来たりして、私は、以前由有子に手紙でも書いたんだが、
「人面犬が出るらしいんですよ」
  などという話しをした。先生がそういう事を研究の対象にしているのを由有子に聞いて知っていたからだ。
  もっとも先生は私よりもよく知っていた。そういう流行にはサイクルがある、というような説明をしてくれた。相変わらず話しが面白い。
「でも、口裂け女の時より、人の発想に時代性がなくなってきたような気もするな。口裂け女は、整形手術で失敗した女のお化け、なんていう時代の風潮を反映した説明がくっついていたものだけど、人面犬はどうなんだろうね」
「異常な医者が人の顔を犬にくっつけた……なんてのはダメかしら」
「漫画家だねえ、さすが」
  と先生は大笑いしてから、ふと、
「医者の仕事っていうのも大変だろうね」
  と言うので、
「ああ……入沢君の事ですか?」
  と私は聞いた。先生は、
「うん、彼はついに医者になったね。努力が実って良かった」
  と言ってほほ笑んだ。以前、入沢は関沼先生と由有子の恋の橋渡しをして、先生は随分入沢にその事を感謝していた。
「しかし、どうして離婚してしまったのかな。由有子はずいぶんと残念がっていたよ。相手の人もお医者さんだったんだよね」
「ええ、いろいろあったらしいんですけど……」
  と私は言葉を濁した。入沢の離婚の理由というのは上辺を説明しても、はた目には納得が行くまい。ましてや先生の前では尚さら言いにくい。
「でも今は、又奥さんを貰って、女の子もいて幸せそうです」
  私は離婚については触れずに、現在の妻の君子とのいきさつについてや、君子との間にもうけた女の子、奈々について話した。
「そうか、それは良かった。それならいい」
  と先生は何度も頷いた。
  私はふと、先生も入沢と由有子の関係を感じ取っているのかもしれない、と思った。さすがに先生はそれにつまらない嫉妬をしたり、変に勘ぐったりはしていないようだが……。すると、突然、
「由有子はどんな様子に見えますか?」
「ええ、元気そうに見えます。彼女、どこか悪かったんですか? 入院してたそうだけど」
  と反対に私が聞くと、
「由有子は何も言ってないの?」
  と先生は驚いた顔をした。
  実は私はロング・ビーチに向かう車の中で、由有子に一応入院のいきさつについては聞いていた。
  食欲がなくなり、夜中に何度も目を覚ましたり、昼日中イキナリ眠くなったり、昼寝をすると何時間も起きられず、微熱が続き、風邪もひきやすくなった。そのうちに、ある日買い物の途中貧血を起こして倒れ、救急車に乗せられて病院に担ぎ込まれた。
  倒れた時に階段を踏み外して、咄嗟に手を突いた衝撃で肱の関節を痛めたが、それはすぐに直り、担ぎ込まれた時には体が軽く痙攣していた。が、検査の結果はなんでもなかった、と聞いた。
  それだけの事なのに、由有子は二週間も入院していたと言う。日本のようになんでもかんでも入院、検査という事はあまりない、と由有子も言う。雄一を出産した時も、出産の二日後に歩いて退院したそうだ。由有子は怖くなって私に電話をしてきた、と説明した。
 
 

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