「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉3
 
  私は自分でも訳のわからない言葉を連発していた。徹夜明けで意識も朦朧としていたし、しばらく人に会わないでいるとちょっとこんな風になってしまう。
「由有子のそばに。大丈夫よ。入沢君も私も、私たちはいつも由有子と一緒にいるわ」
「ひさ……」
  まだ泣いているのか、由有子の言葉は声にならなかった。
  何が起こったのだろう。私には彼女の悲痛な心が直に伝わって来るようでたまらなくなった。何か言い続けていないと身が持たなかった。
「由有子待っていて。これからすぐそっちへ行くわ」
  言ってから、私は本当にアメリカへ行こうと思った。
「入沢君も一緒に行くわ。大丈夫よ」
  由有子は、やっとしゃべれるようになったのか、自分の声を励ますように答えた。
「ごめんなさい、違うの。なんでもないの」
  やや冷静な声になっていた。
「由有子、話して……なんでも話して」
「ごめん。もう大丈夫。違うのよ」
  と言って、泣き声に裏返ったまま笑った。
「なんだか急に……」
「急に? どうしたの?」
「さみしくなっちゃって……子供みたいね」
  ホッとした、いつもの由有子に話し方に戻りつつあるようだ。
「寂しくなっちゃった? 一人なの? 先生は?」
「うん。今ね、病院にいるのよ」
「病院? 入院してるの? 由有子、病気なの?」
「ううん。違う。なんでもないの。病気でもないの。ただ、あの人が……関沼が心配してくれて……でもたいした事ないの。ひさの声が聞きたくなっただけ。健ちゃん来てるの?」
「あ、ううん。ごめん」
「そうよね」
「ごめんね。つい言っちゃったの」
「いいの。ありがとう。良かった、ひさに電話して」
「私、あしたの便でそっちに行くわ」
「いいのよ。ごめんなさい。心配かけちゃって。もう大丈夫」
「あした行くわ」
  私は腕時計を見ながらそう言った。あしたが無理でも、あさってにでもロサンジェルス行きのチケットを手に入れようと決心した。
「本当にもう平気。健ちゃんにもそう言って」
  そう言って、由有子は電話を静かに切った。病院からかけて来たようだったから、あまり長くは話せないのかもしれない。
  明日……と言ったが、よく考えたら締め切りは三日後。これを放り出して行くわけにもいかない。私は自宅に電話した。
「ねえねえ、私のパスポートって、まだ期限ありよね」
  新婚旅行の時のがまだ使える筈である。
「なんだい、どしたの? 急に」
  夫はまだ寝ていたらしくて、寝ぼけた声で電話に出た。
「うん。私さあ、アメリカ行っちゃダメかなあ」
「関沼さんの所?」
  夫はすぐに理解した。このところ、何かと言うと私は、アメリカに行く、と言うのだ。夫も由有子にはかなり同情していた。
「お前しか頼る人がいないんだよ。きっと」
  なんて言ってくれたりする。こんな所は結構ものわかりが良くて助かる。
  ただ、急に行くと言えば反対するかもしれない。それに夫だけでなく、夫に代わって担当になった人にも相談しなくてはなるまい。
  今度の担当者はわりと大らかで、元々編集が口うるさくも無いし、私も最近結構売れてきたせいで仕事内容にはあまりゴチャゴチャと介入しない。
  が、むろん時間については、せっせと追い討ちをかけて来る。当然と言われれば当然だが、突然アメリカに行くと相談してみたところで、仕事を延期にしてくれるワケでもない。案の定、事情を打ち明けてみると、
「いやあ、まあ、そりゃどこに行かれても、仕事さえやっていただければ」
  担当はそう前置きした。が、やはり事情を聞いてしまった手前か、
「出来たら、次の構想だけでも置いていってもらえると……。本当はネームと言いたい所だけど、その話だと、今度のが上がったらすぐ出発って事になるんでしょうからねえ」
  と、少し先の段取りを洩らしてくれた。
「下手すると、カラーページが行くと思うんですよねえ。次回は……」
「あ! 巻頭をいただけるわけで」
「そうならいいんですけどねえ」
  などと話し合った揚げ句、打ち合わせの時間を作るから出発を一週間遅らせてくれ、と彼は言い、そのかわり、次回の枚数を少なめに設定する段取りを私は引き受けてもらった。
  由有子の様子に気を揉みつつ、結局私がアメリカに行けたのはそれから十日も後だった。
  これは私のせいでもあるわけだが、担当に手渡せるプロットが遅れたのだ。締め切りが終わると、何も手付かずになってしまい(これがいけない。次の手を打つのがもう少し早ければ、もうちょっとは時間にゆとりのある生活が営めるのは、前からわかっているのだ)こりゃあ踏み倒して行くか、とすら思ったんだが、そういうわけにも行かず、締め切り後、一週間の時間がどうしてもかかってしまったのだ。
  その上、少しは仕事量が軽くなるとは言え、すぐに帰って来て取り掛からないと次に差し支える。アメリカ滞在は情けなくも三日間と決まった。
  これじゃあ行って帰って来るだけなのだが、行けないよりマシと言うものだ。私はとにかく由有子の顔だけでも見たかった。
  空港までメアリーが迎えに来てくれた。メアリーは再婚したと言う。
「由有子の事を話します」
  メアリーは車に乗ると、単刀直入に話し始めた。
「彼女、ノイローゼになってるんです」
「由有子が……」
「でも、そんなにひどくない……と思います」
「メアリーさん、カウンセラーでしょう?」
「ええ、でも先生が……」
「関沼先生が反対なの? メアリーさんに由有子を診せる事」
「いいえ、でも関沼先生は他に考えがあるんです。私も今は結婚して休業状態なので」
「この前、由有子は病院から電話してきました。入院してたと思うんだけど」
「それは大した事ではないと思います」
「何の病気で? やっぱりノイローゼ?」
「いいえ、私もよく知らないけど、貧血を起こして倒れたと関沼先生は言っています。なんで入院までしたのかはよく知らない」
  くそ寒い日本から来た私には、カリフォルニアの気候は心地よかった。やがて車は住宅地に入っていったが、一件一件の家は、日常的な穏やかな面影をひろげ、明るくのびやかな光景に溢れている。観光に来たわけではないので、当然と言えば当然なのだが、初めて来たというのにメアリーに、
「この辺はどこどこです」
  などと紹介された内容をよく覚えていない。風景を楽しむゆとりもなかったし、車の中でメアリーに、由有子に関するあれもこれもを聞いておかないといけないと思っていたせいでもある。関沼先生の家に着いてしまってからでは、由有子の近状を聞けないのではないか、という焦りの気持ちがあった。
  しかし、メアリーからは、はっきりとした由有子の様子を知る事はできなかった。
  メアリーはどういうわけか、以前日本に来た時のようには話してくれなかった。どこかよそよそしいというか……あるいは、私が由有子や関沼先生に会ってもいないうちから、おかしな先入観を植え付けるのは良くないと思ったのかもしれない。彼女の話しは簡潔に由有子の様子を伝えてはいたものの、メアリー自身の意見は少しも入っていなかった。
  そのうち、
「そろそろです」
  という彼女の声で、私はハッとした。
  なんと寝ていたのだ。はっきり言って疲れていた。
  飛行機の中では何となく気が揉めて、あまり眠れなかった。それが一応アメリカに着いて少しは安心したからか、メアリーの話がちょっと期待はずれだったし、柿崎先生から借りた本を読まなくてはいけなかったので、それを読み始めている内に、ただでさえ締め切り後たまっていた疲れが出て来た感じもある。
  私が慌てて起きると、ミラーに映るメアリーの顔は笑っていた。こんな遠い所にまで来て寝ている、日本人は貧乏症だ、などと思われたかもしれない。私はようやく周りを眺める行為に至った。
 

   

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