「光の情景」
作/こたつむり


〈第8章〉2
 
  この女がその後、何かと言うと入沢の話しを持ち出して、私の頭を悩ませてくれたのは言うまでもない。
  しかし、私はこの理恵を見ていてつくづく面白い女だと思った。理恵だけでなく、理恵の書く漫画もユーモアのセンスに溢れていて面白い。私には真似できない軽いノリで作品をソツなく上げてしまう。書き方のコツと読者のツボを捕えていて、作品にはちょっと、
「読み手なんてこんなものよ」
  といった所が感じられるんだが、当人は意外と真剣で、真っ正面から読者を相手にしている所も又ある。実の所、私と理恵とはなんとなく離れ難いものがあって、結構仲良くやっている。入沢に関しても、
「彼とは結婚しない」
  とハッキリ言い切ったのは理恵だけである。
  入沢の方にその気があったとも思えないが、当時の入沢の、自分からなかなか言い出さない慎重さと、言わればその通りにする優柔不断さなどを思うと、理恵の態度には、入沢を夫として選ぶ損をはっきり見抜いて結婚しない主義を押し通していた所があったようにも思え、なかなか痛快だった。
  そのくせ入沢が君子と結婚した後でも、平気で入沢をドライブに誘ったりする辺りは、眉をひそめなくもないが、やりたいようにやる理恵のやり方らしくて、それはそれでいいのかもしれない、とも思える。
  しかし問題は、入沢の妻、君子にわざわざ内緒にしている、という点である。君子はそんな心の狭い女じゃない。その君子に敢えて隠れてコソコソとつきあうというからには、入沢と理恵の関係に何か怪しいものを回りが感じたとしても無理はない。
  まあ、私は、理恵の事はともかくとして、入沢に関しては信用している。あるいは秘密にしているというのも、理恵特有の恋愛ゲーム気分から出た言動で、実際には入沢の事だから、君子にペラペラとしゃべってるかもしれない。
  ただ、理恵もゲームを気取ってばかりいないで、友人として堂々と入沢に会った方がいいのではないか。君子が理恵の態度を知ったら、さすがに不愉快に思いはしないか。
  もっとも理恵にとって、スリルのない恋愛というものは存在しない。あの、何に対しても鷹揚に構えている君子が相手では、入沢との恋愛に面白味もないと思うのかもしれない。それで、敢えて面白くするために秘密にする……。わかったようで、なんだかよくわからない。
  私が気になるのは、むしろ入沢の方だ。理恵はやはりどこか由有子に似ている。その理恵の中に、入沢は由有子を見る、という事はないのだろうか。
  また、理恵には、それがよくわかっていると思う。わかっていて、そこを敢えて利用しようという魂胆が、私には見え見えなのだ。
「ねえ、由有子さんってどんな曲弾いたの?」
  などと理恵は私に聞く。由有子の弾いていた曲のCDなんか、わざわざ買っているのを私は知っている。私が由有子の事を聞かれて、
「知らない」
  とか、
「忘れた」
  とか答えると、それ以上にしつこく聞こうとはしない。が、そのかわり、
「何おこってんのよ」
  とカンに触る事を言う。
  悪気はないのだろうが、理恵は自分と同じように私も入沢に気がある、と決め付けている所がある。入沢に思いを寄せ会う者同士だから、入沢の初恋の人だった由有子について語り会うのは、私と理恵の特権であり、二人の間に許された秘密でさえある、とでも言いたいのかもしれない。またそうした感情の果てに、私が由有子の事で口をつぐむのを、入沢や由有子という旧友に対する独占欲とでも思うのか、あるいは理恵に対する嫉妬とでも思うのか、
「腹をたてている」
  と決め付ける。
  確かに私は時々、こういう理恵の前で不機嫌になってしまう。入沢の事ならまだしも、由有子の事になると、なんとなく答えたくない。理恵にとっては単純な興味なのだろうが、私には気軽に答える気がしないのだ。
  由有子についてズケズケ聞かれるだけでも、私にとってはイラ立つのに、今の由有子の心境を思うと、理恵のバカ話しのネタにされる事に反感しか覚えられない。
  由有子とは、あれ以来手紙も間遠になってしまった。こちらで書いても返事が来るのが遅い。きっと何か一つ考えるにも哀しみが付きまとい、今の彼女には、私からの手紙すら苦痛の種にしかならないのではないか。そう思うと、心苦しくて、なんとなく間隔が空いてしまうのだ。
  勿論、私も手紙には、彼女の哀しみを引き起こすような内容を極力控えているつもりだったが、人間の思考には、総ての状況が関係しあって成り立っている。彼女にとっては気候の話し一つするのにも、そのどこかに雄一の影を思い起こしてしまうのではないかと思え、切なくて手紙など何の役にも立たないような気がしてしまう。
  この、自分をして役立たずにすぎない虚なしさ、もどかしさが、理恵に由有子に関する何を聞かれても、親友などと言っても所詮何もしてやれない自分が、由有子の何を語れるのか、という神経質な感情につながってしまう。由有子をソッとしておいてやりたい自分を、やはりソッとしておいてほしいのだと、我ながら思う。
  入沢にとっても、このもどかしさは同様だろう。私は例え、関沼先生の仕事がどうなっても、由有子が挫折を認める結果になろうとも、もう由有子は日本に帰って来た方がいいのではないか、と思わずにはいられない。少なくとも日本には入沢がいる。
  しかし今は、その入沢にも妻や子がいる。むろんこの状況は入沢にとって幸福だし、入沢の愛妻ぶり、子煩悩ぶりには、美樹との家庭を突き放したような無責任さはまるでなかった。
  入沢と美樹は、のびやかで合理的な、いわゆる理想的な夫婦関係を持ってはいたものの、どちらかと言えば入沢は、結婚から家庭に至る総ての責任を美樹一人に預けていたような所があった。入沢は美樹には素直な甘え方をしていたが、美樹にはそういう入沢を抱えての夫婦生活は苦痛の種が多かったに違いない。矛盾に気付き、自分一人の空回りを悟って、美樹は自ら夫婦生活に終止符を打たざるをえなかった。これらは全て、美樹の勘の鋭さと頭の良さに因るものだが、その上さらに彼女が忍耐強かったら、あのまま夫婦生活は続けられ、入沢は、今の夫であり父としての姿を持たずに来てしまったのではないか。
  少なくても君子に対しては自分からアプローチをし、あらゆる反対を押し切ってまで彼女との結婚生活を選んだのだ。結果論的ではあるが、この事だけでも、入沢は男として成長したと思う。
「これじゃあ研究がはかどらないよ」
  とか言いつつ、イソイソと子供の顔を見に帰宅する入沢の姿を見るにつけても、私は由有子が哀れでならなかった。確かに関沼先生の言う通り、子供を失ってさらに堅い夫婦の絆を得るという事もあるだろう。しかし、由有子があくまでもアメリカに先生と二人で踏み止どまろうと努力するのは、どこか無理が感じられて仕方がない。
  かと言って、日本に帰って来て、彼女には何があるだろう。私にしても、今は夫もある。仕事もある。もう昔のように彼女を手放しでは迎え入れられない。彼女もそれを望まないだろう。

  寒い二月の早朝だった。
  私の仕事部屋は、まさに完徹明けの総修羅場と化していた。締め切りは三日後。この日の昼過ぎからアシスタントが来てくれる事になっていたので、なんとか手伝って貰える所まで手を入れておかないと、みんなの予定を狂わせてしまう。
  私は一人、カリカリとペンの音を響かせて仕事に没頭していた。
  そこへ電話が入った。取らない事も多いのだが、時間的に何か急な事かもしれないと思い、渋々受話器を取った。すると電話の向こうで、呼吸をしながらも押し黙っている人の気配がする。
  私はよくあるイタズラ電話だと思って、何か言ったら怒鳴ってやろうと、同じように黙って身構えていた。すると、
「ひさ」
  と小さく私を呼ぶ声がした。
「ゆ、由有子?」
「ええ」
「由有子、ああ、由有子だったのね」
「……」
  由有子は黙っている。泣いているようにも思える。やがて、
「助けて」
  とか細い声で訴えて来た。
「私……私、どこも悪くない」
「もしもし? どうしたの? 由有子? もしもし?」
  持っていたペンを放り投げた。私の心臓は破裂しそうだった。由有子の声が、遠いアメリカから私を呼んでいる。何か助けを求めている。今、私のすぐ耳元で。
「ひさ……いるの?」
「ここにいるわ。由有子、聞こえている? 私はいるわよ」
  由有子はしゃくり上げて泣いている。しばらくそのまま涙を堪えるように沈黙した。
 

 

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