「光の情景」
作/こたつむり


〈第7章〉8
 
「うーん、でも明日どうするの? 戸隠に出る?」
「今更……松代に行ってみようか」
「由有子がいないのに、そんな所に行っても仕方ないわよ」
  と私が言うと、理恵は、
「そっか、それもそうだね」
  と同調した。その後せっかく温泉に来たんだから入ろうという事になった。
  入沢と由有子がいなくなると、なんだか寂しい。由有子のために探しあてた温泉地であった。温泉に入りながら理恵は再び、
「ねえねえ、松代ってさあ、何があるの?」
  と私に聞いた。私も知らない。それに今は旅行気分になどなれない。由有子や雄一の事が気掛かりだ。理恵は勘がいい。
「あの人の子供の事? なあに子供なんてしょっちゅう熱を出したりするもんなのよ」
  となぐさめてくれた。こんな時理恵がいてくれるのは助かる。天性、彼女の性格は明るい。
「でも心配だわ」
「あんたが心配したってしょうがないじゃないのよ。それよりやっぱり行こうよ」
「松代? 私たちで?」
「だから代わりに行ってやって、後であの人に行ったよ……って、写真でも送ってやりゃあいいじゃん」
  なぐさめてくれてもいるんだろうけど、それにしても私にはつくづく不思議だった。どうして理恵が由有子のために、そうまでしてやろうとするのかわからなかった。
  しかし私もようやくその気になってきた。理恵にしてみれば、もう一泊して旅行を楽しむつもりだったのだ。私も由有子の住んでいた所というのを見てみたい。それに確かに私が気を揉んでもどうにもならない。理恵の言う通り、子供なんて、よく熱を出したり腹を下したりするものだ。
  翌日は長野に出た。由有子の話しではそこからバスで行けるという事だった。電車よりも本数が多いという。
  行ってみて驚いたんだが、なんと二十分程度で行けるのだ。地図で見ると戸隠などよりよほど近い。
  バスで行くほどに、理恵は乗客にお構いなく、
「イッナカー」
  なんて大声をあげて私を恥ずかしがらせたが、結構はしゃいでいる。
「で、結局何があるの?」
  私は昨日の晩、理恵に聞かれた事を繰り返した。理恵も知らない。観光ブックをめくって、
「川中島古戦場」
  と、まず読み上げた。八幡原で降りる……とある。
  理恵の言う通り田舎だ。今まで行った所とは随分と違う雰囲気でもある。松本のような若者街ではないが、のんびりしていていい所だと思った。
  我々場バスから降りたのは、川中島合戦の跡地という事だが、田園の中に公園があり、その中に上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの銅像がたてられていた。
  言ってみればそれしかない。昔、戦国時代には戦があったんだろうが、今は広々と平和そうな田園風景が続いているだけだ。その奥に博物館があるのだが入らなかった。
  田舎の好きな私はともかくとして、都会派の理恵がはしゃいでいるのに私は驚いた。意外な一面を見たと思った。日曜日のせいか観光バスが来ていて、それの団体客に説明しているオジサンがいる。川中島合戦の話しをしているのだが、その刀を振り回しながらの講談の口調が面白いのでつい聞き入ってしまった後、博物館に行った団体客と離れて理恵が銅像をバシャバシャ写真に収めた。
  こういう所、抜け目がない。東京にいても、理恵はカメラを持ち歩く事が多い。立体的な構図をあちらこちらから撮って漫画を書く構図に使うのだ。揚げ句の果てに、後から来た外人客に、
「トリマショウ、ハイッテ、ハイッテ……」
  なんて呼び掛けられ、写真を撮ってもらった。
「おい、スゴイなあ、異人がおるよ。こんな田舎に」
  理恵は私と並びながら、こっそり言った。
「異人!」
  史跡に来るなり時代劇の口調になれる理恵の適応力というか、脳天気なノリに私は感心……というより呆れた。
  さらにバスに乗って行くと、松代駅があり、そこで降りて史跡巡りの地図を貰った。
「ねえ、あんたどこ行きたい?」
  と理恵。私は地図を見ても、どこがいいのかわからないから、
「私はねえー。真勝寺」
「なんなのそれ、どこにあんのよ」
「どこかなあ……書いてないかなあ。真勝寺じゃなかったかな、名前」
「何があるの? これじゃないの? 真田家菩堤寺」
「これは長国寺って書いてあるわよ。何がある所か知らないわ。由有子がケンを貰ってきたお寺なのよ」
「ケンって?」
「由有子の犬よ。シベリアンハスキーなの」
「ええー! そんな豪奢な犬がこんな所にいるの?」
  ところが街を歩いて行く程にわかったのだが、この一見古い田舎風の城下町は、所どころ、妙に洒落っ気があって、東京にいてもお目にかかれない洒落た店があったりする。こんな田舎にしては、余程住人のセンスがいいのか、と不思議に思った。
  後になって知ったのだが、この辺りは元々城下町であったらしい。私が驚いた洒落た建物というのも、何も新しく建てた「レトロ風な建築」なんかではなく、モロ古い建物を保存していたり、当時の建築を再現したのかもしれない。品位を保ち、田舎の素朴さも失われていない。史跡の多い土地だからかもしれないし、自然の美しさ豊かさが住んでる人に情緒を施しているのかもしれない。
  街の中にある結構大きい病院の前で、理恵が突然、
「あ! 入沢先生だ」
  と大声を上げた。
「バカね。あの病院のお医者さんじゃないの」
「でも、あの人、入沢先生に似てない?」
  そう言われれば、なんとなく似ている。
  その医者は老女の手を引きながら、病院の外まで出て車の中に乗せてやろうとしていた。私は思わずほほ笑んでしまった。東京では見ない光景だ。
「入沢君って、こういう所のお医者さんの方があってたかもね」
  と私が言うと。理恵が、
「バカだね。こんな田舎の病院じゃ、やりたい研究も出来ないじゃん」
  しかし私は、ふと本当に入沢にとってはその方がいいのではないか、という気がした。由有子の言っていた、彼女が彼女でいるための土壌というのは、こんな所にあるのかもしれない。
  東京に戻ってから数日過ぎた頃、私は入沢から電話を受けた。
「先に帰ってごめんな。音無さんにも悪い事しちゃったね」
「ううん、それより雄ちゃんどうなったのかしら」
「うん、それがね」
「どうしたの?」
  私は、入沢の言葉に詰まってる様子に、ドキンとした。
「死んだよ」
  私は絶句してしまった。だって、大した事ないって、熱を出しただけって、そう言ってたではないか。
「原因はよくわからない。由有子が帰った時には昏睡状態になっていたらしい」
「由有子は……」
「由有子とは、あれから電話でも話してない。先生から実家の方に連絡があったらしい。俺はその翌日、昨日だけど、由有子の母親から聞いた」
「知らなかったわ、私……そんな事になっていたなんて……」
「誰だってそうだよ。由有子が長野からあっちに国際電話しただろ? 先生はいなかったんだけど、病院に行っていたらしいよ。急な事で取り合えず入院させて検査をしよう、という事だったらしい。由有子は東京に着いてから、家に戻っていた先生と電話でやりとり出来たんだ。大丈夫そうだから、予定通りに帰って来ればいい、なんて先生も言ってくれてたらしいよ。でも由有子はすぐに帰りたいって言って帰ったけどね。アメリカまでは直行便でも十二時間はかかる。その間に容態が急変したんだろう」
  子供の病気は急を要するとは言うが、それにしても急だった。その場に立ち会っていない入沢には、ただ驚くだけの出来事だったようだ。どんな病気の可能性があるのか、内科医の入沢は由有子の発った後で、いろいろ予想しただろう。
  ただ入沢は、入院した、と聞いた時点で、一応安心したと言う。どんな病気であれ、ともかく病院で診てもらっている限り、めったな事はおきないと思ったのだろう。だから急死の報告は彼にとって、私よりもその衝撃が大きかったと思う。
「じゃあ……死因はわからないの?」
「心不全だろうね。俺もよくは聞いてないんだけど、入院した時には熱が下がらないというだけだった。その後、熱が下がってからだよ。急に呼吸困難に陥って……」
  と言って、入沢は突然声を詰まらせた。
  そのとたん、私も両目からドッと涙が溢れて来た。長い間、積もりに積もった心配が、激しい感情に急変するのを抑えられなかった。入沢はしばらく沈黙していた。それだけに、受話器を通して彼の悲痛な思いが伝わってきた。
「先生と……由有子の気持ちを思うと……残念だよ」
  と切れ切れに入沢は言った。入沢には医者としての思い、もうじき生まれて来る子供の父親としての思い、由有子への思いの総てが入り乱れて、さすがに冷静ではいられなかったのだろう。
  私は、すぐにもアメリカに飛んで行きたいと思った。せめて電話で由有子をなぐさめたかった。しかし今、電話で私が彼女に何を言ってやれるだろう。今、由有子はどれほど胸のかき乱れる思いをしているだろう。直に由有子の様子がこの目で確かめられないもどかしさが、たまらなく辛かった。


 

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