「光の情景」
作/こたつむり

〈第7章〉3
 
  今は看護婦をしているが、そのうちその職業から足を洗って普通のサラリーマンと結婚するつもりでいた。今さら医者なんかと結婚して、今までと似たような世界に身を置くのはおっくうだと言う。
  だから、入沢が、
「障害を苦にせず、前向きに生きている姿勢が気にいった」
  と結婚の動機を説明しはじめたとたん、手を振って、
「やっぱりお医者さんですねえー」
  と笑い飛ばしたと言う。彼女は自分の障害を全く忘れてつきあえる男性と一緒になりたかったという。
  しかしそこには屈折した心理とか、神経質な過敏さといったものが不思議なくらい無い。医者と身体障害者が結婚するなんてことを、入沢の同情ではないと周囲に説明してまわるのが面倒くさいし、変に美談にされるのもバカバカしい。
  二つめの理由は、今度は入沢が医者で自分が看護婦という、立場に関する問題である。
  これを身分違いと言う人が、世間には厳然としている。しかし、その軋轢に耐えていくほど彼女は入沢に入れ込んでいない。彼女の回りにいる看護婦仲間を見ても、医者と結ばれる人は少ない。彼女の所属している科の婦長が医者の妻なのだが、この人からいろいろな苦労話を聞かされて、玉の輿なんざなるもんじゃないと思っていた。結婚してから、看護婦の資格をアテにされて開業してりするたびに使われるのも嫌がった。
  もっとも彼女の科の婦長というのも、言ってみれば昔の人で、君子が入沢からの求婚を断った、と話した所、
「バカね、あなた、それは昔の話しよ」
  と説教されたら気が変わったというから、そう切実な問題でもない。
  三つめの理由は、ズバリ、入沢が離婚経験者だからだ。これには彼女自身もだが、彼女の父親が反対している。世間体もあるし、離婚者に対する不信感が当然ある。君子は、特に父親にとてもかわいがられて育った。だから、父親が反対するのなら私も結婚しないわ。こんな具合に、入沢は簡単に却下されてしまったのだ。
  しかし、入沢は粘った。時間をかけて君子を口説いて、ついに君子に根負けさせた、というから驚くではないか。
  ここで先ほどの、入沢に関係してきた女性たちとこの君子の、私なりに感じた違いを言っておきたい。
  実は私は、君子に会って、初めて入沢の女性に対する好みがわかったような気がした。
  美樹にせよ、鷹子にせよ、理恵にせよ、それぞれ内容的にも質的にも異なるが、どれも大層な美人だった。
  しかし君子はそうではなかった。決してブス……というのではない。誰からも好感の持たれる女性なのだが、美樹が知性派の美人、鷹子が神秘的な美人、理恵が現代的な美人と、必ず”美人”をつけねば、その人格を含めたすべての個性を物語り得ないのに比べ、君子という人は、美人か不美人かという事には全く関係のない所に彼女の印象がある。だから、彼女が果して美人なのかそうでないのか、私は未だに判定できない。
  ただ、はっきりと言い切れるのは、彼女の始終浮かべている笑顔には、奇麗とか奇麗でないとかいう表面上の印象を越えて、希少価値と言っていいほどの温かみがある。穏やかな性格の赤ん坊が、そのまま大人になった感じである。彼女の細胞の一つ一つが、幸福とほほ笑みに包まれているとしか言いようのない、そんな無邪気な笑顔なのだ。
  医者だから嫌だとか、離婚してるからダメだ、などとズケズケ言われても、不思議と言われた方が傷付かない。そんな、天性の仁徳を彼女は持っているのだ。
  こうした要素は入沢に似通った所が無くもない。が、入沢の、あの透明感や無機的な表情は彼女にはない。慈愛とでもいうか、優しさの面においても、入沢のそれをさらに遥かに上回っている。私には、あるいは君子なら、入沢を支えていけるんじゃないかという予感が、初めての出会いの時すでにあった。
  それにしても、今まで入沢にホレてもホレても、どこか肩透かしを食わされてきた多くの女たちに比べ、君子は実に羨ましいというか、幸運な女性と思えるんだが、当の君子は、それほど入沢という男をカッコイイとも思っていない。最後にようやく結婚を受け入れた時も、
「あなたについて行きます」
  といった献身的な姿勢ではなく、
「しょうがないなあ、もう……」
  と、溜息混じりに言い、その言葉をようやく耳にした入沢が万歳をした、というから、とにかく唖然とするのみだ。
  君子も入沢がこんなにしつこいとは思っていなかった。入沢という男には、しつこそうな所が致命的なほどない。その顔にも、話し方にも、何かに執着しそうな要素がこれほどない男というのも、ある意味めずらしい。
  だいたい、医者と結婚するに関する事情を、回りに説明するのが面倒くさいとか、身分違いを克服するのが厄介だとか、父親に反対されたからと言うだけで、長々と断り続けたというのも、いかにも受け止め方の軽さがありありと表れている。
  つまり君子は、まあ本気ではないだろう、一時的な盛り上がりだろう、時間をかけて断っていれば頭を冷す、そのうち諦めるだろう、という程度に入沢をあしらっていたわけだ。そして入沢はこの態度に、なおも惚れたわけである。こんな女がいるとは私にも意外だったが、とにかく君子にも、そのうち断る理由がなくなってきてしまった。それで、
「しょうがないなあ、もう……」
  になった。私が聞いてもやや不遜な態度に思えるものを、鷹子あたりが聞けば、ほとんど冒涜とまで思うかもしれない。しかし、こういう所、モテすぎる男の実態を見るようで面白い。
  ただ、美樹をはじめ、今まで入沢を取り巻いてきた女性たちと言えば、私の入沢に対する存在感というか、影響力というかを高く評価し、ある者は私から入沢の情報を聞き出そうとし、ある者は入沢との橋渡しを要求し、ある者は私をも恋のライバル視したりしたもんだが、君子は私に対して、そうした一切の執着を持たなかった。
  別に無関心というほどでもないが、いつまでたっても彼女の私に対する接し方は、隣の奥さんといった義理の範囲を越えない程度のものだった。私の事も、直接会えば、
「久世さん」
  と呼んでくれるんだが、どうやら入沢の前では、
「用田さんの奥さん」
  で話しをするらしい。
  しかし、かと言って、彼女は私を無視したり、冷たくしたりはしない。彼女からすれば義理なんだろうが、その義理が並みではない。
  入沢と君子が結婚してから、三か月ほどたった秋のこと、私は友達と一緒に信州の方へ旅行した。これから列車に乗ろうとした時、ふと、君子がホームをウロウロしているのが私の視界に入った。
「君子さん! 入沢さん! 君子さんじゃない?」
  私は列車の中から彼女を呼び止めた。この時、私は君子とあくまでも偶然会ったと思っていた。しかし君子は私の声に振り向き、私に気付くと、
「あ、いたいたー」
  と近寄ってきてニコニコ笑いながら、
「カエルの歯ブラシ見付かりました?」
  と聞くのだ。
「カエルの歯ブラシ?」
  何のことだろう、と考えているうちに、やっと思い出した。
  以前、君子と一緒に買い物をした時に、私がファンシーショップでカエルの絵のついているタオルを見付け、
「あーこれ、タオルも出てるんだあ……」
  と言って、その場で買ったのだ。君子は、
「何に使うんですか?」
  ニコニコと聞くので、
「集めてるの。時計も茶碗もノートも買ったわ。今度このタオルも旅行に持っていこうかなあ……」
  などと他愛のない事を言った事が、そういえば確かにあった。
「旅行? どこに行くんですか?」
「うーん、ニューカレドニア……とか言いたい所なんだけど、実は信州に温泉旅行なんだなあ、これが」
「わあ、いいですね」
「そんな事でもないと、この年になってこんなタオルを買い集めるなんて事ないのよ。旅行セット一式、これで揃えちゃおうかなあ」
  なんて話しをしたのを思い出す。しかしその後、歯ブラシセットが欲しいと言ったか、いついつの何時の列車で行くと言ったかまでは覚えてない。そういえば後で、何かのついでに電話で言ったような気もする。
  君子はそれを覚えていたのだ。しかも、会えるか会えないかわからない駅のホームまで、それを届けにきたのだ。私は驚いて思わず聞いた。
「会えなかったらどうするつもりだったの?」
「久世さんが帰ってきてから渡せばいいかな、と思って」
「でも、私がこれを先に買い揃えてたら?」
  勿論、買い揃えていても、君子がせっかく買ってくれたものだから、いらないなんて口が裂けても言わなかっただろうし、買い揃えてしまったとすら言わないだろう。しかし私はつい聞いた。すると、
「そうしたら自分のにしちゃいますよー。これ、かわいいですね」
  と言って私の手に渡した旅行セットをひょいと指さした。
「じゃあ、気をつけて行って来て下さいね。あんまり食べすぎちゃダメですよー」
  笑顔で見送ってくれた後、彼女は列車が発車する前に帰った。
  私は列車の座席について、それを友達に見せ、君子の話をした。実はその中に理恵もいた。理恵は、
「信じられない。会えなかったらどーするつもりだったのかなあ」
  と驚いたように言った。
「私が帰ってから渡せばいいって思ったんだって」
  と私が言うと、理恵は息を吸い込みながら、
「希少価値」
  と言って目を丸くした。まさに理恵の言う通りだ。
 
 
 

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