「光の情景」作/こたつむり
〈第7章〉2p
入沢は、由有子がアメリカに発った直後に、M大付属病院から国立O病院に転属になった。
病院自身の規模は以前とあまり変わらない、もしくは若干小さくなった感じもするが、内科系統が以前より充実している病院のように聞いている。場所はそんなに離れていないが、以前よりは混まないので(……といっても、待たされる時間はあまり変わらないが……)時々私もお世話になりに行く。
ところでこの入沢も再婚した。彼は二十九才になっていた。
相手の女性は四才年下の看護婦である。入沢の両親は、反対はしなかったが、前の妻、美樹と比べると見劣りがする、とハッキリと入沢に言ったそうだ。
しかし入沢は、両親の批判を苦にはしていなかった。入沢の回りにも、看護婦と結婚している同業者は世間で考えられている程にはいないそうだ。
「前から不思議に思ってたんだけど、どうしてお医者さんって看護婦さんと結婚しないのかしら。私なんて小さい頃、看護婦さんってのは、みんなお医者さんの奥さんだって思ってたのに」
と、私も、初めてこの話を聞いた時には思わず言った。
入院してた時、看護婦さんのよく働く姿、その優しさ、まめまめしさには感動させられた。きっといい奥さんになるだろうと思える看護婦さんが多かったものだ。
「そういう人もいるよ。俺の回りにはあんまりいないけど……。でも開業医になる人なんかで、絶対看護婦の免許を持っている人でなきゃ結婚しないって言う人だっているらしいからね。家の手伝いをしてもらえるから」
入沢は笑いながら答えた。もっとも入沢が、家を継ぐために看護婦を妻に選んだわけではなかろう。
「……で、馴初めは?」
「ナレソメー?」
入沢は照れたように笑う。
「電車の中で知り合ったんだよ」
「ええー? 入沢君の所の看護婦さんじゃないの?」
「うん、違うよ。J医大病院の人だよ」
「そうなの。でも入沢君っていつも車でしょう? その時は電車に乗ってたんだ」
「ああ……学会の帰りだったんだよ。大阪に行ってたからね」
入沢の話しでは、その日、彼はものすごく疲れきっていた。電車の座席でついうたた寝をし、隣に座っていた彼女の方にのしかかってしまった。
これはよく電車の中で見掛ける光景だ。彼女は苦笑しながら我慢していたそうだが、入沢はよほど疲れていたのか、うっかり寝たまま、降りる予定の駅を乗り過ごしそうになった。隣の彼女も、たまたまその駅で降りるつもりでいたのに救われた。
普通だったら、隣から居眠りこいてのしかかって来る奴なんて、腹立たしいだけの相手だから、イキナリ立ち上がって目を覚ましてやったりするもんだが、彼女は違った。親切にも入沢を揺さぶって起こした。
「あのう、スイマセン、ここで降りますから」
と、忠告してくれた。入沢は、ハッと起きて慌てて謝り、自分もここで降りるのに気付いて、ほとんど飛び降りるようにして降りた。
そして忘れ物に気がついた。よほど抜けている。疲れきっていたのだろう。学会に行くとなると、その準備に追われて相当に忙しくなる。それが終わってホッとした所だった……と善意に解釈しといてやろう。
「あっ忘れた!」
と自分のいた席の辺りを振り返ると、一緒に降りた彼女が、
「あの傘! あれでしょう? そうじゃないかと思ったのよ」
と言うや、中に駆け込んだ。入沢も中に入ろうとしたのだが、降りる人に押されて、彼女の後を追うのに一歩ひけをとった。
そしてそこで扉が閉まった。
「ええーっ! じゃあ彼女だけ中に?」
「そうなんだよ。次の駅まで行ってしまった……」
「信じらんない!」
「そうだろ? 俺もだよ。俺も抜けてるけど、彼女も人がよすぎる。びっくりしたよ」
「それでどうしたの?」
「たぶん折り返して来ると思って、反対のホームに廻って待ってたよ。傘なんてどうでもいいけど、彼女に謝らなきゃ気が済まない」
「そりゃあ、そうでしょうねえ。……で?」
案の定、折り返してきた。彼女を見付けるなり、入沢は平謝りに謝った。彼女も、
「いいんですよ。私も、まさかあそこでベルも鳴らないのに、戸が閉まっちゃうとは思わなかったわ。びっくりしたわ」
と気さくに言ってくれ、腕時計を見るなり慌てて、
「じゃあ失礼します」
と駆け出した。そして階段をかけ降りた所で、最後の一段を踏み外して転んだ。
実は彼女はこの日、デートの約束をしていた、と言う。
「ええー! じゃあ、入沢君彼女を奪ったの?」
「人聞きの悪い。だいたい、その彼氏と言うのは、待ち合わせの場所にいなかったんだよ。彼女も二十分しか遅れてないのに……とガッカリしてた」
「してたって……入沢君、ついて行ったの?」
「当然だよ。俺のせいで遅れたわけだし、それをその彼氏に証明してやる義務があった」
入沢も結構人がいい。
しかし、この入沢という男は、美樹の時もそうだったんだが、彼にしては間抜けなミスをして迷惑をかけた女を好きになってしまう。
彼女の名前は元橋君子。その後、会うたびに彼女は入沢の前で足を引きずっていた。
厭味で演技をする女には見えない。それに、よく気をつけていないとそれとは気付かぬほどのもので、入沢が医者でなかったら気が付かなかったかもしれない、と彼は言うが、入沢自身はそれを気にかけていた。何度めかに会った時、彼はつい、
「その足、まだ直りませんか?」
と聞いた。彼女の職業が看護婦と聞いていたので、不自由ではないかと思ったそうだ。すると彼女は、
「ああこれ? これは生れつきなんです」
と言った。慌てて階段を踏み外したのは事実だが、捻挫すらしていなかったと言う。
「ああ……それで、」
と彼女は言った。それを気にして入沢が自分に好意的に振る舞ってくれている、と簡単に彼女は解釈した。実際その時までは入沢もそのようだった。しかし、改めてそう言われると、
「そうじゃない」
と彼は自分の気持ちに気付くに至った。
いきさつだけ聞いていると、美樹の時と非常に似ているのだが、私は君子に初めて会って、これは美樹とはまるで印象の違う女性だと思った。
美樹とも鷹子とも理恵とも違う。今まで入沢を取り巻いていた、どの女性とも違うタイプだった。
どう違うのかは後で書く。が、考えてみれば美樹も鷹子も理恵も、どちらかと言えば、入沢が自分から選んでつきあっていた女性ではなかった。その点、君子は入沢の方から進んで選んだ女性だ。だから、どう違うという私の印象より、明らかに今までの女性たちとは、違って当然なのかもしれない。
入沢も離婚経験もあることだし、由有子の事も、この時にはいつどうなるかわからない状況だった。彼には君子に会うまでほぼ再婚の意志はなかったと言って良い。しかし君子に会ってから、彼は変わったと私は思う。
君子も初めのうちは、
「私が恋人に振られちゃったからって、そんなに気にしちゃあいけませんよ」
などと笑って冗談混じりに断っていたのだが、入沢が一時的な感情で言っているのでもないし、そういう人物でもないとわかって来た。
すると、なんと君子は、入沢の求婚を断った。本気とわかればわかるほど、本腰を入れて徹底的に断り続けた。
しかし入沢にしては珍しく、しつこく諦めなかった。
君子が断った理由は明確なもので、ひとつは自分が身体障害者だからだ。
彼女はその事のために結婚できないなどとは、全く考えてなかった。しかし、よりによって医者と結ばれる事には抵抗があったという。
私もそうした身の上の人の心理を初めて聞いたが、彼女についてはそこに特別なものがあるような気がする。
つまり彼女は自分の障害を決して苦にしてはいない。苦にしていないと言うより、むしろ意識していない。元は自分のような人間が障害者の助けになれば、自分にとって精神的な張りができる、あるいは自分の障害も無にはならない。そう思って看護婦になったのだが、そのうち、
「そうした考えは自分自身の考えではなかった」
と思うようになった。どこかで誰かにそう言われ、そう思い込んでいただけで、自分にとって医療や看護や福祉などどうでもいい事であった。そんな具合に、実にあっけらかんと思う人なのだ。そういう所、実に明るい……というか、軽いというか、いい加減な気もするんだが、君子にそんな所があるのは事実だ。
「勿論、自分の障害をバネに、人様を救おうと考える人は本当にいると思うし、そういう人は立派だとも思うけど、私は別にそうじゃないし、そうなる必要も感じない」
と笑って言って除けるのだ。
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