「光の情景」
作/こたつむり


【第3部】



〈第7章〉1
 
  入沢や由有子について書くのは、これで三度めになる。
  私が結婚した直後に由有子は日本に帰国し、そして再びアメリカへ帰ったが、あの時から約三年ほど経った。
  由有子は、今なお日本には帰って来ない。しかし、彼女の決意は並々ならぬものであったし、その努力はほぼ実った、と見て良いと思う。アメリカにいる彼女の状況は手に取るようにはわからないのだが、あの後由有子は関沼先生と話し合い、日本への帰国はともかくとして、関沼先生と由有子の冷えた別居状態は次第に解決していった。
 とは言え、完全な解決ではない。先生は本当にインディアナ州立大学での仕事があったのだし、由有子も相変わらずカリフォルニアでの仕事を続けていた。
  ただ、由有子がメアリーと来日した時には、先生は行ったっきり戻って来ない、という感じだったが、あれから、先生も一月に一度はカリフォルニアに帰って来るようになったし、由有子もちょくちょく雄一を連れて、先生のいるインディアナ州のテラホウトという町に行っていた。夫婦親子が揃って過ごす時間が以前よりは増えたわけだ。
  由有子は私への手紙にもこう書いて来た。
「日本の通念から見ればおかしいと思われるかもしれないけど、私と関沼は、少し距離をおいた方がうまく行くと思うようになりました。私はこの事を否定的に受け止めなくなりました。
  いわゆる日本人の単身赴任と、ちょっと違う感覚で考えればすむ事だったからです。
  私は夫婦が別れて暮らすというと、つい自分の父親の転勤と重ねあわせがちだったんだけど、私と関沼の別居は、母が自己を苛む一因になりそうだった、どちらかが子供の責任を一方的に負わされる、というものと、ちょっと違う事に気付いたからです。
  むしろ関沼は、前も話した通り、雄一の養育には並々ならぬ関心があるのです。私はその事に始めて気が付きました。
  でもだからこそ、彼も私や雄一のそばにいると、どうしてもあれこれ指図したくなる。そのくせ私からは、どうしたい、というハッキリした答えが引き出せない。それで彼は出て行ったのかもしれない。そう思うようになりました。
  今は、お互いが自由にのびのびとしていられるし、返って、別々になっていると、夫婦の絆を強く感じるのです。お互い、今は顔を合わせるたびに、心の底から会える事を喜びあっています。
  私は小さい頃から、人に置いていかれないように、嫌われないように教育されてきたと思います。勿論そういう風に教育されてきた事に誤りがあったとは思わないけど、自分さえちゃんとしていれば置いていかれるなんて事はないんだなあって、今、自信を持って思えるんです。
  私にとって関沼は夫であるとともに、友人なんだと思います。離れていると、今度会ったら、こんな事を相談しようという事が、きちんとまとめた形にできるようになってきました。
  返ってこうなってみると、関沼が私に大人になってほしいと言っていた意味がわかりました。
  私はあの人になんでもかんでも、自分でも自分の心の中がわからないでいるうちにぶつけてきたんだ、とわかりました。
  甘えていたのです。いつも一緒にいるから、話さなくてもわかってくれると思いすぎていたのです。世の中の夫婦を、話し合わなくてもわかりあっているように錯覚していたのです。関沼は、この嘘を見抜いていたけど、私はまだ騙されていた。本当にこんな事で人の心の悩みを解決する気でいたなんて恥ずかしいくらい。
  でも、今はつくづく人間って、事をわけて説明しなくてはたとえ夫婦でも通じない事もある、とわかってきました。きっと関沼も私にそれをわかってほしかったんだ、あの人もきっと苦しい思いをしてきたんだ、と思うと、今まで本当に申し訳なかったと思います。
  むろん、私と関沼は決して相性のいい夫婦ではないとも思います。ある意味では関沼は私にとって試練でもあります。
  でも、私は話さなくてはわかってもらえない相手を夫に選んだ事は、潜在的に自分が望んだ事だと思うのです。反対に話せば分かってくれる夫に恵まれたんだと思います。その事は、私が人との対話の中で人を理解し、より良い心の在り方を見付けていく道を歩むためには、欠かせない一線だと思うのです。
  身近にいる人間の気持ちもわからない、自分の気持ちも伝えられない人間に、多くの人間を救う事なんてできないのだと思うようになりました。
  反対に幼いままで押し通してきた私を、よく今まで受け入れてくれていた、と気付いた時、それでもあの人は本当に自分を愛してくれていた、と心から嬉しく思いました。
  今、私は関沼がカリフォルニアでやり残した仕事の手伝いをしています。関沼はおそらく私のために、私がカリフォルニアにいる事を夫婦にとって無意味でなくするために、仕事を作ってくれたのかもしれない、とも思うんですが、あの人は決してそうは言いません。
  ちょっとノロケになるけど、仕事を依頼された時に、あの人は、
「君はとてもステキな女性になった」
  って言ってくれたんです。そして、
「安心して頼める人が他に居ないんだ。良かったら助けてくれないか」
  と仕事を頼まれた時の本当に嬉しかった事!
  あの人が自分の困っている状況を訴え、助けを求めてくれたのは、初めてだったんです。やっと自分は、あの人の妻になれた、と思えました。
  それまでは、メアリーも私を外に連れ回せなくなってしまったので、彼女が自分でやってきた事務を私にまかせてくれてました。
  それは、多くの子供たちの手紙を読んで、整理したり分析したりする内容だったのですが、これをやってる最中、必ず雄一が急にむずかって、お昼寝から起きて泣き出していたんです。
  私はずっと子供だからしょうがないなあと思ってたのですが、不思議な事に、関沼から依頼された事務処理を手掛けている時には、つい、うかつに昼寝の時間を過ぎて仕事に没頭していても、雄一は絶対に泣いて困らせたり、仕事を中断させたりしないんです。
  子供って不思議。超能力者かもしれないって思う時すらあります。どうしてわかるんだろう。
  でも、私が他の家の子の事に気を取られているのでなく、自分の父親の手助けをしている事に、あの子が満足しているように思えてしまいます。赤ん坊にも、母親が自分以外の子供に気を取られている事がわかるのかもしれないって思えてきました。私、雄一を産んで本当に良かったと思います。
  関沼にもこの事を手紙でよく知らせます。関沼は私の「雄一超能力者説」に真面目に賛成しています。今、彼は本当に超能力の事を調べているんです。もっとも超能力そのもの……というよりそうしたものが流行する心理現象について研究しているんです。
  ホラ中学の時とか、はやったでしょう? 「こっくりさん」とか「口裂け女」とか。ああいうのが子供の間で流行ると大人にまで伝播する現象です。もしも日本でも今、そんなものがはやっていたら教えて下さいね。関沼によると、そういう流行には時間的なサイクルがあるんですって!
  今までは関沼の研究って、私にとっては他人事だったんですが、この頃、私も面白いなあ……って思ってます。以前に比べて内容が民間レベルに降りてきたから、というのもあるけど、やはりこれも、離れているからかもしれません。離れているとちょっとした事でも、夫に関する事に興味が出てきます。こんな事も私にはいい体験だったと思っています。
  ひさと昭彦さんの夫婦生活も、私には衝撃でした。お互い無理なく仕事と家庭を両立させていて、大いに刺激され、すごく勉強になりました。ひさからの手紙に、今は昭彦さんが、もうひさの担当じゃなくなったと書いてあったけど、ひさたちは、本当に上手に夫婦生活をコントロールしています!
  夫婦ってくっつきすぎても、離れすぎてもうまくいかない、というのが今の私の実感だけど、どういう風にやるのがベスト、という方法の問題ではなくて、一番大切なのは常にお互いが、どうしたいのかを考えたり、言い合ったりする事なんですね。仕事の上でも共にやるべき時と、分けてやるべき時があるんですね。私の方が結婚したのは早かったのに、ひさは本当にスゴイ! アメリカでも、なかなかその辺の所がうまくいかなくて、不幸な関係になっていってしまう夫婦が、まだまだ多いんですよ。
  そうした問題に直面した時に、同じようにそういう事に取り組んでいる友人が、たとえ遠くにでもいても、相談に乗ってくれたり教えてくれるなんて、私は幸せだと思います。そして、ひさは私にとって、ただ具体的で表面的な事ばかりではなく、もっと深い部分で私の心を支えてくれていると思うのです。
  ひさ、本当にありがとう。私は今でも健ちゃんを心から愛しています。健ちゃんやひさがいてくれなかったら、私はここでこんな偉そうな事は言えなかったと思います。私にはやはり遠くにいて、私をわかってくれる存在が必要だし、それもやはり真実なのです。私が私でいるための基本的な土壌は日本にあります。人生の前半において転居の多かった私が何をもって、どこを自分の故郷と呼ぶのかは私にもよくわからないけど、ただ、いつも健ちゃんやひさは私にとって私の故郷そのものだと思います」
  私はこの手紙を何度も嬉しく読み返した。そして、年齢的な事もあろうが、入沢は由有子にとっては偉大な存在だったが、美樹の夫としては、関沼先生の由有子に対する姿勢と比べると、やはり至らなかったと思え、無念の思いがこみあげて来た。
  もっとも入沢は入沢で、あれが美樹という妻に対する、彼なりの愛情の示し方だったのかもしれない。
  アメリカと日本では、夫婦が仕事を持ち合う環境や、回りの受け止め方が違いすぎる。関沼先生と由有子は、その目指す方面に若干の相違点はあっても、協力していけるような仕事のやりかたをしているのに対し、入沢と美樹は同種の職業につきながらも、各々仕事上の交わりはなかった。


 

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