「光の情景」
作/こたつむり


〈第6章〉10
 
「そうじゃないのよ。私じゃだめなのよ。健ちゃんは、ちゃんと丈夫で優しい人を……なんの心配もなく、あの人にはあの人の将来を見てもらいたいの。私になんの資格があるの? 名乗りを上げてたなんて嘘よ」
「由有子、入沢君はね、あの人はあなたのために、由有子のためにお医者さんになったのよ」
「そんな事……そうだったとしても健ちゃんには私の事で、これ以上迷惑をかけたくないのよ」
  わかっていない。いや、わかっているのかもしれない。それでもこれが由有子の由有子なりの愛情の証なのかもしれない。
  でも、そんな事でいいのだろうか。もはや私には自分の気持ちを押えられなかった。由有子の事で足を引っ張られたとしても、それこそが入沢の本望ではないか。由有子は入沢の将来というものを過大評価している。入沢はそんな男ではない。わかっているはずではないか。誰よりも由有子には入沢の本質が。あるいはわかっていても尚、入沢の手に自分を委ねる事をためらうのかもしれない。やはり、入沢への愛情ゆえに。
  由有子の告白は同時に関沼先生より入沢の方を、深く愛しているという事実を浮き彫りにしてしまった。
  私は悲しかった。入沢と二人で由有子を見守り愛していこうと心に決めてきたのに、早速彼女を苦しめている。由有子は今日の告白を後悔するだろう。
  しかし真実ではないか。誰にでもあるエゴイズムにすぎないではないか。私は、由有子にこんな告白をさせてしまった以上、なんとしても入沢と由有子の手をつなぐ以外はないと思った。
  入沢が来たのはもう夜だった。私は由有子との間にあった事を伝える必要があると思ったが、入沢はそれを必要とはしなかった。彼は何も言わずに手で私を静かに制した。そして由有子に向かって、
「由有子、おいで」
  と明るく言って手を引いた。昔、由有子の手を、兄が妹の手を引くかのように引いていた入沢の手。
  入沢には話さずともわかっているのだろうか。
  そうなのだ。由有子の事なら、入沢には何でもわかるのだ。たとえ遠くに離れていても、入沢には由有子の心の在り方が手に取るようにわかっているのだ。由有子が関沼先生に日本に置いていかれそうになった時も、入沢にだけは由有子の心が見えていたではないか。
  つながれた二つの手。そして私はそれが離れる事のないように、堅く結ばれる光景を思い浮かべずにはいられない。二人がどこへ行こうとしているのか、入沢が由有子をどこに連れて行くのかはわからなかった。つれて行けばいいと思った。入沢が連れて行くのであればどこへでも……。
  二人は私のアパートを出た。窓から入沢の自動車がとめてあるのが見える。しかしそこへ行くまでに、由有子は何かを入沢に言って手を放した。
「由有子……」
  私は思わず窓の内から由有子に呼び掛けた。
  入沢は再び由有子の手を取ろうと振り返る。でも由有子は首を振って何かを入沢に訴えているようにも、拒否の言葉を言っているようにも見える。
  すると全く思いがけず、入沢は由有子の体を抱き締めた。フワリと羽根で包み込むかのように。
  私は窓のカーテンを閉めた。後は祈るしかない。

  翌日になって、由有子の母親から電話を貰った。しかし私は、由有子が寝ている、と言って電話を切った。
  その次の日も由有子は戻って来なかったが、夕方になると又、由有子の母親から電話が来た。
「本当に久世ちゃんには、御迷惑をお掛けして。どうもありがとうございました」
  というお礼の電話だ。由有子は実家に戻ったのだな、と思った。
  途中でメアリーが代わって、
「予定どうり、あさってアメリカに帰ります」
「由有子はどんな様子ですか?」
「ええ、元気を取り戻したみたいです。アメリカに帰ったら関沼先生と今後の事を相談するって言ってます」
「今後の事……」
「ええ、私も雄一のためには、やっぱり親子夫婦が一緒に生活できるのが一番いいかもしれないって思ってきました」
  メアリーは、私と由有子が相談して、由有子が結論を出したのだと思ったらしい。
  私もそれをむし返す気持ちはなかった。メアリーにもそう思ってもらっていればいいと思った。
  しかし、入沢は再び由有子を飛び立たせてしまったのだ、という気持ちは、私を暗くさせた。
  この先も、入沢は再び由有子が傷つき、疲れ、助けを呼ぶ時には、いつでも駆け付けてやるのだろう。そして入沢はむしろその時が来ない事をも祈っているのだろう。
  しかし私は、この二つの魂が哀れで仕方なかった。二人は哀しみを共鳴させあいながらもなお、強い愛情で結ばれているのだから。
  締め切りが明けると、私は半日寝ていた。そして夕方になると入沢のいるM大病院を訪れ、入沢に会った。
  入沢は憔悴しきっている。私は初めて彼に会った日から、こんな入沢を見るのは初めてだと思った。
  私と彼は病院の駐車場に出た。しかし入沢は車のとめてある辺りを通り過ぎ、八重桜の花びらが散る病院の裏手の方へ歩いて行った。
「入沢君、寝てないの?」
「うん」
  彼は振り返って静かに答えた。
「大丈夫だよ。俺は」
  彼の目は、澄んでいながら苦悩の色を隠しきれない。入沢はしばらく何も言わずに八重桜の振る向こうの遠景に目をやった。
「由有子は行ったよ」
「どうして……」
  この日彼に会った時から、ずっと押えていた感情の波が急速にうねりを上げて胸に迫ってきた。私は何かを叫んでしまいそうだった。
  入沢は立ったまま、やや俯いている。
  泣いているのではないだろうか。しかし泣いてはいなかった。顔を上げるとその目は優しく私を見た。
  あれは、今日のような八重桜ではなく、もう少し早い季節だったが、由有子と四ツ谷駅で、遠くにけむる桜並木を見ていた。由有子は桜に目をやりながら、今日と同じように去ってしまった入沢を思い出していた。
  約二か月ほど前に、用田と結婚した時は、やっと梅が咲く頃だったが、その前に用田が、式は三月の終わりか四月の初めの頃はどうだろうと言った事がある。式場を選ぶ前の段階の頃で、用田は単純にその頃の方が暖かいからいいと思ったようなのだが、なんとなく私は、桜の季節が別れを連想させていやだ、と反対した。
  三月四月が結婚シーズンで、既に大安は予約が満場だったし、二月までならウインターサービスもあると言われ、結局私達は寒い二月に式を挙げた。
  由有子の結婚の事で、関沼先生に会いに行った時も桜が満開だった。先生と話しをしているうちにジワジワと由有子と別れる実感を催してきて、あの日の桜の光景も悲しかった。私の桜に対するもの哀しい心象風景が今、入沢を取り巻いているのを三たび見た思いだった。
  私は心の中で泣いていた。
  入沢君、どうして由有子をあのまま連れて行ってくれなかったの? 由有子があなたを離れて、どこでどうやって幸せを手に入れられると言うの?
  そう心の中で訴えていた。
  しかし、私には目の前の入沢をどうにも責められなかった。美樹や鷹子の前で肩をかわし、まるで空気か風のようにつかみ所のなかった入沢とは、明らかに今日の入沢は違う人間だった。
  精根つきたかのような彼の表情には、それでも悲壮感だけはなかった。由有子が突然私の家を訪れ、入沢に正面きって反抗して見せた、あの夏の嵐の日にも、彼はどこか美しい透明感を以て由有子の苦しみを受け止めていた。そうした彼の救いに今も由有子は支えられているのだ。そういう思いが反対に私の言葉を奪い、止めようもない激情が私の五体を震わせた。
「入沢君。由有子は、あなたを愛しているわ」
  言うと、それは嗚咽に変わっていた。
「うん」
「入沢君も由有子を……」
「うん」
  彼は再びやや遠くを見詰めていた。
「でも、もういいんだ」
  そう言って、彼は私の肩に手を置いた。
「前田……ありがとう。由有子も君にそう言っていた」
  いつも、いつの日も、由有子は入沢の静かな表情に支えられて生きてきたと私は思う。そして、彼女の不幸を彼女自身の手で克服できるのなら、これ以上喜ばしい事はない。
  しかし、もしも又傷つき、悩み、疲れ果てて帰ってきても、入沢はもう一度彼の精根を込めて由有子を再生しようと働くのだろう。この二人にとって、私の考えたような、なりふり構わず我を押し通すような愛の貫き方は、おそらく永遠に訪れないのかもしれない。
  しかし、そこには他には決してない、尊い魂の在り方が存在しているのだ。
  もはや私は何も語るまい。入沢の目の奥にある炎は、こうしてなおも静かに宿りつづけているのだから。


 

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