「光の情景」
作/こたつむり


〈第6章〉9
 
「ねえ、ひさ、健ちゃんには恋人がいないのかしら」
「そうね、それらしい人はいたにはいたけど……向こうが名乗りを上げて来るだけって感じだったわ。入沢君はカッコイイからもてるのよ。独身の女性には放っておけない存在かもしれないわ」
  由有子はそれを聞くと、ちょっと安心したような困ったような複雑な表情をしてウンと頷いたが、そのまま仰向けに寝て、天井を見詰めている。
「これ、お菓子みたいだわ。食べようか」
  私は気分直しという感じに、理恵の持って来た包みを見せた。由有子は起き上がって、
「そうね、私お茶を入れるわ」
  と言った。
「ダメよ。寝てなきゃ、早く直らなきゃいつまでたっても雄ちゃんに会えないわよ」
  と私は彼女を戒めた。私が茶を入れていると、由有子は包みを丁寧に開け始め、
「北海道バターケーキ」
  と箱の字を読んだ。
  何を考えたのだろう。入沢が北海道に行っていた時の事かもしれない。彼女はしみじみとしばらく箱に書かれた草原の風景の絵を眺めていた。
  辺りは夕闇が濃くなってきている。ようやく日がのびてきてはいるが、もう部屋もそろそろ暗くなってきた。私は電気をつけ、ヒーターもつけた。この所少しは暖かくなってきてはいるが、まだ日が沈むと随分と寒い。
「雄一が生まれる前だったら、私が名乗りを上げていたかもしれないわ」
  と、由有子はふとつぶやくように言った。
「そしたら文句なく由有子に決まりだわ」
  私は笑いながらそう言って、由有子にガウンを羽織らせた。
「ううん、本気で言ってるの、私」
  由有子は本当に真面目な顔をした。
「私、バカね、子供だったのよ。健ちゃんがどんなに私の事を思ってくれてたのか、まるでわかってなかったのよ。アメリカに渡って一人になってしまったら、つくづくわかったわ」
  そう言って由有子は深々と溜息をついた。
「わかったのが遅かったって言う事?」
  私はお茶を入れる手を止めて聞いた。
「そうなの、もう遅いわね。私、関沼にも健ちゃんにも悪い事をしてしまったわ」
「由有子」
  私は彼女の座っている布団に腰掛け直した。
「由有子、入沢君を好き?」
  由有子は私の顔を見た。そして目を伏せた。私は彼女の肩を抱いた。
「由有子」
「好きよ」
「彼の事を愛している?」
「ええ……」
  と言って再び、由有子は私の顔を見た。そして、ため息をつきながら、
「こんな事を言ってはダメよね」
  彼女の誰に対しても素直な気持ちが、今、彼女自身を苦しめ、傷付けているのだと思うと、私は心が締め付けられた。
「そんな事はないわ。私には言っていいのよ」
  由有子は静かに私の肩に頭をのせた。
「でも、私、雄一のためにもう一度あの人の事、関沼の事を愛さなくちゃならないわ」
「でも、入沢君が好きなんでしょう?」
「好きよ。でも関沼の所に帰らないと……」
  妻と子を異国の地に置き去りにする男の元へ……。
「雄ちゃんがいなかったら? そうしたらどう?」
「そんな事……わからないわ。今はもう雄一のいない事なんて考えられないわ」
「だって由有子、あなた雄ちゃんのために先生の所に帰るんじゃないの?」
  由有子はふと私の肩にのせていた頭を起こした。そしてちょっと不思議そうな顔をして私の顔を覗いている。
「ひさ、どうして? どうしてそんな事聞くの? 雄一がいなかったらどうするの?」
「由有子、先生とね……先生と別れる事はできない?」
  由有子はガバッとその身を起こした。
「出来ないわ。そんな事、雄一はどうするの?」
「だから、もし雄ちゃんが……いいえ由有子、あの子も一緒に、入沢君なら、きっと……きっとあなたと雄ちゃんを一緒に……」
「関沼はどうするの? あの人、一人になってしまうわ。雄一まであの人から取り上げる事はできないわ」
「由有子」
  私はもう一度由有子の肩に手を伸ばしたが、由有子はイキナリ座を立ちあがって私の体から離れた。何かに脅えているようだった。
「やっぱり、こんな事言うべきじゃなかったわ。ごめんなさい。ひさ、もう忘れて」
「いいえ、由有子、ダメよ。ちゃんと自分の気持ちを言うのよ」
「もう、いいのよ」
 由有子は、冗談を言い終えた時のように、笑って見せた。
「あなたはまだ若いわ。もし先生が、どうしても雄ちゃんを手放したくないと言うなら、仕方ないと思うわ」
「ひさ」
「あなただけでも入沢君と……」
「やめて。ひさ、もう言わないで」
「由有子! それがあなたのためなのよ。いいえ、入沢君だって、どんなにかあなたの事を……彼は昔とほんの少しだって変わってないわ」
「いいえ、今は違うのよ。何もかも昔になんか戻れっこないのよ。健ちゃんは、ちゃんといい人を見付けて、ひさたちのような夫婦に……」
「逃げちゃだめよ、由有子! 今度こそ入沢君に……。ねえ、お願い、もう一度彼に会って……そうしたらわかるわ」
「何がわかるの?」
  と言いかけて由有子は、
「ひさ、いいの、もういいの。私、健ちゃんには会わないわ。関沼とも雄一とも別れない。アメリカに……関沼の所に帰るわ」
  と一気に言った。
「由有子! 入沢君はどうなってもいいの?」
「どうなるの? 私に何ができるの? 健ちゃんに会って? あの人何を言うの?」
  由有子の両ほほに涙が流れた。私は唇を噛みしめた。
  私は由有子に残酷な事を強いている。でも、たとえどのような困難があっても、入沢と由有子が結ばれるのであれば乗り越えるべきだと思った。なぜなら二人にとって、それが一番自然で一番幸福な道なのだから。
「私は雄一と離れる事なんて出来ないわ。あの子が生まれる前だったら……と思ってしまったのは事実よ。でも今は、雄一のいる今は、あの子のそばにいつまでもいたいわ。そしてあの子の父親にもあの子のそばにいてほしいの」
「由有子を愛している人なら、入沢君なら、雄ちゃんのお父さんになってくれると私は思うわ」
  しつこいと思いつつも私は言った。言いながら私の目からも涙が溢れ出た。今言わなければ由有子は又行ってしまう。でも由有子は首を振った。私は負けてはいけないと思った。再び由有子を行かせてしまったら……。
「彼に会って、由有子、入沢君に」
「会ったって私の気持ちは変わらないわ」
「それなら会ってもいいでしょう?」
  由有子は黙っていた。私は立ち上がって電話のおいてある所に歩いて行った。由有子が後ろから、
「ひさ」
  と声をかけたが、私は受話器を取った。そしてダイヤルを廻し始めた。
「ひさ……待って」
  由有子は近寄って来たが、私は無視した。
「誰に? ねえ、誰に電話しているの?」
  耳ですでにコールが始まった。
「健ちゃん?」
「そうよ」
「やめて! 呼ばないで」
  彼女はフックに手を伸ばしたが、それより先に私は自分の手でカバーした。今なら家にいるはずだ。もしいなくても、どんな事をしてもここに彼を呼び出すつもりだった。
「入沢君? 私よ」
  私の声を聞いて、由有子は後ずさりした。
「これからすぐ来てほしいの。由有子もいるから、お願い。すぐ来て」
  電話を切った。そして由有子を振り返ると、由有子が床に座り込んで泣いているのが見えた。
「違うの。本当は違うのよ。ひさ」
「由有子、入沢君が来るわ」
「聞いて、ひさ」
「入沢君に言うのよ」
「違うの、ひさ、聞いて……」
「愛しているって言うのよ」
「愛しているから、健ちゃんには、健ちゃんにだけは、本当に幸せになってほしいの」
「由有子さえいれば入沢君は……」


 

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