「光の情景」
作/こたつむり
〈第6章〉8p
退院はしたものの、由有子は取り合えず私の家に引き上げてこざるを得ない。まだ本調子ではないし、第一まだ赤ん坊の雄一に移しでもしたら、母子揃ってダウンしてしまう。それに、実家に帰っても、由有子の母親も時々寝込んでしまう半病人なのだ。いくら親切とはいっても赤ん坊の雄一の他に由有子の看病までさせられたらメアリーだってまいってしまう。
「仕方がないわよ。何もずっと離れてるわけじゃないんだもの。由有子が直るまでなんだからね」
と言って私も慰めた。一日二日の辛抱だ。
「本当にいつもいつもひさに面倒ばっかりかけちゃって。泊めてもらったり、看病してもらったり……」
「何言ってるのよ。私だって由有子のうちによく泊めてもらったり……それに、ほら、由有子だって私の看病してくれた事があったじゃないの。覚えてる?」
「看病?」
「そうよ。私が会社に入ったばかりの夏」
「いやだ、看病じゃないわ」
「ううん。毎日按摩してくれたり、洗濯までさせて」
「いやあね、ひさったら人がいいわ」
「でも、メアリーさんが来てくれていて良かったわね」
「ええ本当に、メアリーは雄一の事を自分の子供みたいによく見てくれるの。あやすのが上手よ」
と言いつつも由有子は雄一の事も、面倒を見てくれているメアリーの事も心配している。なんといってもメアリーにとっては細川家は初めて来る家なのだ。その上他人の子供の面倒まで見るんだから、それこそ日本人の感覚だったら気疲れしてまいってしまう所だ。
しかし、メアリーは電話でも気さくに、
「雄一を独り占めできて嬉しいわ。久世さん、由有子をもうちょっと引き留めておいてくれないかしら」
などと冗談を言ってくれた。由有子の母親も孫の面倒を見るのが嬉しくてたまらない。電話を代わると早速、
「久世ちゃん、由有子には一人でアメリカに帰っていいって言っといてちょうだい」
と笑いながらはしゃいでいる。雄一が電話のそばでわけのわからないおしゃべり……というより奇声を上げている。
ただ、前、由有子が来た時と違って、私はこの時はそろそろ締め切りが近付いていた。以前独身だったころに住んでいたアパートがそのまま今は仕事部屋になっていて、由有子にもそこに来てもらった。家賃を二重に払うのは大変なんだが、サラリーマンしている用田と、昼夜に関係なく仕事をする私が、同じ屋根の下で暮らすのは難しいのだ。
他の漫画家の話しを聞いても、みんな仕事部屋と本宅は分けた方がいいと言う。生活のサイクルの違いから夫婦仲が悪くなる事も多いらしい。お互い無理に相手に合わせる事より、いっそ仕事中は別居してる方が無難なのだ。
用田も仕事柄その辺の事情には理解がある。元々一人暮ししてた人なので、私のいない間は外食して来たり、自分で作って食べてくれたり、洗濯も掃除も気が向けばやっといてくれる。本宅と仕事用のアパートは歩いて三分という距離にある。これも、結婚後の住居と仕事用のアパートをいっぺんに二つ探すよりは、初めっから元々私のいたアパートの近くに借家を探した方がいい、と用田が言い出したからだった。
何しろ用田の仕事は私に早く原稿を書かせて上げさせる事なのだ。夫婦で共同自営をやってるようなものである。私が用田の食事の心配をする以前に、用田が私の仕事場に夜食を届けてくれる。
「なにしろ女房に仕事させてもらってんだもんなあ」
と夫はとぼけた風に言うのが口癖だ。
由有子は、
「本当にステキな夫婦だわ。こんな風に助けあっていけるなんて、羨ましいくらいよ」
と私の夫の前でも臆面もなく言ってくれた。
しかし、それもしばらくの間の事だ。今度の移動で用田は他の漫画家の担当になる事がもう決まっている。この辺、いわゆる社内結婚と同じような事情だと思うが、漫画家とその担当者、という組み合わせが夫婦というのも、やはり何かと具合が悪い。
みんな表向きには平和を装っているが、よくよく考えてみれば、なんと言っても担当者は漫画家に締め切りを迫り、作風にイチャモンをつける立場だし、漫画家はなんとか締め切りを延ばし、自分の作品を押し通す立場なのだ。この組み合わせがくしくも結婚してしまう、という事自体我々の間でも他には見ない。
私の体を壊すまで、私の心を落ち込ませた例の仲間内の一件以来、私も担当者を夫に持つ事で、この先ますます落ち込むような事態に陥るのは、なんとか避けたい。夫には仕事の上での遠慮は抜きにして接していきたい、というのも本音ではある。
ところで、理恵にも由有子を会わせる事になった。ほんのチラッとだけだが……。
私も約束してたもんだから、由有子のいる時に理恵から電話がかかってくると、由有子が来ている事を正直に言ったのだ。理恵は、ちょっと前に北海道に遊びに行っていて、お土産を届けに来たいと言って、元々電話してきたのだが、由有子に会えると聞くや、その日のうちに私のアパートに来た。
私は内心、理恵が上がり込んで由有子に根掘り葉掘り聞こうとしたらどうしよう、と思ったのだが、彼女は中には上がらなかった。玄関で土産の包みをくれ、由有子に軽く挨拶をかわすと、そのまま帰って行った。
私は拍子抜けする思いだった。あれほど執着していた由有子の、本当に顔だけ見て帰ったという事に対してである。
この所理恵と入沢が会っている、という話しもあまり聞かない。元々飽きっぽい性格の女だから、入沢に興味がなくなると由有子の事もどうでもよくなった、という事なのだろうか。
もっとも、私が締め切りが迫っている、という事は、理恵も締め切りが迫っている、という事なのだ。しかも理恵は連載ものを手掛けていた。それどころじゃないといった所だろう。
「今の人も漫画家なの?」
「そうよ、もっとも私より先にデビューしたんだけどね」
「ひさと同い年?」
「ううん、ひとつ下」
理恵がデビューしたのは、彼女が二十三才の時だ。これでも早いというわけではない。本当に早い人だと十八才でデビューしたりするのもいる。早けりゃ活躍できるのが長いか……というと、そうでもない。若いうちにこの世界に入ると潰されるのも早い。
「あの人が漫画家なんて……驚いたわ」
「そうでしょ。今は漫画家然とした漫画家って意外と少ないわ。ああいうのもいるのよ」
「私も、もうアメリカが長くて、日本の流行には疎くなってるのね」
由有子は笑った。
「あの人、でもね、入沢君とも知り合いなのよ」
「わあ、そうだったの?」
由有子は寝床に戻って布団を被った。
「ひさの所で知り合ったの?」
「そうよ」
それで、さんざん鷹子にやられたんだが、今はその頭痛の種も消えた。
「ねえ、今の人なんて、健ちゃんのお嫁さんになってくれないかしら……」
と、急に由有子が言った。
「ええー? 由有子、入沢君が再婚すると思う?」
「そりゃあ、あのままでいるわけにはいかないわよ。きのうだって健ちゃん、コンビニエンスでサンドイッチとおにぎりを買って食べるって言ってたでしょう? 私、こりゃあいかんって思ったわ。ひさだってそう思うでしょう?」
「うーん、どうだろう」
「でも、健ちゃんは美樹さんの事を忘れられないかもしれないわね」
と由有子はしみじみと言った。私は、
「そうね、どうかしら……」
と曖昧な事を言った。
入沢が忘れられないのは由有子の事だ。関沼先生と結婚する前に、由有子は入沢に自分はふさわしくないと言ってたが、その実、入沢は由有子を愛していた。今更言っても始まらないが、美樹と別れてしまった以上、入沢にとって由有子があの時あんな風に言わずに待っていたら……という思いが浮かんでこなくもない。元々由有子が待っていたら、入沢は美樹とも結婚しなかったはずだ。
「でも、縁談は持ち上がってるみたいよ」
と、私は話しを続けた。
「そうなのよ。うちのお母さんも、いい人が見付かったって言ってたんだけど、それっきりだわ。断られちゃったのかしら」
「たぶん入沢君がその気にならないんだと思うわ」
「そうね、無理もないわ。離婚した事はただでさえお嫁さん探しの時に不利だってお母さんも言ってたわ。増してやあんな立派な奥さんを持っていたんですもの。今更って思うのかもしれないわ」
由有子に、こんな風に美樹の事を言われると私はなんだかつらくなってきてしまった。違うのよ、由有子、と言い出したい気持ちで、黙っていられなくなってきた。この先永遠に私は、入沢の心を知りながら、由有子にこんな事を聞かされるのかと思うと、ふいに、
「美樹さんの事じゃないわ」
と言ってしまった。衝動と言って良い。そのまま、
「入沢君は由有子が好きなのよ」
と続けて言ってしまった。暴言を吐いた、とは思ったが、意外にも由有子は、少しびっくりした顔をしただけで、すぐに穏やかな表情になった。
「仕方がないわ。私には関沼がいるし、雄一だっているんですもの」
と由有子は言った。