「光の情景」
作/こたつむり


〈第6章〉7
 
 前回、由有子が帰国した時、由有子は関沼先生の事を上月に似ていると言った。その意味はよくわかなかったが、確かに由有子の言う通り、思い込んだ事はどんな事をしても押し切る人なんだと、この時痛烈に思った。アメリカではどうだか知らないが、日本ではそういうのを傲慢、不遜、横暴、陰険、自己中心、我がまま、女房蔑視、というのだ。……と私は言ってやりたい思いだった。アメリカ紳士気取りも所詮は上辺だけ、と私は見た。
「ところでお話しの最中、悪いけど……由有子、具合でも悪いの?」
  話しはまだありそうだったが、実はこの話しの最中から、私は由有子が異様に顔色が悪いのが気になっていた。由有子は、興奮のせいもあるだろうが、ちょっと体を震わせていた。
「え? そんなでもないわ」
「ねえ、寒いんじゃない? なんだか震えているわ」
「そうねえ……そう言えばちょっと寒いかな?」
  と言って由有子は自分ではなく、雄一にタオル着を着せた。
「いやあね、由有子、雄ちゃんは元気そうよ」
「あ……そうか、私に言ってくれたんだったわ」
  由有子は、慌てて自分の上着を着込んだ。私はおかしくなって笑った。由有子もすっかり母親だな、と思った。
  由有子が子供が生まれたとたん、その子の進学や教育環境に気を配るようになったのも、無理はないと思った。そして由有子が日本に帰りたいと言うのを、彼女が自分だけのために主張しているかのように捕えている関沼先生の受け取り方は許しがたいと思えた。まるで先生は、さも雄一の教育ためにアメリカを勧めているかのように言っている感じだが、先生こそ自分の事しか考えてないんじゃないか、と私には思えた。
  それと私には先生の研究が日本でできない事より、由有子を日本に置けない事の方が不幸に思えた。
  入沢がこんな由有子の事情を知ったら、どんなにか心を痛めるだろう。……と思ったとたん、私は、入沢と言えば、と思った。
「由有子、病院に行った方がいいんじゃないの?」
  私がそう言うと、メアリーも賛成してくれた。
「本当よ。風邪をひいたかもしれないわ」
  と由有子の顔を覗いた。由有子は笑っている。
「疲れたのよ。何しろアメリカから日本まで飛行機に乗って、何時間も雄一をだっこしてきたんだもの。でも、すぐ良くなるわ」
  今回日本に来たのは、生まれた子供を日本の両親や知り合いに見せに来たのと、私の結婚式に来れなかったため、会えないでいた私の夫を見に来たのだと言う。
「先生がいなくなって、由有子は一人で雄ちゃんの面倒を見てるのね?」
「ううん、メアリーと二人で」
  と言って、由有子はメアリーとキャッと笑いあった。
「メアリーは、ほとんど一緒に住んでいるのよ。私と」
  由有子が言うには、メアリーの方がよほど育児に慣れていて、雄一もほとんどメアリーが育てているようなものだ、と言う。メアリーにも育児経験がある。
「そんな事はないわ。雄一はちゃんと私と由有子を区別しているわよ」
  とメアリーは言うが、由有子は例のイタズラっぽい目をして、
「母乳をくれるのが私で、そうでない人はメアリー。でも今は母乳は飲んでないから、メアリーがお母さんで、私はお手伝いさん」
  と言って笑った。
  ちょっとホッとしたのは、由有子の交友関係が結構幅広いのをこの時知った事だ。私は由有子が遠いアメリカの地で、一人ぼっちで取り残されているような心配を感じたのだが、彼女にはたくさんの友達や知り合いがいるようだった。
  考えてみれば、彼女だってカリフォルニアに住むようになって、もう五年めになる。日本人アメリカ人取り混ぜて大勢の顔なじみができても不思議はない。まさに遠い親戚より近くの他人というやつで、私なんていくら親友だの言っても日本にいて、由有子の事を心配するくらいしか能がないが、彼女にはいざとなれば助けてくれる人がたくさんいるのだ。前に所属していたボランティアのサークルの奥様たちなどは、私がアシスタント仲間と寝起きを共にしているつきあいをしている以上に、深く由有子の日常生活を支えてくれているらしい。
  だいたい関沼先生がいたって、育児に直接かかわるのは母親である由有子の方なのだ。勿論、夫がいるほうが何かと安心だろうが、とにかく子供を抱えて何から何まで一人で苦労している、というわけでもなさそうで、それだけは私も安堵した。
  ところで夕方になると、由有子は頭が痛いと言って寝込んでしまった。
  熱を測らせたら三十九度もあるではないか。顔色が悪い訳だ。
  すぐにタクシーを呼んで近くの病院に行った。十時間以上も飛行機に赤ん坊を抱いて乗って来てから、あっちの親戚こっちの知り合いに子供を連れて出掛けたのだから、疲労が出ても無理はない。あるいは久し振りに日本に帰って来て安堵し、一気に疲れが出たのかもしれない。
「流感ですね。おそらく」
  医者はそう言った。体力が弱っているという事で、その晩はひとまず入院した。夜になると入沢が飛んで来た。
「オバサン(由有子の母親)も明日来るって言ってたよ」
  さすがに入沢には抜かりがない。病院の帰りに由有子の家に連絡をしてくれたようだ。
  メアリーは雄一を連れて、由有子の実家の細川家へ引き上げた。由有子とメアリーはそこに泊まっていたのだ。私のうちには泊まりに来るつもりではなかったので、何も用意をしてきていない。
「私、明日は退院したいんだけど……」
  点滴を受けながら、入沢の顔を見ると由有子は申し訳なさそうにそう言った。
「そうか、じゃあ先生に言って来るよ」
  と、入沢は由有子の主治医に会いに行った。主治医はもう帰っていなかったが、婦長が連絡を取ってくれた。戻って来ると入沢は明日退院できると言った。点滴が終わって検温の時間になっている。病院は消灯も早い。
  私は入沢が戻って来た時、由有子の手を握ってやっていた。手に血管が滲み出るほど、由有子の手は痩せていた。入沢はベッドを間に私と反対の方の椅子に座って、やはり由有子のもう片方の手を取った。
「わあ、お産の時みたいね」
  と言って、由有子は陣痛の時のように、私と入沢の手に力を込めて、
「ウーン」
  と力むふりをした。
「バカ、熱があるんだから……」
  と、入沢は慌てて止めた。
「もう下がったわ」
「おなか空いてない?」
「今は大丈夫。健ちゃんの方こそ夕飯食べないで来てくれたんじゃないかしら」
「その辺で食べるよ。前田は夕飯食べたの?」
  と、入沢は私に聞く。相変わらず「前田」だ。私は笑いながら、
「用田さんはもう食べたわ」
  と言い返した。
「そうだった。ごめん。まだ慣れてないから……」
  入沢はそう言って笑った。
「そうなのよ。ひさ、もう帰って。旦那さん待ってるわよ、本当に」
  由有子はさっきからその事を気にしている。
「大丈夫よ。さっき電話してきたから」
「もう、おうちに帰ってるの?」
「ううん、会社に電話したの。今日も遅くなるかもしれないから、食べて来るって言ってた。帰りに寄れたら寄ってくれるかもしれないわ。由有子に会いたがってたもの、あの人も」
「わあ、悪いわ。こんな所に。それに、こんな情けない所をひさの旦那さんにお見せできない」
「ああ……全然。大丈夫よ。あの人は。もっと悲惨な漫画家の実態にだって遭遇してきたから」
  と言って私は笑った。
「それに由有子は病気になっても、かわいい由有子だわ」
  私は由有子の手を握りながら、ポンポンと布団の上に軽くたたきつけた。すると入沢も同じように由有子の手を握りながら、布団をポンポンとたたいた。
「うふふ……なんだかあやされてるみたい」
  由有子は無邪気に笑顔を見せて喜んだ。入沢はチラリと私を見た。私も入沢を見てお互いほほ笑みあった。
  長い事、このように由有子を迎え入れる準備を私と入沢はし続けて来たのだ。それが、彼女が病気になったとは言え、実現した事の安堵と喜びが、私から入沢へ、入沢から私へ、つながれた由有子の手を通じて流れていた。
 

 

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