「光の情景」
作/こたつむり


〈第6章〉4
 
  私にもよくわからない。唖然とするしかない。
  ただ、私はともかく、理恵はこういう異常さが耐えられないタチで、早くも逃げ出しかねない不快な表情を呈している。見るのも嫌だ、という顔だ。
「嬉し泣きって事?」
  と、理恵は私に何か言うように催促する。理恵は私に早く何とかしてほしいのだ。私も鷹子が発狂したんじゃないか、という恐怖感に占領されてしまい、恐くなった。
「ねえねえ、あんたさあ……ちょっとお、もう帰った方がいいんじゃない? ねえ」
  と理恵は私に構わず鷹子に直接言った。すると鷹子はイキナリ立ち上がり、ちょっと頭を下げてスタスタと玄関に行った。そして、靴を履いてドアを開けて去った。恐るべき早さだった。
  私はその夜、入沢の家に電話した。そして彼の予定を確かめてから、彼の家に行った。鷹子の事を口にしたとたん、
「ああ、さっき彼女に会ったよ」
  と入沢が言う。
「え? 鷹子さんに?」
「そう。この家の前で待ってたんだよ。ついさっき、今、前田から電話が来る十分前までここにいた」
「それで、どんな様子だった?」
「普通だったよ。どうして?」
  私が今日の鷹子の事を話した。入沢は聞きながら時々首を傾げていた。
「おかしいな……」
  と、彼は最後につぶやいた。そして、
「あの人、今日ね、俺と別れたいって言ってきたんだ」
「ええー? どうして?」
「よくわからない。ただ、俺の重荷になりたくないってそんな事だけ言っていた」
「重荷に? 入沢君なんて言ったの?」
「そんな風に考えていないって言っといたけど、彼女が別れたいって言うんだから、一応承諾したんだ」
  又しても、入沢の、
「君がそうしたいなら」
  的な所が出ている。これは私の予想だが、美樹の時と違って、鷹子は入沢が引き留めれば考え直しただろうと思う。半分それを期待してたのではないか。
「そんな感じじゃなかったよ」
  と入沢は言う。むろん私には、彼女がどういう心境の変化で入沢との別離を決意したのかはわからない。しかし、今日の今日なのだ。理恵との会話が原因で、おそらく、ほとんど発作的に感情的に入沢に会って、つくりたての決意を述べたにすぎないのではないか。
「いやあ、ずいぶんと冷静だったよ。彼女が病気のために口走ったとは思えないね」
  と、入沢は医者としての見解をあくまで譲らない。
「少なくてもノイローゼとか一時的な感情とかで、あんな冷静な言い方はしないんじゃないかなあ……。医者に診てもらいに来たならともかく、知人というレベルで話をしにきたわけだから、俺の前であれだけ落ち着いているって事は、内面的には安定してると見たんだけど……」
「入沢君は医者よ」
  と、私は溜息混じりに言った。
「でも、プライベートな時間の中で接してたんだからね。医者に話すような態度を取り繕う必要はないさ。別に感情を吐露する事だって出来る筈だよね」
「さあね、『ハズ』かどうか……。とにかく入沢君にとっては彼女は患者なのよ。あの子も入沢君の前では患者となってなきゃいけないわけだわ」
「何か気に触った?」
「別に……」
「変だなあ……前田らしくない気がする」
「いいのよ。気にしないで」
  私は笑ってやった。
  ところが、入沢の言った通りだったのか、鷹子はその後、入沢の前に姿を現さなくなったそうだ。理恵と会った時から半日もたたぬ短時間のうちに、鷹子は一体何を悟ったのか、入沢に告げた通り、見事に別離してのけたのだ。
  最近になって、鷹子から電話を貰った。あの後、私は時々通院してたが、彼女とは病院でも会わなかった。
「私ドイツに行くんです」
  と彼女は電話の向こうで言った。
「指の具合どうなったの?」
  と私はオソルオソル聞いた。
「ええ、だいぶよくなりました。お陰様で……。いろいろ御迷惑おかけしましたけど、私、音楽の勉強をしに、向こうに行かせてもらうんです。母も折れてくれましたし……」
  ナルホド、入沢の言った通り、ずいぶんと冷静な物の言い方だし、声にも張りがあって明るい。
  私は入沢の事は聞かなかった。彼女の将来のために、彼女の選んだ道が間違っていない事を祈るしか、私には手段がない。

  私はそれから半年後に用田と結婚した。
  生まれてまだ半年ほどの赤ん坊を連れては出席できないから、と言って、由有子は披露宴には来なかったが、私の結婚後、一月後に帰国した。例によって一時帰国である。
  関沼先生は来なかった。彼女が来たばかりの時、私はちょうど同人誌の原稿を手掛けていたので、由有子にも見てもらいたいと思っていたのだが、彼女の方は結構忙しかった。彼女の父親の故郷の岡山で法事があって、それに出掛けるついでに、生まれた赤ん坊を親戚に見せる予定だったのだ。
  そうこうしている間に、私の方も仕事が入ってしまい、その後も結婚後の挨拶回りなんかしていて、結局由有子に会えたのは、彼女が帰国してから一か月ほど経ってからになってしまった。
  由有子の子供は名前を雄一といい、私が初めて会った時は既に九か月に入っていた。丸々と太ったかわいい子だが、由有子に似てるのか関沼先生に似てるのかよくわからない。アメリカで育った子供だから、いきなり英語でしゃべり出すかと思ったりしたもんだが、今の所、雄一の言う言葉は日本語か英語かさえよくわからない。
「先生はお仕事で?」
  と私は聞いた。用田と構えた新居に由有子を迎えたのは初めてだが、もし由有子が先生と一緒に来てくれても、泊まって行ってもらえるくらいのスペースはある。
「ええ……そうなの」
  と、赤ん坊を抱き降ろしながら由有子は答えた。由有子は以前会った時以上に痩せている。見る影もなく、と言っていいほどだ。余程育児が大変なのかな……と、ちょっと心配になった。
「彼は今、インディアナにいます」
  と、由有子と一緒に来日したメアリー・コンドウが私に教えてくれた。メアリーは以前由有子と組んで、学校や病院に行っていた人で、元々カリフォルニアのヘイワード大学という州立大学の講師をしていた人だ。日系人なので見た目にも日本人と変わらないし、もちろん日本語もしゃべれる。
「インディアナ?」
  と言われても、アメリカの地理に疎い私には、それがどこにあるのか急にはわからない。
「そうです。遠い所です。もう半年も前です。由有子、この人に話してなかったの?」
  とメアリーは由有子に聞いた。
「え? ええ……ごめんなさい」
  由有子は私に謝った。雄一は降ろされたとたんハイハイをしながら部屋の隅っこの方へ行き、ペタンとしゃがんで、母親を見ている。私の家に来たとたん大きい声をあげて泣いたのだが、今はなり止んでいる。由有子は雄一を見て笑ってやりながら、
「そうなの、実はお仕事がちょっと変わって……」
  と私に言った。
「でも、私の手紙は届いたみたいね」
  と、私は由有子に言った。
「ええ、私はまだあのままの住所なのよ」
  由有子は、やっと私を振り返った。
「じゃあ先生と別々に住んでいるの?」
  と、私が聞くと、由有子はちょっとメアリーと目を見かわせてから俯いて黙った。
「本当は由有子も連れて行くべきだと私も思います。でも先生は一人で行ってしまったんです」
  由有子のかわりにメアリーが答えた。腹に一物持っていそうな、それでいてアメリカ人らしい、はっきりした言い方をする。私はこんな話しを聞かされて驚いてしまっている。
「どうして?」
  と私が聞くと、由有子は困ったような顔で首を横に振り、
「違うのよ。すぐに戻って来るつもりだったの。あの人は。それが長引いちゃって……」
  と言いつつも、メアリーを上目使いで見て、途中で黙った。
「以前ペンシルバニアに行った時もそうだったわ。行ったきり戻って来なかった」
  メアリーはそう言って、由有子に同情するように肩を抱いた。


 

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