「光の情景」
作/こたつむり


〈第6章〉3
 
「ねえ鷹子さん、どうして私に連絡くれなかったのかしら」
正直言って、鷹子が入沢や理恵のあとを追い回したりする前に、私に一言相談してくれれば、こんなにまでこんがらがらずに済んだかもしれないのに、と悔やまれた。
「すいません、私も何度も久世さんに電話したいと思ってたんですけど……」
「私の事は信用できないと思った?」
  すると鷹子は私の目を正面から見詰めながら、目を潤ませて首を振った。
「違うんです。あの……入沢さんに、久世さんには言わないでほしいって言われて」
「入沢君に?」
  入沢の事だから、結婚を控えた私に心配をかけたくなかったのだろう。私も一応、このところ入沢の患者になってしまっている。あの後、体調は順調を取り戻したが、私も今度ばかりは真面目に通院している。不眠症の方は相変わらずだが、少なくとも精神の安定を取り戻したと思う。
  以前、内科に通院していた時は、入沢ではなく佐々木先生に診てもらっていたが、あの時はどちらかと言えば、内科より婦人科での診療の方がメインだった。美樹に言われていた、例の生理不順が主な病因で、内科的にはせいぜい神経性胃炎の気があるくらいだっただが、今度は完璧に内臓系統が問題で、胃炎の他に肝臓も若干おかしい。
  原因はストレスではないかと入沢に言われた。別に酒を飲み過ぎているわけでもない。肝臓がやられているとすれば、この職業に携わる人間が持つ、特種な神経の疲労くらいしか思い当たる事はない。
  今度の連載を終えたら、仲間と個人的に同人誌でもつくろうと思っていた。仕事と結婚の準備の合間にますます忙しい事になるのはわかっているが、今は自分自身の書きたいものをまず見付ける事だと思い始めていた。
  入沢にそういう事柄がわかってもらえるとは思ってないが、病院で会うとなんとなく私は入沢にそうした決意を言ってしまう。入沢は入沢で、それと病気の事となんの関係があるんだろう、という不可解な表情を持ちながらも聞いてくれる。
  入院して思ったのだが、結構患者なんてのは、自分の身の上話を医者に聞いてもらって勝手に安心しているものだ。それが言える医者と言えない医者の違いがあるだけで、結局は自分自身で解決すべき問題なのだが、それが聞いてもらえる患者はある意味幸せだと私は思う。
  少なくとも入沢には、現在の私が精神的に重い負担をしょっている事がわかっている。それで、その上に鷹子の事でさらに負担を負わせまいと思ってくれたのかもしれない。
  それと、今にして思えば、美樹との離婚の時もそうだったんだが、入沢は私には由有子の事以外は相談らしい相談は持ち掛けない。私の方から聞き出さない限り、自分がいかなる状況に陥ろうと、私の手を借りないのだ。元々入沢にはそんな所があった。それが、入沢のいつか私に言った、
「他のどんな友人より大切だと思っている」
  という事なのかもしれない。彼なりに、私への友情の証を示しているのだろう。彼は自分の腕だけでは救いきれぬ由有子の事に関してのみ、私に内面を見せ、助けを求めてきたのだ。そして、それこそが彼の真の姿なのかもしれない。
「でもね鷹子さん、私、やっぱり相談してもらえなくて残念だわ。あなたがそんなに入沢君や理恵の事で悩んでいるのなら、こんな極端な事をする前に、私に一言言ってほしかったわ。それが情けないのよ」
「すいません。……でも、私入沢さんとの約束は、どうしてもやぶれないと思ったんです。本当に久世さんには、今になって巻添えにしてしまって申し訳ないと思っています」
  鷹子は涙をこらえるようにそう言った。彼女からは、今まで悩み苦しんできた経過が窺い知れた。この子は本当に心底、入沢を愛しているのだ。そう思うと哀れでならなかった。そして入沢は、この鷹子という患者を通して尚、由有子に通じる医療の道をまっすぐに見詰めているのだ。
  入沢には鷹子の、女の恋心が果して理解できているだろうか。このように苦しんでいる女から、相談相手としての私を奪ってしまったら、鷹子の心の行き場が失われてしまうではないか。由有子が関沼先生の後を追って行きたいと思っていた気持ちを汲んでやったのと同じように、鷹子の気持ちを汲んでやる事ができない、というのは、不思議な気もするが、それも又入沢の姿なのかもしれない。それが見抜けないという事は、やはり鷹子もまた、入沢の心を理解できていないのかもしれない。
  理恵は、私と鷹子の間にあった空気を撃ち破るようにして入って来て、茶をテーブルの上に並び立てた。
「はい、どおぞ」
  私は理恵の入れた茶を手に取ったが、鷹子は目もくれない。そっぽを向いている。理恵は立ったまま、そういう鷹子の大人気ない様子を、軽蔑しきった目で見下している。
  私は一瞬、やはり理恵の方が、鷹子より一枚上手なのではないだろうか、という気がした。
  私でさえ見抜く事のできなかった入沢の本質を、理恵は鋭く嗅ぎ分けていた。その洞察力というか、人間を見極める感性というかが、鷹子以上に、入沢を理恵の近くに呼び寄せているような気がしてならない。
  また、鷹子の嫉妬は意外とそんな焦りが招いているのではないだろうか。正直言って私ですら、理恵に由有子の存在を浮き彫りにされるまで、入沢の真実を見抜くには至らなかったのだ。一見、憎体で悪魔のように底意地の悪い理恵の方が、私や鷹子以上に入沢を理解していると言えるのではないだろうか。
  そういう意味では、このように心底入沢を慕い、その心身を蝕むほどに入沢を愛している鷹子という女性は、その愛情ゆえに目が曇っているのかもしれない。彼女はひたすら入沢から愛される事をのみ望んでいる。入沢の愛が医師としてのそれを越えて、我身一つに注がれる事を切望している。
  しかし、それは空虚な夢にすぎないのだ。美樹は賢明にもそれに気付いた。しかし鷹子はその事に気付かない。目の前にいる恋敵の妨害に心を集中させているのだ。
  しかし、その場においては、私は鷹子の肩を持たざるを得ない。道義的に考えても、他人の恋人に横から手を出している理恵の肩を持つわけにはいかないし、だいたい理恵という女は、入沢の将来を脅かすだけの存在にすぎない。この女には、あまりにも責任感がなさすぎるし、誠実とも言い難い。
「理恵、ちょっと座って、彼女にちゃんと説明してよ」
  と私は理恵の腕を引っ張って座らせた。
「何をよ」
  理恵はふくれたように口をすぼませて私に聞く。
「あんた、この前言ったわよね、入沢君とは結婚しないって」
「ああ、あれか」
  理恵は意外にも素直に思い出して、ニッと笑った。そして鷹子に向かって、いかにも軽い調子で、
「なんだ。あんた、そんな事聞きに来たの?」
  と聞いた。多少余裕があった。姉が妹に話し掛けるかのような余裕だ。ところが鷹子は首を上げ、私と理恵を交互に見詰め、やがて理恵の方に視線を定めた。必死な形相だ。
「本当ですか?」
  と、まともに理恵を見詰めている。
「結婚? しないわよ」
  と理恵は、なんでもない事を言うように言った。
「入沢さんと結婚しないって、おっしゃるんですか?」
「ええ、しないわよ?」
「どうして?」
「どうしてって……」
  理恵は首を傾げた。
「それこそ、どうしてそんな事聞くのよ。私の勝手でしょ」
  と、つっけんどんに言う理恵をおさえて、私が口をはさんだ。
「この人はね、あなたが入沢君と結婚したっていいって言ってるわけよ」
  と、鷹子に言ってやった。
「そうよね?」
  と、理恵に同意を促した。
「ええ、どうぞ?」
  理恵は、お茶でも勧めるように簡単に言った。
  鷹子は絶句した。石のように体も表情も硬直しきって、呼吸が止まってるんじゃないかと思うくらい動かないで、理恵の顔ばかり見詰めた。
  随分長い事そうしていたが、やがてピクリと片方の肩が持ち上がり、もう片方の肩もそれにつれて動いた。一瞬、私は、この子はやはり、神経的な病気なのかもしれないと思った。何か、彼女のそうした動作は、どこかに病的な異常さがある。そして、ちょっと震えているな……と思いきや、
「くっ」
  と、辺りをつんざくようなヒステリックな異様な声を上げ、両手で顔を覆い泣き始めた。
「なんなのよ、この人……」
  理恵も驚いて鷹子の様子を見守っていたが、やがて我を取り戻したかのようにそうつぶやいた。
「ねえ、どうしたのよ」
  と、理恵は私をひじでトントンとつつきながら聞く。


 

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