「光の情景」
作/こたつむり


〈第5章〉8
 
  しかし理恵は、この話に異様に興味を持った。
「ねえ、その人に会わせてくれない?」
「由有子に? 冗談じゃないわよ」
「なんで?」
「今はもう何でもないのよ。由有子に食ってかからないでほしいわ」
「いやあね、いくら私でも、そんなバカな事するわけないでしょ。ただ見てみたいのよ。会わせて」
「だめよ」
「いいじゃん」
「それより、入沢君の事はどうすんのよ」
「その人に会ってみないと決めらんねーなあ」
「じゃあ、ますます会わせられないわ。由有子の事そんな風に見られちゃかなわないもん」
  理恵は、
「強情な奴だなあ」
  とか、
「入沢先生はお前のもんかよ」
  とか、さんざん騒いだが、最後には、
「わかったわよ。決めりゃあいいんでしょう。決めりゃあ」
  と言った。
「どうするの?」
「結婚はしない」
「それじゃあ、さっきと変わんないでしょう? 別れなさいよ。結婚する気ないなら、きっぱりと」
「先生が結婚したいなら、堀内鷹子とでも結婚してやりゃあいいでしょうが。とにかく私は、もしも先生に口説かれたって結婚はしないわよ。もっとも口説きゃしないでしょうけどね」
「じゃあ堀内さんに譲るのね?」
「言っとくけどね、あの先生はあの女の事も口説かないと思うよ。あの女に口説かせるんだね。そうすりゃ自然となるようになるわよ。それでいいじゃない」
  まあ確かにそれでいいわけだ。
「じゃあ約束してよね」
  と私が言うと、理恵は、
「いいわよ。そのかわり、その人に会わせて」
  とむし返した。
「しつこいわね。由有子はアメリカにいるのよ」
「帰ってきた時でいいのよ」
「なんで、そんなに由有子に執着すんのよ。今は本当に何でもないのよ」
  と突っぱねると理恵は急に軟化した。
「ねえ、お願い……お願いだから」
  私は一瞬、理恵の懇願の表情を見てギョッとした。かつて由有子が私にイラストを見せて欲しいと言った、あの、
「お願い」
  の顔と寸分違わぬ顔なのだ。
「しょうがないわね、じゃあそのうち……」
  骨を抜かれた思いがした。私は渋々ながら承知してしまった。

  この頃の私は、いろいろ悩みの種がつきぬ状態にあった。平穏無事にやってきた私だが、こういう事は重なるのか、自分の事も他人の事も、なんでこんなに頭の痛くなる事が多いんだろうと思うほどだった。
  まず、仕事の事だが、この頃、まだデビューしてから一年も経ってないというのに、早速スランプ状態に陥ってしまっていた。
  勿論、私にはデビュー前から、世に出たら書こうと思っていた作品の構想は山ほどあったし、書けば出せる立場にあったのだが、どうもその気になれない。一種の鬱状態と言う程度に思っていたのだが、それをなんとなく他の作家に打ち明けた所、尾ひれがついていろんな人間に知られてしまったのだ。その中で、ちょっとアクの強い友人から説教を食らった。つまり、
「そういうのは、結婚なんて甘い夢を見ている奴がかかる病気なんだ」
  と言うのだ。まあ耳が痛くはある。私がこの時、
「いざとなったら、食わせてもらえばいいし……」
  なんていう事を口走ったのが、その友達にはカンに触ったと見える。私もそういう甘い事を考え初めていた事は認める。しかしその友達とは元々気が合わない事もあって、ちょっと言い合いになった。
  私はその後、気にしないように努めていたのだが、これがその友達の口から伝わっていき、仲間中の話題となってしまった。結構この手の話題というのは、女性の間ではデリケートな問題なので、その後長い事、
「女流作家は結婚するべきか独身を貫くべきか」
  じみた論争が起きてしまった。
  漫画家とかアシスタントなんて連中が、日頃、こんなシリアスな話題をしてる図を見たことがないから、私も、そのうち止むだろうと思っていたのだが、この問題だけは結婚賛成派と反対派に見事に別れ、むろん表立った論争に発展したりしないのだが、それだけに裏で、誰が誰を悪く思っているだの、最初からアイツだけは気に食わなかっただの、陰惨な状況にもつれこんだ。
  元々、何か問題が起こったら、誰かを排斥してやろうみたいな、陰湿なムードが無くも無かった。今度の事は、きっかけにすぎない。だが私は、始終問題の発端として取り沙汰されたし、私だけならいいのだが、柿崎先生に不満を持つ連中から、先生の考え方にまでイチャモンを付ける人が出始めて、だんだん笑い話では済まなくなってきた。
  理恵は独身だったし、結婚なんてする気もなさそうだったが、わりとこういう事には大人の意見を持つ人で、
「気にする事ないっすよ。結婚なんてしたい相手が出て来ればするし、いなきゃしないし、したから作家として失格なんて幼稚、幼稚。いかにも漫画書いてる奴の言いそうな事だよ。だいたい、あんたが漫画家にもなった、結婚もするって言うんで、やっかんでるんだよ。幼いよなあー」
  なんて、口は悪いが結構励ましてくれた。
  でも、こういうまともな意見を言うのは理恵くらいで、結婚したがっているか、結婚する予定があるか、すでに結婚している人の間では、私がいつか子供を生み、漫画家を辞めてくれるだろう、とまで言い出す人が居たらしい。つまり彼女たちも、結婚反対派に対して良い思いを持っていなかったと見えて、
「紙の上でしか恋愛できない奴に、漫画が書けるか」
  と言ったような挑発的な発言があった、と聞く。
  これは私は一言も言った覚えはない。結婚するから、セックスした回数が多いからと言って恋愛を知っているとか、だから恋愛を扱った漫画が書ける書けない、と言った幼いレベルの問題じゃなくて、元々は結婚する事によって女流作家としての心構えが変わるの云々の話しだったのではなかったのか。
  この時になって、私は漫画家というものの現実を見た思いがして、ガッカリしてしまった。成長が未成熟な人間が描く作品に、現実の世界に身を染めている人たちが心を動かされる筈ないじゃないか。こんな事を言う奴は、少なくとも大学時代、一緒に漫画を書いていた友人の中にはいなかったように思う。それとも自分がそんな風に思っていただけで、やはり漫画なんてのは絵空事の世界なのだろうか。
  確かに、夢のある画風やロマンチックなストーリーは漫画に欠かせぬ要素ではある。しかし、それは現実を無視する事によって生まれるわけではない。
  それでは現実とは……。漫画家にとって現実とは、悲しいかなひたすら、
「売れる」
  事なのだ。つまり世の少女たちの望む夢を原稿の中で実現させてやる事。これである限り、結婚に都合の良い夢を抱いている奴の書いた作品か、結婚しない、あるいはできない事を正当化するような作品、という事になるのだろうか。
  くだらん。だいたいこの手の話題に祭り上げられるだけでも迷惑なのに、その渦中にいちいち口出しして、自分が言ったんじゃない、などと噂を消して歩かなければならないとは……。なんともやりきれない。
  こんな事くらいで落ち込むのも、思えば頭がモヤモヤしていて、なんとなく壁にぶち当たっていたからだと思う。大学生で言う所の五月病にも似た現象だろうか、漫画家になったはいいけれど……という、もがきにも似たどうしようもないスランプ状態から抜け出せなくなってしまったのかもしれない。
  そう言えば自分自身、それほど強い根拠があって漫画家になろうとしたわけでもなかった……とこの時反省しはじめていた。柿崎先生との出会いによって、ボンヤリと、
「自分もこんな漫画家になりたい」
  とイメージだけが先行して、がむしゃらにその地位を手に入れたにすぎない。先生自身が漫画家になってから、自分のスタンスを見付けたんだと言っていた通り、いつかこの問題も自然と解決するのかもしれない。……そんな風に自分を励ましつつも、モヤモヤと格闘していた日々だった。
  ところが、そうこうするうちに、再び体の調子が悪くなってしまった。心と体というのは切っても切り離せないものだから、体の不調が先だったのか、心のモヤモヤが先だったのか自分でもわからない。婚約者になっていた用田は、
「怠け病かな?」
  なんて言って笑った。彼には漫画家のバイオリズムを見て来た経験がある。べつに気を引き締めろ、といった追い討ちをかけはなかった。むしろ、
「そういう時はさ、いやになったらやめちゃえ、って思っている方が、返って気が楽になって、早く脱出できるんだよ」
  なんて言って慰めてくれた。しかし、その時の私の神経の過敏さが、それを許さなかった。
「そんな事言うから、結婚する奴はどうたらこうたら……なんて言われるんだよ」
  などと言って、我ながら手に負えない。
  妙に潔癖感から抜け出せなくなってしまい、やめるならやめる、続けるなら続けると決めたくなっていた。その結論を先延ばしにしていては、いつまでたってもモヤモヤから解放されない気分に、自分で自分を追い込んでいるのが、自分でもハッキリと自覚できた。



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