「光の情景」
作/こたつむり
〈第5章〉4p
私は、彼女のためにミルクを沸かしてココアを入れた。もう冬だ。夜は冷える。起きているのなら、体を温めた方がいい。
「ありがとう」
由有子はニコッと笑った。
「ひさは料理が上手ねえ。おいしかったわシチュー」
「いやあね、あれしか作れないのよ」
「あれだけおいしかったら、言う事ないわよ」
「やめてよ。今日は由有子が来るから、腕にヨリをかけたのよ、あれでも……。いつもはもっといい加減なのよ」
「でも、味付けが最高だったわ」
「何言ってんのよ。主婦が……。今度由有子にも作ってもらおうかしら」
「だめよ。私下手なの。おいしくないわよ。でも、そうだなあ……作ってみようかなあ、ひさのために」
「うふふ。先生に僻まれそうだけど、嬉しいわ。由有子が私の奥さんだったら良かったのに」
「あ……実は私も、それ、考えた事ある。私達ってどっちかが男だったら結婚してたんじゃないかしら」
「男に生まれれば良かったわ」
「ひさが男だったら、今日のようなシチューは食べられなくなってしまうわ。私が男なの。そしたらひさに毎日ご飯を作ってもらう」
「げげーっ、主婦はやりたくないー」
「私もやりたくないわ」
と、由有子はいきなり真面目な顔で言った。そしてハッと気付いたように、ニコリと笑い直して、
「でも、やってるわね。どういうわけか」
と言った。そして、ふと……、
「健ちゃんだったらどうだったかしら……」
とつぶやくように言った。
「入沢君が……?」
と私は聞いたが、由有子はちょっと沈黙してから、フッと笑った。
「なんでもないわ」
どういう意味だったんだろう。入沢が美樹を妻にしていた頃の事を言ったんだろうか。入沢の夫婦はどんな感じだったのか……という想像でもしたのか。それとも……。
ひょっとして、由有子は入沢と結婚していたら……そんな事を考えたんじゃないだろうか。深読みのしすぎかもしれないが、なんだかそんな気がして、急に気になった。でも、由有子は話を変えた。
「ねえ、ひさ、私やっぱり恐いわ」
「何が?」
「私も……私もひょっとしたら、お母さんみたいになるかもしれないって、そんな気がして……」
「お母さんみたいって病気の事?」
「そう……」
「大丈夫よ。由有子には先生がついているじゃないの」
「関沼が……そう、そうね」
と言って由有子は遠い所に目をやった。そして再び私を見て、
「もしも私がそんな病気になったら、ひさはどう思うかしら」
「由有子の事を? 由有子は大丈夫よ」
「でも、もしなったら……」
由有子が母親の病気を自分の身に置き換えて言うのは初めて聞いた。私は由有子の手からココアのカップを外し、彼女の手を両手で包んだ。
「私はそれでも由有子が好きよ。たとえどんな事になっても……。私は由有子のそばにいるわよ」
「本当?」
「ええ」
私は、ずっと前から、もしも由有子がこの問いを口にしたら、必ずこう答えてやろうと心に決めていた。私は精神医学の事はよくわからない。こうした事を言うのがいいのかどうか知らない。でも彼女は病人ではない。私の誠意がわかってもらえると信じた。
「ああ……ひさ、ありがとう」
由有子は細身の体ごと私に抱きついてきた。
「良かったわ。ひさの所に来て……。私、赤ちゃんを産めそうだわ」
ああ、そうか、と思った。彼女の髪を撫でてやりながら、彼女が産まれて来る子供の事を気に病んでいたのがよくわかった。
次の日の朝、由有子は家に電話した。
「お父さんが出たわ」
切ってから彼女はそう言った。
「どんな様子?」
「ええ、落ち着いたみたい。私帰らなきゃ……ごめんなさいね。突然来て泊まって」
「それはいいけど、帰らないといけないの?」
「そんな事もないけど……ひさに迷惑かけちゃうわ」
「いいのよ。良かったら今日も泊まっていってよ」
「いいのかしら」
「いやだ、遠慮してるの?」
「ありがとう、じゃあ、私今日こそご飯を作るわ」
「ラッキー」
起きたのが昼近くだったので、朝食のトーストはほとんど昼ご飯となり、由有子は夕飯を作ってくれた。
「私、一度こんな風にひさと一緒に台所に立ってみたかったの」
と由有子は鍋の中の煮物を掻きまぜてる私の横で、野菜を切りながら嬉しそうにそう言った。
「由有子ったら、こんな事を一度もやらないうちに、アメリカに行っちゃったんですもの」
と私が愚痴を言うと、
「本当にそうだったわねえ」
と由有子も言う。
「関沼も、
『勿体なかったなあ、こんなに早く』
なんて他人の奥さんに言うみたいに言ってたわ」
「でも、仕方ないわ。由有子ったら、先生について行きたいって言って、私と入沢君の前でポロポロ泣くんだもの」
「やだ。覚えてるの?」
「覚えてるわよ。びっくりしたわ、あの時は……」
「そうだったわね。でもあれは、健ちゃんに泣かされちゃったのよ」
「わあ、入沢君が聞いたら何て言うかしら」
夕飯が出来ると、おかずをお膳に並べて、ふと由有子が、
「関沼はね、ひさとは違う事を言ったわ」
と言って、私の方を振り返った。
「違うって?」
私が聞き返すと、由有子はニコリと笑った。
「ひさは優しいわね。ひさは本当の親友だわ」
と意味不明の事を言った。
「関沼先生が何を言ったの?」
「同じ事を聞いたのよ」
「同じ事?」
「ええ、もしも私が病気になったらって……」
「ああ、その事ね。そうしたら?」
「そしたら、由有子は絶対ならないって言うのよ。僕がついてるから絶対ならないって……」
「わあ。頼もしいわね」
由有子はお膳に並べ終えて、お盆を台所に置きに行った。そして帰って来るなり、
「そうかしら……」
と言った。私は、
「先生は専門家でしょう? 先生は自信があるのよ。由有子はそうならないって……。もしそんな事になっても、直してあげる自信があるんじゃないかしら」
「でも、あの人は臨床の専門じゃないわ」
由有子はつぶやくように言ったが、その目は私の方を向いてはいなかった。しかし、すぐに彼女は私の方を向いて、
「そうね、それはそうなのかもしれない」
と言い直した。
私は、昨日の夜の事といい、なんとなく由有子の言葉が気になった。自分が何かの病気になるかもしれない、などと悩んでいる人に、何と言ったらいいのか、もしもそういうカウンセラー上の対処方があったとしても私にはわからない。ただそれを、関沼先生が無視している、あるいはわかってない、という意味だったのか、もっと深い意味でもあるのか……。夕飯の後、私は何気なく由有子に、
「ねえ、由有子にとって関沼先生って、どんなダンナさんなのかしら」
と聞いた。はっきり言って、関沼先生が優れた心理学者なのかどうか、という事より、こっちの方が気になる。
「うーん、そうねえ、……あの人は強い人だわ」
由有子は明るく答えた。
「強い……、どんな風に?」
「うん、ひさは高三の時のクラスにいた子で、上月君って覚えてる?」
「え? ……ええ、覚えてるけど、……なつかしい名前ね、どうして?」
「関沼って、ちょっと上月君に似てるかもしれないわ」
私は由有子のその言葉に愕然と来た。
「いやだ。由有子ったら」
「なんとなくね。ひさは、上月君の事、あんまり好きじゃなかったのかしら」
「あんまりどころかズバリ、嫌いだったわよ」
「じゃあ、関沼の事もかしら」
「先生はいい人だわ。いやあね、由有子何を言い出すのよ。先生と上月は全然違うじゃないの。先生に悪いわよ」