「光の情景」
作/こたつむり


〈第5章〉2
 
  由有子には、入沢と私の付き合いが続いてほしい、という思いがあったのかもしれない。しかし、そういう事を、おこがましく口に出して言うような人ではない。又、それを口に出してしまえば逆効果かもしれない、ぐらいは考えただろう。私と入沢がますます離れてしまえば、外国に居る彼女には手に負えない。
  由有子の好意を無にするつもりは全くなかったのだが、やはり私は入沢には、余程の用でもないと連絡を取らなかった。当時の私にはそうするより他に手段がなかったのだ。
  由有子の帰国は、入沢と決別してから、二か月後の事だった。
  私は出迎えには行かなかった。仕事があったからなのだが、入沢や、入沢のウルサイ親戚どもに、又、ゴチャゴチャ言われるのが嫌だからでもあった。
  しかし、彼女が帰国してから二週間ほど経った頃だったか、私はようやく仕事が空けて由有子に会えるようにはなった。彼女の家で会った。例によって彼女の部屋に行った。
「由有子、なんか痩せたんじゃない?」
  会った時から、私は気にかかっていたので、二人きりになった途端つい聞いた。由有子は困ったような顔で溜息をついた。
「そうなの。私……又しても不眠症になっちゃって」
「まあ、いつから?」
「アメリカに行って二年めくらいからかしら。少し経つと直るんだけど、しばらくすると又……って感じで、もう慢性なの」
「全然眠れなくなっちゃうの?」
「それじゃあ死んじゃうわよ」
  と言って由有子はおかしそうに笑った。しかし、彼女の首といい、頬といい、やっぱり随分と肉が落ちている。
「関沼は、仕事のせいじゃないかって言うの」
「そうなの? お仕事忙しいんじゃないかしら」
「そうでもないのよ。ただ、関沼は、精神的なものなんじゃないかって言うの。私、いよいよお給料を貰うようになったでしょう? 責任感がストレスの原因になっているのかも。それに、子供相手なんで、結構神経を使うのは確かだわ」
「まあ。そんなに責任が重いんなら大変ねえ」
「うーん、でも、関沼はその事自体は悪くないって言ってるわ。私みたいにチャランポランなのは、それくらいしないと仕事と趣味の見分けがつかなくなるってね……」
  と由有子は笑ったが、私には由有子がチャランポランとは思えない。
「ただ関沼は、きっといろんな事が気になって眠れないじゃないかって言うのよ」
「関沼先生が言うんだから、そうなのかしら……」
「いくら心理学者だって、そう簡単に何が原因かなんてわからないわよ。多分一緒に暮らしているから、見ていてそう思っているだけなんだろうけど、……なんだかイヤよね。やっぱり、心理学の専門の人に決め付けられると、そんな気がしてきてしまうわ」
  由有子はイタズラっぽく笑った。
  こんな彼女の事は心配だったが、私は久し振りに由有子に会えて、幸せだった。由有子を目の前にしたとたん、心から由有子に会いたかった事がわかった。由有子の言葉にはガサツさというものが少しもない。それでいて気取った所が、これまたどこにもない。痩せてしまったのは痛々しい気もしたが、身体の翳りは、彼女の精神性まで犯してはいなかった。
  漫画家という、ともすれば不健康な世界の中にいても、私の体は丈夫だったが、彼女に出会ったとたん、どこか後ろめたさすら感じるほど、今の自分は真っ暗闇の中にいたような気がした。初めて彼女にイラストを見せたあの日の、
「わあ……奇麗」
  という音楽のような彼女の声は、その時も少しも失われずに私に向かって奏でられていた。一体、この美しい声は、痩せてしまった体のどこから出て来るのだろう。優しく、どこかキラキラした明るさのある……。
  この感動は入沢から遠ざかってしまった事も原因しているのかもしれなかった。入沢のあの笑顔の明るさも随分見ていない。私は、入沢と別れる前に、自分の存在があの時の入沢に必要不可欠であるかのように自負していたが、今にして思えば、彼との別離は、私にとってこそ結構堪える出来事だった気がする。
  噂通り、入沢に対して恋心があったから、というわけではない。なんというか、私には、入沢の奥に含まれる限りない優しさや表情に表れる明るさ、美しさに触れる事は、それこそ必要不可欠の事だった、という思いが、今更のように心を揺さぶるのだった。
  入沢と離れていたのは、たったの三か月で、彼がH大に行ってしまっていた期間に比べれば、たいした時間ではないのだが、精神的には決別した、という暗い影が心に押しつけられてしまい、いつも心のどこかがダメージを受けていたと思う。
  どういうわけか、由有子に会えば入沢を、入沢に会えば由有子を思い出す。まるで連鎖反応を起こしているかのように。入沢と由有子。私にとって、この二つの存在は、どこか切っても切り離せない糸で結ばれてしまっているのだ。
  だから、この二人のうちのどちらかと結ばれていないと、私はどこかおかしくなってしまうのかもしれない。そんな感じだ。
  今度は由有子が私の家に遊びに来てくれる事になっていた。ところが、その予定より二日も前に、彼女から電話が入った。
「ひさ、今お仕事中?」
「ううん。今月はなし」
  実はデビューしても、毎月仕事が貰える程にはまだなっていない。かといって、アシスタントの予定も入れてない。本当は掛持ちしてるくらいでないと、金銭的に苦しいのだが、精神的にそんなゆとりがない。次作の構想を練らなきゃならなかったし、デビューして、曲がりなりにも漫画家になった御陰で、アシスタントを断っても、無責任とは思われずにすむ。それに、はっきり言って、由有子と話しがしたい。できるだけ彼女と一緒にいたい。だから彼女が、
「本当に申し訳ないんだけど、今からお宅に伺ってもいいかしら」
  と言ってきた時には、ほとんど渡りに船。
「ええ、ええ、すぐ来て頂戴」
  漫画の構想を練る……と言い切って家にこもっているものの、はっきり言って頭の中は真っ白。誰かと話しでもして、どっかに弾みをつけたかった所だ。ましてや由有子なら、きっといい弾みがつくだろう。少なくとも、このイライラしつつも、真っ白けを繰り返す無意味な時間に区切りがつく。
「来たら、泊まっていってちょうだい」
  とみっともないほど、両手を挙げて大歓迎。
  この日由有子は、私のアパートに初めて来た。以前、入沢の結婚式の時に彼女と会ったのは彼女の実家だったし、私もまだ親の家に居候していた。
  私は散らかった部屋を片付け、初めて迎える友人のために、夕飯の材料まで買い込んでいた。コンビニエンスの袋をぶらさげたまま、駅まで由有子を迎えに行っわけだ。
  ところが、ウキウキしながら待っていた私の気分とは裏腹に、到着した由有子は妙に暗い。何か心配げだ。彼女は私に会うなり、
「ごめんなさい。突然……」
  と謝った。
「どうかしたの」
  私は突然来られた事より、彼女の様子が気になった。
「実はお母さんが……」
  と、私にはその言葉で総てがわかった。
  由有子の母は、このところあんまり具合が良くない。内臓が弱くて、病院に行ったり寝込んだりしていた。これは人づてに聞いてる事なので、例の精神的な病気の事までは聞いてはいないが、入沢に前、
「この前、由有子の母親に会ったんだけど、ボーッとしちゃって、話し掛けても天井ばっかり見てるんだよな。一応相槌は打つんだけど」
  と言われた事がある。
「やっぱり、由有子がいなくなってさみしいんだろうなあ」
  と、入沢も由有子に早く日本に戻って欲しそうにつぶやいていた。一人娘なので無理もない。
  高校生の頃、同じような事があって、急に私の家に由有子が泊まりに来た事があった。もう、あれから八年以上経つ。私にとっては遠い出来事で、由有子から聞いた母親についての告白も、今では昔の事か、あるいは夢のような気持ちになっていたのだが、この日由有子の突然の来訪を受けて、改めてそうした状況と常に背中合わせであり続けて来た彼女の境遇を認識させられた。



 

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