「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉11
 
  以前私が入沢に鷹子の事……殊に彼女の病気の事を尋ねた時、入沢が実に慎重な対応をしていたのを思い出す。
  勿論それは入沢が医者という立場にいたからで、その彼に、いくら美樹の事があったからといって、彼の患者の病状をしつこく聞いていた私もだいぶ思慮が足らなかったとは思う。が、今にして思えば、鷹子の病気がメンタルな部分に起因したもので、尚更デリケートな神経を要したからだろうと推察できる。
  その病因に関して直接かかわっているのは、神経科の医者なのだが、入沢も鷹子の主治医には違いない。その微妙すぎるほどの関係は、私の口の挟める範囲を遥かに越えていて、簡単に結婚のどうのに発展させにくく感じられ、私にも聞きづらい思いがあった。
  入沢が私に電話してくるのは、やっぱりさみしいからなのかもしれない。日曜日に医者仲間を連れて私のアパートに来た事も結構ある。
  もっとも私のアパートにも始終アシスタント仲間が出入りしていて、なんだか学生下宿のムードになっている。アシスタント連中には、入沢の連れて来る医者仲間が結構好評である。そりゃあそうだ。彼女たちの間では、
「医者だぜ医者。肩書だけでケッコンする気になるもんだぜ。そりゃあ」
  などとキャイのキャイの身の程もわきまえず、かしましい。
  そのくせ一番人気は、やはり入沢なのだ。
「本命大当たり」
  と私の持っているアルバムの、入沢の写っている写真の横に書き込むバカもいた。なんだって入沢ばかり、こうももてるのだろう。高校時代からそうだったが、ややウンザリしなくもない。しかし、高校時代には結構真面目に、入沢に片思いをしている女の子がいたもんだが、この連中にはそういった向きはない。いつしか、
「ひさと入沢さんはアヤシイ」
  などと無責任な噂が流れ始めた。
  入沢の心中を思うとあんまり喜ぶ気もしない。私は相変わらず入沢の事は好きだが、なんとなく、私がアヤシイ気持ちになってしまったら、入沢は逃げ場が無くなってしまうような気もする。妙な勝負に出て彼に逃げられるのも困る。由有子の事があるからだ。
  この所、私は由有子の事が気になっている。彼女が結婚する前から、関沼先生がアメリカに行く事は決まっていたし、行けば長くなる事も聞いていた。
  しかし、それにしても長すぎる。そろそろ三年が経とうとしているのに、いっこうに日本に帰って来る話しは聞かない。それどころか、由有子の手紙からは、尚一層長期の在住が予想されそうなのだ。当初は由有子だけでもちょくちょく戻って来る、という話しだったのに、由有子の結婚式の時と、入沢の結婚式の時に二度帰って来たっきりだ。
  この前会った時に関沼先生の日本嫌いの話しが出た事も気になる。一方由有子は、日本に帰ってきたがっていたのだ。一体この先二人は日本に戻って来るのだろうか。
  入沢も心配している。由有子の母親がこの所体の調子も悪く、ふさぎこんでいるのだ。父親に再び転勤の話しが来たのを断ったと聞いた。
  話しが前後するが、以前入沢が離婚した時、私はその事を手紙で由有子に知らせた。すると彼女から国際電話がかかってきた。由有子は私の手紙を読む前に、両親からその話しを聞いていたらしい。
「ひさ、なんとかならないかしら」
  由有子は低い声でそう言った。
「どうしようもないわ。二人ともすっかり別れる気でいるのよ。私には手に負えないわ」
  と私も残念な気持ちを伝えた。すると彼女は、
「ごめんなさいね。変な事言っちゃって……。私ひさの事を責めたんじゃないのよ。ただ、どんな夫婦にもうまくいかない時はあると思うわ。でも、時間が経つと、やっぱり一緒になって良かったと思えて来るのよ。私、その事を健ちゃんにわかってもらいたかったんだけど、健ちゃんの家がそんな風なのに、電話もしづらくて……結局何も言えなかったわ。私がもし日本にいても、きっとどうしようもなかったかもしれないわ」
  と声を一段と落として残念そうに言った。私はこの時、むしろ由有子が先生と何かあったんじゃないかと、その方が気になり始めた。
「うまくいかない時」というのは、彼女の言う通り誰にでもある事として、由有子のしゃべり方が、回りを気遣いながら話しているように感じたのだ。
  そう言えば、由有子は、私にあまり電話をかけて来ない。時差もあるし、電話料金もかかるからなんだろうが、日本にいた頃には、彼女は結構電話をかけて来るのが好きな人だった。この時になって由有子が日本に電話するのを、関沼先生は快く思ってないんじゃないだろうか、という気がし始めた。このごろの彼女の手紙にも、先生の事を書いて来ないで、ただ、
「当分、日本には帰れないみたい」
  とか、
「日本に帰りたい、なんて言えないものだから……」
  などと言う文章で綴られている事が多い。
  まあ気にしすぎかもしれないが、こう長い事会ってないと、無用な心配をしてしまうものだ。
  しかし、私のデビューの知らせに対しては、彼女は手紙でそれを喜んでくれ、先生と連名でかわいい食器セットを贈ってくれ、
「今度は結婚する、なんて知らせが来るといいねって関沼も言ってます」
  と書いたカードが同封されていたりした。
  入沢と会うと、時々由有子の話しになる。私と入沢にとって、由有子は共通の妹のような存在なのだ。なんとなく私はそういう入沢との関係を変えてしまいたくない。少なくとも由有子が日本に帰って来るまでは、勝手に元の関係を乱したくない。
  ところで、そうこうする内、つい最近だが、入沢の友達の間でも、入沢と私について、妙な噂が起っているのを知った。これは入沢の親戚などからも、私の友達からも、チラホラささやかれている事で、内心、困った事になったと思ってはいたんだが、今回は彼の方から、その事を電話で話してきた。
「俺は、前田とはそういう事にはなりたくないんだよね」
  と彼にしてはめずらしくこぼした。
「困るわよね。でも、私は気にしないわよ」
「うん、でも、ちょっと会うのをやめとこうか」
「そうする?」
「ごめん。俺の事で前田に迷惑をかけたくないんだ」
「迷惑だなんて、そんな……」
  まあ、迷惑と言えば迷惑には違いない。そうかと言って、こんな事で入沢とこれっきりになってしまうのは承服しがたい。
「俺はね……」
  と一旦言ってから、入沢は黙った。随分長い事黙っていた。電話の向こうで彼がどんな表情をしているのか、よくわからない。やがて入沢は、
「俺は、前田の事は他のどんな友達より大切に思ってるよ。君が今まで、俺のためにどれほど心を砕いてくれたか、俺が一番よく知ってる。君の好意に応えたいと思っていたのに、最近なんだか妙な事になってしまって、自分でも残念だよ。でも、前田がもし、何か困った事でもあったら、俺はどんな事でもしてやりたいと思っている」
  彼にしてはめずらしく長く、そして私に対して初めて聞かされた、感動的なメッセージだった。私はゆっくりと話す彼の優しい声を聞きながら、思わず泣けてきた。
  私にとっても入沢は掛け替えのない友人なのだ。受話器を握りしめながら、そう思って涙が止まらなくなった。
「だから、何かあったら必ず連絡してくれよな」
「うん」
「こんな事になって、ごめんな」
「うん、いいの。私も気をつけるわ。私の方こそ入沢君の迷惑になってたかもしれない」
「そんな事はないさ。ただ前田は女性だし、俺と違って、これから結婚して幸せになれると俺は信じているんだよな。だから、俺と変な噂をたてられるのは、かわいそうだと思ったんだよ」
「うん、わかってる。じゃあ、そうねえ、いいお婿さんでも見付かったら又つきあってよね」
「そうだな……そうなるといいな。そうなる事を祈るよ」
  と、こんなわけで、私と入沢は、ちょっと不自然ではあるが、意識的に没交渉となってしまった。
  でも、私は、またいつの日か、そう、私が立派な恋人でも見付けたら、入沢と友達になり直せると思っている。そうなる事を、それこそ祈って、今日の所は筆を置く事にする。
 

 

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