「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉10
 
  そういう事に目をつけるのはイジワルババアみたいだが、これが漫画家の部屋なら気にもしないが、相手が入沢だと思うとかわいそうになってくる。第一、彼は医者ではないか。これでは衛生管理が行き届いているとは言えない。
「ねえ、いつも何食べてるの?」
「外食してるよ。帰りが遅いからね」
  なんで? という風に彼は首を上げ、私を見る。相変わらず奇麗な目をしている。彼がワインのコルクを開けている様子を見て、ふと私は、
「入沢君、余計な事のようだけど、あなた再婚する気はないの?」
  などと口走ってしまった。彼は笑いながら、
「前田の方こそ、結婚しないの? 独身主義なのか?」
  と言い返してきた。ちょっとグウの根も出ない。
「もっとも、今やっとデビューした所だもんな」
  と彼は女性に対しては、失礼な質問だったと思ったのか、すぐに言い直してくれた。相変わらず優しい。
「私はいいのよ」
  と私はちょっとふくれて見せた。
「漫画書いてて独身やってる奴なんて、ゴマンといるんだから。でもお医者さんは、そうは行かないでしょう?」
  実は、私は鷹子の事が気になっている。ずっと入沢の事は話さなかった彼女だが、ちょっと前に、イキナリ電話がかかってきて、
「久世さんって入沢先生の事、どう思っているんですか?」
  などというショッキングな質問をされたのだ。この所、私はついに病院には行かずじまいになってしまっていた。はっきり言って忙しいし、体も順調だ。鷹子にはとんと会わなくなってしまったので、この唐突な電話には驚いた。
「え? どういう意味?」
  私が入沢の離婚の件を黙っていたのを、鷹子を牽制しての事とでも思われたのかもしれない。
「私と彼とはただの友達よ」
  と空かさず誤解のないように答えた。すると彼女は、
「私、入沢先生の事、好きになってもいいですか?」
  と告白する。うーん、なるようになってきたなあー、と思いつつも、
「そりゃあ、あなたが好きになるのを、私はどうこう言えないけど……」
  と、半ば肯定してしまったのだ。しかし以前、入沢に対して、この鷹子の事を性悪女のごとき発言をしていた私が、今更入沢にこの女の事を勧めるのもちょっと都合が良すぎる。鷹子の手前、入沢の女性関係を把握しておかないと会話上、不都合も多い。鷹子を応援していいものかどうか確かめておきたい。
「私さあ、入沢君はやっぱり奥さんをもらった方がいいと思うよ」
  と、しつこく言うのも彼から何らかの情報を手に入れるための手段ではある。入沢は指を組みながら、多少、陰鬱な表情を作った。もう懲りたのかもしれない。それでも、
「そうだね、いい人が現れれば……」
  と言ったのは、お愛想なのだろうか。彼には私に心配をかけた……という引け目がある。
「いい人ね」
  と言って、私は溜息をついた。あの美樹よりいい人という意味なのだろうか。そんな女にいくら入沢でも、この先会えるものだろうか。
「入沢君にはもういるのかもしれないわね。そんないい人が」
  とカマをかけた。入沢はチラリと私を見た。一瞬ドキッと来たもんだ。
  全く私ときたら何を期待しているんだろう。アホくさい。第一そんな事になったら困るではないか。……などとドギマギしていたのは、全くの所一人相撲というもので、幸か不幸か長い沈黙の末に、彼は思い切ったように、
「いない」
  と答えた。……なんだ……と思いきや、
「いや、わからない。どうなるか。とにかく今はそういう心境じゃない」
  まあ無理もない。しかし、わからないって事は、少なくとも気になる相手はいるって事じゃないか。
「ひょっとして堀内さん?」
  私はついに言った。入沢は又、チラリと私を見た。さっきから彼のチラリには何の意味があるのかわからない。私の事を恐れてでもいるのか、あるいは照れてるのか……。ただ終始、沈鬱さだけがある。入沢はハアッと溜息をついた。そして、
「うん、そうなんだけどね」
  と半ば肯定してから、
「困っているんだ」
  と意味深な事をつぶやいた。
「何を?」
「いや、なんていうのか……俺って女性の心理がわからないんだろうな」
「どういう事?」
「つまり」
  と言いつつまた、フウッと溜息をつく。話すのが面倒なのか、よほど困っているのか図りかねた。

「つまり、堀内さんは俺が美樹の事を忘れるまでは、俺に会いたくない、とこう言うんだよ」
  と言う彼の端正な眉が、心底困っているように、キュッとやや八の字を作った。しかし、私はこの八の字が何かを一生懸命説明する時などに出る入沢の表情のひとつである事を知っている。
  ところでそんな事より、私は驚きの声を上げずにはいられない。
「ええ! 入沢君と彼女ってそういう関係だったの?」
「いいや」
  と彼は首をスッと上げ、事もなげに否定した。
「全然。ただ彼女はそう言うんだ。変だろ」
「変だろって、なんなのよ、それ。彼女どうしてそんな事言うのよ」
「さあ……さっぱりわからないよ。俺もつい、
『じゃあ忘れたらどうするんですか?』
  と聞いたんだよ」
「そしたら?」
「そしたら、彼女は、
『そうなってみないとわからない』
  とこんな風に言うんだよね。……で、俺は、
『難しい問題を吹っ掛けられたような気がするなあ』
  と言って、彼女に笑われたんだ。何かおかしいと思う?」
「何かおかしい……ってそりゃ……」
  その会話のなされている光景を目に浮かべたとたん、私は思わず吹き出してしまった。確かにおかしい。鷹子の謎めいた言葉も変だが、入沢の対応の方がもっと笑える。
  鷹子は入沢が好きなのだ。ところが彼女のかけたモーションも入沢のアタマには難しい問題としか思えないのだ。まあ、そんな事より、
「ねえ、入沢君、彼女の事どう思ってるの?」
「どうって、別に」
  と無愛想に言ってから、思い直したように、彼は優雅に私を見てニッコリ笑った。
「奇麗な人だと思うよ」
「そうじゃなくて好きなの?」
「うーん、どうだろう。嫌いな人じゃないよ」
「じゃあ、彼女の言う通りにしなさいよ。美樹さんの事を忘れたら結婚してあげればいいじゃないの」
「結婚? 又そういう事になるのか」
  彼は宙を見詰めながら、スーッと息を吸い込んだ。そして、三たびハアッと溜息をついた。
「とてもそんな心境じゃないよ」
  とさっきと同じ事を繰り返した。
「まあ今はね。でも確かに堀内さんの言うとおり、もうちょっと時間をおいて、彼女を好きになれるようなら結婚するし、そうでなきゃ断ってあげないとね……。彼女だってお年頃なんだし」
  私は美樹に対してと同じ事を、他の女性にまで体験させる愚だけは、入沢に犯してほしくなかった。
  その後、入沢と鷹子がつきあっているのかどうか、まあつきあってはいるんだろうが、どの程度のつきあいをしているのかは、はっきりとわからない。入沢は以前より、結構気軽に私のアパートに電話してきたりして、よく話しはするんだが、鷹子の事はあまり教えてくれない。
 

 

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