「光の情景」
作/こたつむり
〈第4章〉9p
ところが、そのうち、入沢と美樹は離婚してしまった。私は鷹子にはこの事は黙っていようと思ってたんだが、そのうち黙っているわけにいかなくなった。
ある時、彼女は柏餅をくれた事がある。
「これ、母が作ったんですけど、召し上がって下さい」
と言って、小さな紙の箱を袋に入れてくれた。私は礼を言い、そのまま二人で待っていたら、その時入沢がやってきた。
私が病院に来る日には入沢も来ている。外来が終了すると、入沢は私に気を使って、待合いロビーや薬局、会計所などに顔を出してくれる事がある。入沢は私に会うと、たいてい、
「調子はどう? 俺、これから他の病院にも行かなきゃならないから……」
なんて、まるで外出の許可を私に求めるように報告する。私が遠いM大病院にまで、入沢がいるというだけで来ているというのに、自分だけ先に帰るのは申し訳ない、とでも思うのだろう。
しかし私には、彼が忙しいのはわかっている。だいたい入沢がいるのに、わざわざ入沢の来る日に、入沢以外の医者にかかっている私の方がよほど不義理とも厭味とも言える。
もっとも入沢はそんな風には思ってはいないようだった。ひょっとしたら、私が入沢に診てもらうのは照れ臭いと思っているように、入沢も知り合いを、敢えて医者という立場から診察するのは、どこかやりにくい所があるのかもしれない。お互い様だ。
「入沢先生の診療は評判がいいじゃないの」
なんて言って、私は鷹子やその他の患者の証言を伝えてやる。入沢は照れて、
「そんな事ないですよね」
と、一緒にいる鷹子に言った。
すると鷹子は、包みをもうひとつ取り出して、入沢に渡した。柏餅だ。私と一緒にいれば入沢に会えると思ったのか、外来では渡さずに待っていたのだろう。私はそれを見て、
「ああー。私のより大きい」
と冗談半分に冷かした。
おかしな事に、鷹子と入沢と三人で会う機会が多いので、なんとなく、鷹子が入沢のファン、みたいな事実は、この時既に公認のムードがあった。入沢も別に嫌な顔もしないし、鷹子も単純にファンであるという立場に納得している。この先もこうしたシチュエーションは続くわけだし、そこで変に鷹子の存在を否定したりすると、気まずい雰囲気になってしまうので、ファンというムードにしとくのが三人にとって都合がいい。
不思議なもので、入沢は、当初私があれほど鷹子を非難していたにもかかわらず、今では、
「前田と堀内さんは仲良しなんだ」
と思っているように見える。少しも私たちの間に妙な対立関係がある、とは想像していないようだ。きっと病室で話しをしているうちに、仲良くなったのだろう……なんて具合に受け止めているのだろう。まあ実際その通りなのだ。それにしても平和な奴だ、と私もおかしくなった。
さて、鷹子は私の冷かしに対して、
「すいません。でも、久世さんはお一人でしょう? これは、入沢先生と奥様の分なんです」
とぬかした。
書き遅れたが、私は当時、親元を離れて柿崎先生の家の近くにアパートを借りて住んでいた。確かに一人暮しだった。
ところで鷹子の「奥様」のセリフにはドキッと来た。入沢は離婚してしまったし、それより前に美樹は故郷に帰ってしまい、入沢は一人暮しをしていたのだ。一瞬、入沢も苦笑した。
私はこの時、鷹子が、この先も通院して入沢に会うかもしれない以上、こうして何も知らないでいるのは、返ってマズイかもしれないと思い、後になって、
「入沢君ね、実は今、独身なの」
と漏らした。考えてみれば、今更隠し立てするのもおかしい。
鷹子は雷にでも打たれたように衝撃を受け、
「この前、お会いした時に、奥様の事なんか持ち出して、申し訳なかったわ」
と言って、萎れてしまった。その言葉の裏に、
「なんで、もっと早く教えてくれなかったのか」
という非難の調子を感じて、私もうろたえた。
「ごめんなさいね、でもあんまりいろんな人に言うのもナンなんで……」
と言い訳した。すると鷹子は首を振って、
「いいえ、わかります。なかなか言いにくい事ですもの」
と言ってくれた。その後、鷹子の口から入沢の名はピタリと出なくなった。私は内心、この女はやっぱり思い当たるフシがあるんだな、という思いだったが、私もそれ以上は触れなかった。
ところで、その頃私は、ようやくデビューを果し、なんとか漫画家と名のつく身分となった。それまでは直接、あれこれ批判されるのがおっかなくて、もっぱら郵送で原稿を投稿していた私だったが、ちょっと自信がついてきたのと、柿崎先生に、
「本当に漫画家になりたいのなら、一度出版社に持ち込んでみなさい」
と指導されたので、初めて持ち込んだ原稿で運良くOKされ、次作からデビューと決まったのだ。
柿崎先生はアシスタントのデビューには協力的な人で、まだデビューしていないアシスタントでも、自分の作品を書きたいと言うと、
「じゃあ、次の締め切りには他の人に頼むから、あなたはそっちに専念しなさい。仕上がったら私にも見せてね。出来不出来が多少気になっても、投稿しなさいよ。デビューしてからも、毎回百パーセント満足の行くものが書けるとは限らないんだから、自分の実力の最高点でデビューしようとすると後がキツイわよ」
などと教えて下さり、一刻も早くアシスタントから足を洗わせようとして下さるのだ。自作に取り掛かる月は、アシスタント料が入らないので、生活は苦しくなるが、
「それでもガンバレ」
と先生は、電話で声援を送ってきたり、
「夕飯を食べに来なさい」
などと誘って下さり、気分転換をさせたり、食費を浮かせて下さったりもする。又、そうした誘いを断っても、決して気を悪くなさらない。
デビューのニュースは真っ先に柿崎先生と家族に、由有子には手紙で知らせ、やや遅れて入沢にも電話で伝えた。入沢は電話の向こうで、うれしそうに、
「これから来ないか?」
と誘ってくれた。
入沢の住まいは、美樹と一緒に住んでいたアパートをそのまま使っているもので、入沢はそこに慣れてしまい、通勤にも便利なので、両親の元には帰ってなかった。
「散らかってるけど……」
と言いながら、通してくれたが、本当に散らかっている。
「片付けてあげようか?」
と私が言うと、彼は照れたように笑った。
「いや、いいよ」
と遠慮して言う。そして部屋を見渡して、
「これでも前田から電話もらってから、ちょっとは片付けたんだけどな。でもデビューした漫画家を祝う場って感じじゃないなあ」
と言って、気さくに笑った。
「漫画家の部屋はもっとスゴイわよ」
と私は慰めた。
「これより?」
「こんなもんじゃないわよ。部屋の中に何か住んでいそうよ」
「鼠?」
「いいや、狸だね。それくらい住んでいてもわかんないわよ」
入沢は例の、
「そっかあ。そりゃあ凄いな」
と笑い、
「良かったよ、そう言ってくれる女の人で。俺も外に出た方がいいかな、と思ったんだけど、前田ならいいかと思って」
「どういう意味よ」
私も笑った。美樹のいない今、入沢の姉貴分はもはや私一人となってしまった。もっとも私にとっては、本物の弟より入沢の方が、余程出来のいい弟と言えた。
「ビールでいいかな」
と入沢は冷蔵庫を開けたので、
「私、ワイン買って来ちゃった。自前でカンパイしようよ」
とコンビニエンスの袋を見せた。勝手に座布団を出して座ったが、なんとなく湿気ている。やっぱりただでさえ男暮らしの上に、夜しかいないとなると、部屋もおのずと閉めきったままなのか、全体的に風通しが悪そうだ。