「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉8
 
  日本人が働き過ぎる事については、以前関沼先生も、
「働かないといけないと言うより、いけないと思い込んでいる事の方が多い。日本人は自分自身で生きがいを見付けられず、会社に与えてもらいたがる」
  と指摘していた通りだろうが、医者が患者のために働きすぎたとしても、誰に批判できるだろうか。私でさえ、鷹子の話しを聞いた時には、
「もうちょっと医者が時間を裂いて、彼女に病気の説明をしてやればいいのに。説明の仕様のない段階なのだとしても、せめて彼女が納得できる線まで、気を配ってやって欲しい」
  なんて思ったものだ。
  入沢はその医者なのだ。別に鷹子に対して節度を越えた事をしているわけでもない。入沢は医師として振る舞ったのだと思える。
  しかし、それが美樹を手放す結果に繋がったのだとしたら、元も子もないではないか。何かがおかしくないだろうか。
  やはり入沢はもっと美樹に説明し、わからせ、引き留めるべきではないだろうか。なぜ、妻一人に結論を出させるのだろう。結婚したからには、共に考え、共に結論を出すという姿勢があってもいい筈だ。入沢はそういう姿勢を放棄している。私にはそんな気がして仕方がなかった。
  結局、私のおせっかいは何の役にも立たなかった。それから三か月後に二人は正式に離婚してしまった。美樹は私にあの後一度だけ会ってくれたが、すぐに実家に引き上げてしまい、離婚するまで東京には戻って来なかった。
  私には、美樹がこの先、いろいろな人間に離婚した事を話さなくてはいけない、と言っていた事が思い出される。
  当人には、何度も同じ事を考え、もう決意を固めた事でも、それを聞く人はいつでも誰でも驚き、ついその理由を聞くのだ。私でさえ初めて聞いた時はそうだった。
  この先、入沢も美樹も会う人ごとにこの責苦を味あわされるだろう。何という負債だろう。ただでさえつらい過去を、出会う人ごとに傷を逆撫でされ続けるのだ。
  しかし、賢い美樹の事だ。それを覚悟の上で、それでも尚且つ離婚に踏み切ったのだろう。私がどうして? と尋ねた時、彼女には、すでにシナリオがあり、それを私に読み上げて見せた。泣きながら、愚痴をこぼすような醜態をプライドの高い美樹は、この先も絶対にしないだろう。そうまでして決意を固めていた心の根に、何があったのだろう。
  私には、この二人の離婚は、あまりにもあっけなく決まり、あまりにも早く成されたという印象が根強い。勿論、私は長年のつきあいから、美樹より入沢の将来を案じた事は言うまでもない。
  しかし、私の気持ちの底には、どちらかと言えば美樹の肩を持つような所があった。単純に同性としての同情もあったが、それ以前に、ようやく入沢に対する不信感が募り始めたせいでもあった。
  私には一度たりともあの二人の間に、決定的な別離の匂いを感じ取る事は出来なかった。もちろん、夫婦の間には他人には感じ取れぬ決定的な瞬間というものもあっただろう。それでも尚、あの聡明な美樹と、温和な入沢が、さまざまな困難を乗り越えようともせず、ああも簡単にコトを進めてしまったのか、どうしても解せなかった。
  そして、今さら、別れてしまった夫婦の事をどうこう言う愚を承知の上で敢えて言うなら、私には、もしどちらか一人に責任を追求しなくてはならないとしたら、それが、入沢の方により多くあったと思えて仕方なかった。
  入沢が美樹のどこかが不満で、離婚に同意したのであれば、例えばそれが、我がままや自分勝手から出た動機であっても、まだやむを得ないだろう。つまり、性格の不一致として納得できた気がする。むろん、そうとなれば、あの寛容な入沢が、あの賢明な美樹の何が気に食わなかったんだろう、という不思議が新たに生じるだけの事だが……。
  しかし、私が一種の腹立たしさすら感じたのは、入沢が言われるままに結婚し、望まれるままに離婚した、優柔不断としか言いようのない態度に関してである。
  美樹はそうした入沢に対しては、最後まで触れずにいたが、もし、私が美樹の立場だったら、あたかも入沢に、
「結婚するのも離婚するのもお任せします」
  とでも言われているかのような屈辱を感じないでいられただろうか。むろん、美樹も離婚を持ち出して夫に引き留められる事で、愛情を確かめようなどと、バカな事を考える女ではないから、もし入沢に引き留められたら、それはそれで苦痛でしかなかったかもしれない。
  むしろ……と私は思う。美樹は、離婚を言い出すより前に、入沢のお任せ態度に悩み苦しんでいたのだろう。だからこそ、入沢との離婚を決意した。
  せめて美樹に離婚を言い渡された段階で、入沢は気付くべきだったのだ。それをいくら寛容で思いやりがあったとしても、
「君がそうしたいのなら」
  と簡単に判を押すというのはどういう事なのだろう。これではバカというものだ。一体何のために結婚したのだ。
  しかし、私は彼らが離婚するまではともかくとして、その後は、この事には努めて触れなかった。
  終わってしまった事を今更言っても始まらない。むしろ古傷をむし返す行為にしかすぎないから、というのがタテマエの理由で、本音を言えば、入沢よりむしろ美樹の名誉のためだった。私は当時、こんなバカな結婚に振り回されて、女にとっての大切な時期を逸してしまった美樹に対する同情の思いが相当強かった。
  それが顔に表れていたのか、入沢に会っていても、彼は私に対して口数も少なく、同情を求める様子もなかった。そこには頑固な印象も、強情な表情もなく、より一層落ち着いた冷静さと大人びた沈黙しかなかった。むしろ、反対に、憤っている私に対する憐憫を軽く感じた程で、それが私をして増す増すイラ立たせた。
  初め、そういう彼の態度が、あたかも嵐が通り過ぎるのを待ってるかのようなふてぶてしいものに思えたのだが、今になって考えると、おそらく彼は、私が胸に膨らませていた疑問をぶつけても、一応答える用意をしていたのではないか……と思えるようになった。それほど彼は冷静だった。
  しかし、入沢の口からはついに離婚に関する言い訳を聞くことはなかった。そのうち私も、心底、終わったものは仕方がない、という気持ちになってきた。
  彼らが離婚した頃になると、私の通院も一か月に二度くらいになった。
  当初鷹子の正体を暴いてやろうという子供じみた気持ちで来たのだが、そのうち、私はその行為が、入沢と美樹の離婚を防ぐため、というよりは、その原因を自分自身の納得のいく形で捕えたかったからなのだ、と気付いた。
  由有子に突然、入沢でなく関沼先生と結婚する、と言われて、ショックだった時の事を思い出した。どんなに仲が良くても、やはり学生時代に、一年ばかりつきあった友人ではわからない事も多い。由有子についてもそうだったが、入沢については、昔から彼にちょっと感じていた、首を傾げたくなる部分が、今回ほどクローズアップされてきた事はなかった。
  あるいは由有子が大学に入ってから、少しづつ変わったように、入沢も病院に入ってから、何かが変わったのかもしれない。
  ただ、入沢という人間は、由有子のように、自分の心境の変化や成長について説明したりするような性質を持ち合わせていないし、私と入沢は、美樹を通してようやく話しをする程度のつきあいしかなかった。
  私は入沢の当時いた環境に、遅れ馳せながら関心を持つようになった。
  相変わらず行けば病院は混んでいて、通院が三回、四回と重なってきた頃にはだんだんバカバカしくなってきた。元々たいした病気でもないし、通ったからと言って、いちじるしく良くなったというわけでもない。だいたい初めがバカな動機で来たのだから、迂闊にも通院するようになるとは計算外だった。
  初めはカタキとまで睨んでいた鷹子だったのに、通院するようになると、私にとって彼女の存在は唯一の気慰めになった。なにしろ彼女に会える以外、病院に来る事に楽しみはないのだから。
  もっとも待っている間、彼女と話す事と言ったら、他愛のない世間話か病気の話しで、待ってる時間のうっとおしさに変わりはなかったが。
  鷹子は相当入沢にのめり込んでいた。病院にも入沢の顔を見に来ている感じがあった。
「じゃあ、今度入沢君も誘って、一緒に食事しましょうか」
  などと、軽い気持ちで言ってしまった事があったもんだから、次に会った時に、
「入沢先生に、あの後お会いになりました?」
  などと彼女がちゃんと覚えていて、期待しているのを見てアセッた。二週間は経っている。これはマズイな……と思い、私は何気なく入沢の妻、美樹がいかに美人で才女で気立てがいいかを話したりして、なんとか彼女の気をそらそうとしたものだ。
 

 

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