「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉7
 
  彼女が自分の病気の事を教えてくれたので、私もその事を彼女に話したんだが、鷹子は病気についてはずいぶんと詳しい人だった。私の症状について、それはこれこれこういう病気で、こんな危険性がある、とか、こうすれば早く直るとかアドバイスしてくれたのだ。
  年下の子にそんな事を教えてもらえるとは思っていなかったので、驚いたが、それなら彼女のアドバイスの通りにしてみようか、などと思い始めた。
  それにしても待たせる、と私は呆れた。いつになく朝、無理に早起きして九時に診察券を入れてから、薬が出て帰れるまで、四時間はかかっていた。話しには聞いていたが、……というより話しに聞いていたので、今まで来る気がしなかったのだが、今まで無病息災、健康優良でやってきた私には到底信じられない。病弱な由有子が病院嫌いになってしまったのも頷ける。
  ところで、鷹子の話しに出て来る音大や、ピアノの話しは由有子を思い出させる。もっとも由有子は結局音大には進まなかったのだが、彼女の話題に私は懐かしいものを感じないではいられなかった。
  薬をもらうと、彼女と住所、電話番号を教えあって別れた。彼女は全く私の下心には気付いていない。
「堀内さんに、私会ったわ」
  入沢に再び会った時、私はそう言った。鷹子に会った日、私は入沢にはちゃんと会ってない。内科外来の部屋の中は二つにカーテンで区切られていて、私が心配したように診察風景を彼に見られる事はなくて済んだ。私の主治医となったのはオジイチャン先生で、鷹子の言った通り、とても優しいお医者さんだった。入沢は、
「え? 本当に会ったの?」
  と、ちょっと驚いた。
「ええ、会うって言ったでしょう? 会ったのよ」
「そうか。前田が診察に来たのは知ってたけど、なんでもなかった?」
「なんでもあったわよ」
  と私が言うと、入沢は驚いた。
「えっ! 何て言われたの? 俺、聞いてないけど……」
「聞いてない? 誰に?」
「誰って佐々木先生だろ? 確か前田を診たのは」
「佐々木先生?」
  私はようやく、入沢がとんでもなく勘違いしているのを知った。
「なんでもないわよ。私が病気になるわけないでしょう」
  私はちょっとイラついた。私が病院に行った動機を彼は知ってるではないか。それなのに、
「なんだ。驚かさないでくれよ。良かったよ。なんだったの? 原因は」
  と、全く私の病気の事に焦点を当てている。
「なんて事ないわよ」
  私はおかしくなった。それどころじゃないだろうが。
「なんでもあったのは、堀内さんの事よ」
「堀内さん? 変わりはないって言ってたけど」
「違う!」
「違うって?」
  入沢はキョトンとしている。ついに私は笑い出した。
「彼女がなんでもあっても、入沢君はなんでもないのね。そんな事だろうと思ったわ」
「なんなんだよ。それ」
  入沢も笑い出した。
「ねえ、入沢君。でもね、これだけは言っとくわ。堀内さんでも誰でも、確かに患者さんっていうのは、多かれ少なかれみんな悩んでいるし、それぞれかわいそうだと思うわ。でもね、患者さんにとって、お医者さんっていうのは、公私の区別のつかなくなってしまう面もあるものなのよ。私もその事がわかったわ」
「どういう事?」
  入沢は私の話しの途中で、当初、私が何のために病院に行ったのかは思い出してくれたようだったが、その意味については不可解という顔をした。
「さあ……うまく言えないけど……」
  本当にうまく言えない心境だった。
  私には鷹子を非難できないと思った。たぶん、美樹もそうだったのだろう。その事がよくわかっていた美樹の事を思うと、胸が痛む思いがした。
  美樹には医者にすがりつく患者の思いがよくわかっていたのだろう。そして、入沢には、邪道な下心で病院を荒らしに行った私の身をも、このように純粋に案じる姿勢しかないのだ。入沢の患者に対するこのような優しさ、医療に対するひたむきさを見て、一人悶々と苦しんでいたに違いない。
  他人が聞けば、なんと心の狭い、つまらぬ嫉妬をする女だろうと思うかもしれないが、入沢のような優しい男を夫に持った妻の心は、そう簡単に人にはわかるまい。
  よくテレビドラマなんかで、熱血教師が教え子の指導にひたむきになるあまり、家庭を顧みず、妻に、
「生徒と私とどっちが大事なの?」
  などと怒鳴り散らされるシーンがあるが、そんなバカな事を、あの美樹が言うとは思えない。おそらく彼女のプライドが許さないだろう。入沢は美樹と出会う事によって、誰にも振る舞えなかった甘えを見せていたが、美樹は、姉のような存在として入沢に振る舞い続けてたあまり、嫉妬深いバカな妻になりきる事が難しくなってしまったのかもしれない。美樹は自分をして、
「わがままで、バカで、子供」
  と罵ったが、決してそうではなかったのだ。むしろ誰にでもあるそうした面を、美樹は自分に対して許せなかったのかもしれない。
  とにかく入沢には、なんとかそういう美樹の気持ちを汲んでもらわない事には、もし、ここで私がなんとか離婚を思い留まらせたとしても、結局は、また美樹が追い詰められる事になりかねない。しかし、入沢は取り合わない。
「美樹はそんな女じゃないと思うけどなあ」
  と言われてしまうと、私も他に言いようがない。入沢には意外とそういった包容力がない。いい所も悪い所もひっくるめて人を愛する事ができない。ハナッから悪い所を見ようとしない。無いと思ってしまう方が楽なのかもしれない。それで、
「美樹の言い分は正しい」
  として、離婚に同意してしまうのだろうか。なんだか、あっけない気がする。
  ところで、私にも社会に出た経験があるので、男性が仕事に執着する気持ちというか、少なくとも傾向はわかる。なんとかならんもんかと思うのだが、男ってのは、どんなに追い詰められても、最後には美談で片付けようとする悪い癖がある。
  私のいた会社にも、精神主義的なキレイ事を言うことで、自分の苦労を良しとする男が多かった。ご多分に漏れず入沢もそのタイプかと思うと、ややウンザリした。
  特に飲みに行ったりすると、その裏表が出やすい。さんざっぱら上司の悪口を行った後で、
「でもなあ、男ってのは逃げたら終わりだ。どんなにキツくっても逃げちまう奴は負け犬なんだ」
  というのが始まる。聞かされる方はたまったもんじゃないんだが、どうやらウンザリしているのは女性だけで、言う方も聞かされる方も男の間には、気持ち良さそうな雰囲気しかない。上司も会社も嫌いなんだが、会社をやめるわけにも行かないんで、取り合えず明日出勤するために自分を励まし、その夜言ってしまった事を帳消しにしようとする。そのうち自分の言葉に本当に酔ってしまう。
  女房子供を放っぽらかしてまで残業し、その後で家にも帰らず、飲んでウサを晴らす。残業しなきゃお小遣いが出来ないし、その小遣いを飲んでウサを晴らすくらいしか使い道を知らない。
  ところが、その残業についても、
「好きでやってるんじゃない」
  と彼らは主張する。そのくせたいした仕事はない。家に帰りたくないだけだ。
  と言っても、私にもその悪循環を責める事はできない。帰っても口うるさい女房と、父親蔑視の子供が待ってるだけだったりもするわけだ。結局家に帰っても楽しみがない。入社当時は、
「みんななんて忙しいんだろう」
  などと思い、なんとか彼らの仕事を減らしてやらなくては……と、私も結構がんばって残ってたんだが、そのうち、私がやってしまうと仕事がなくなってしまい、家に真っすぐ帰らなくてはいけなくなる現実がわかってきた。
  要するにそんな程度の仕事なわけだ。能率良くやる奴なんてのは嫌われる。モタモタやりたいし、やってほしいのだ。
  入沢について、私が責められぬのは、まさにこの点である。仕事について差別するのは良くないが、医療というものは、これで言うと、たいした仕事である。人の命を救うための、どうにも軽視しがたい職業である。


 

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