「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉4
 
  ナルホド。でも、離婚か。その一線が私にはどうしても引っ掛かった。
  確かに一緒に暮らしてみて初めてわかる事っていうのはあるだろう。この先これでやって行けるだろうかという疑問も、あるいは結婚する前には思いもよらない点なのかもしれない。
  ただ、彼女の言っているのは冷却期間を置くので充分ではなかろうか。例えば一時別居という形を取るのでもよい。離婚してしまえば総て終わってしまうではないか。そして、総て終わらせてしまうには、この二人の関係は、あまりにももったいない気がするのだ。
  私は、一度入沢に話を聞いてみようと思った。しつこいようだが、私には、入沢が離婚する気があるとはどうしても思えなかった。入沢が、入沢より、若干上手を行っている美樹に、今日のように一方的な三段論法で押しまくられて承諾させられたか、妻に離婚を言い出されて案外意地を張っているのではないだろうか。
  私には、入沢にとって、美樹の存在は、かけがいのないものだと思う。決意を固めている美樹には悪いが、ここは一番、入沢に引き留めさせる以外手はないと思った。
  入沢の勤めている病院に電話をした。入沢はなかなかつかまらなかった。実際美樹の言う通り、入沢は結構忙しいらしく、入沢の方から電話をすると伝言もあったのだが、彼からはいっこうにしてこない。しつこく電話してようやくつかまえ、日曜日に喫茶店に呼び出した。
  そして美樹から聞いた事を入沢に話した。その間、入沢は例の無表情とも言える顔でただ聞いている。
  始めのうちは、私が何か言うたびにうなずいてくれてたんだが、そのうち、彼はボーッと宙を見始める。私は聞いているのか聞いていないのかわからなくてイライラし始めつつも、話を早めに終わらせざるを得ないような焦躁感に駆られ出した。
  最後に私は、
「入沢君、君がそうしたいのなら、って言ったのは本当なの?」
  と、一番聞きたい事を聞いた。入沢は相変わらずボーッとしている。
  私は、この話しをしたら、入沢がすぐに、
「実はその事で困っているんだ」
  と素直に応じ、彼の気持ちを話し始めてくれるもの、という期待があったんだが、話しても話しても彼は、ボーッとしている。
「そう言ったかもしれない」
  彼はボソリとつぶやくように答えた。おこられているので、何か言わなきゃいけない、といった感じの言い方。
  疲れているのかもしれない。それにしても手応えのない相手だ。つい私もイライラした口調になる。
「そんな風に言っちゃったら、離婚に同意した事になるじゃないの」
  すると、入沢は、今、私の存在に気付いたかのように、私の顔をまともに見て、ニコリと笑った。
  笑うな。笑ってる場合ではないだろう。
「いや、同意したつもりだったんだけどね」
  と、驚くべき沈着冷静な態度で答えるではないか。ほとんど不敵な面魂としか思えない。私は一瞬絶句した。
  離婚の一件は、入沢と美樹の間でもう決着はついている。今さら、どうして無関係な第三者がそんな事を聞くのか、とでも言われてるような気持ちになった。
  しかし負けるわけにはいかない。おせっかいと言いたきゃ言え。私は食いついた。
「なんで同意するの?」
  すると彼は、口をキュッと結んでヒョイと天井を見詰め、息を軽く吸い込んで、考えるように腕を組んだ。やがて、
「離婚してほしいと言われたからだよ」
  と答えた。私は再び絶句した。入沢はバカなのではないか。
「してほしいと言われたから、その通りにしてあげるわけ?」
  と、つい口調を荒げてしまった。
「じゃあ、結婚したのも、してくれと言われたからなのね?」
  と、言葉をつなげると、入沢はまあまあ、という風に両の手のひらを私に向けて制した。
「美樹の言い分は正しいと思ったんだよ」
「美樹さんが入沢君から離れていって平気なの?」
「そうじゃあないよ。ただ彼女だって、人生を選ぶ権利があるはずだし、立派に選んだと思うんだ」
  その言い方には、
「アイツが離婚したいって言うんだから、仕方ないだろう?」
  といったような、投げやりな態度も、プライドを傷付けられて憤っている様子もない。そういう人間的なドヨドヨしたものがまるでないだけに始末におえない。
  入沢という男はタテマエだけで生きていけるんじゃないだろうか。彼にとって結婚は実験のようなものなのだろうか。結果が失敗と出たらこうも簡単に諦められるものなのか。
「私、離婚する必要ないと思うんだけど」
「いや、俺も始めはそう思ったんだ。でも、美樹の話しを全部聞いたら、彼女のためには離婚するのが一番いいと思った」
「入沢君にとっては?」
「片方にだけ都合のいい結婚なんてあり得ないよ」
「美樹さんが嫌いなの?」
  入沢はアハハ……と髪をかきあげながら笑った。
「そんな事はないよ。ただ無理にくっついていたって意味がないよ。俺も前々から美樹が結婚したせいで、進みたい方向へ進めない事はわかっていたし、これではいけないと思っていた。ただ彼女にどう言ってあげればいいのか考えているうちに、先に美樹が考えついたんだと思う。自分の事だからね」
「入沢君は、どうすればいいと思っていたの?」
「そうだね……」
  と言って、彼は思い出すかのように考え始めた。もしも彼が思案していた事の中に何らかの解決の糸口が見付かれば、もう一度それを検討してみてもいいではないか。私は腕を組んで首を傾げている彼を見詰めた。
「忘れた」
  彼はそう言うと同時に組んでいた腕を放した。私はアッケにとられた。ふざけるな、という言葉すら出て来ない。
「とにかく、彼女の出した結論ほど、確かなものはたいして思い付かなかった」
  と彼は言う。これで美樹から聞いた、
「君がそうしたいのなら」
  と言った時の入沢の表情も見えた気がしたし、美樹がそれを聞いて、肩透かしを食った気がしたという思いもわかった。もはや何も言う事はない。万事休すだ。
  しかしこうして呼び付けたからには、そう簡単に諦める気もしない。無駄な事かもしれない。いや、多分無駄な事だろう。しかし、なんとなくスゴスゴと後戻りするのが癪に障った。私は美樹の心にひっかかっていると思える事の中で、もうひとつ重要な事を思い出した。
「なんで、入沢君のうちをその患者さんが知ってるの?」
  え? という風に入沢は首をあげた。
「なんでだろう。医局じゃ教えない筈なんだけどなあ。俺も驚いたよ」
「なんにせよ、非常識な人よね。いくら患者だって、家まで医者を追い回すなんて変な人じゃない? それにさっき、その人は他の科にかかっているって言ったわよね。なんで内科の入沢君を追い回したりするのかしら、その人」
  私が問い詰めると、入沢は再び腕組みをして、
「ウーン、そうだなあ」
  と考える。彼にも心底わからない、といった表情だ。
「でも、美樹は彼女の事は原因じゃないって言ってたんだろう?」
「そうよ。でも美樹さんとは関係なく答えてほしいわ」
「なぜ?」
「私が聞きたいからよ」
「何を聞きたいの?」
「入沢君とその人の関係よ」
  すると入沢は目を丸くした。
「あの人はただの患者さんだよ。病院でしか俺も会った事ないんだからね」
「一体なんの用があって来たの?」
「病気の事だよ。彼女の病気の説明をしてほしいって言われたのさ」
「それで?」
「内科的には大きな問題はないって答えたよ。その事はちゃんと外来で言ってあるし、薬も飲んでもらってる。うちに来られてもそれ以上言う事はないからね」
「美樹さんの前で?」
「いいや、彼女に呼び出されたんだ。美樹が家の中に誘ったんだけど、遠慮したんで、バス停まで送ってやっただけだよ。美樹はすぐに家の中に入ってしまったしね」
 

 

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