「光の情景」
作/こたつむり
〈第4章〉3p
こんな風に、ああでもない、こうでもないと考えているうちに、随分長い事沈黙している自分に気付いた。美樹は、
「これで、いいでしょうか」
といったような念を押す顔になって私を見ている。
私は覚悟した。いつまでも壁の回りをグルグル回っていても埓があかない。
「入沢君、何か美樹さんをおこらせるような事でもしたんじゃないんですか?」
美樹の持ち出した離婚の理由に、今ひとつ合点がいかないのは、二人のやりとりが入ってない所だった。例えどんなに忙しくても、夫婦の心が合わさっていれば、二人で手に手を取って困難を乗り越えられる。そういうもんじゃないだろうか。少なくとも、入沢と美樹ならそれができるように思える。
「え?」
彼女は、一瞬口を開けたまま首を傾げた。
「どうして? そんな事ないわよ。健ってそんな風に見える?」
「いいえ、ただ、何かそんな気がして」
「どうして? なんでそんな気がしたのかしら」
彼女はニコッと笑いながら、首を傾げたが、私にはそれが咄嗟に取ったポーズに見えた。
「だって、美樹さんに別れてほしいって言われて賛成するなんて。何か、入沢君らしくないと思って」
「あら……」
美樹はクスクスッと笑った。
「健が私に離婚を迫られて承服せざるを得ないような、悪い事でもしたっていうわけ?」
そうはっきり言われると、ちょっと自信がない。美樹は言葉に詰まっている私を見て、アハハッと明るく笑った。
「うーんそうねえ、たとえば?」
「たとえば……いやあわかりません。すいません、変な事言っちゃって。ただ私、入沢君は離婚したくないんじゃないかな、と思うんですけど」
「ううん、本当にあっけなくOKしてくれたのよ。私もねえ肩透かし食った感じがしたくらい」
私は簡単に否定されてしまったので、もうそれ以上は聞けない感じがした。しかし美樹は、そこで溜息をついてから、意外にも自分の方から告白した。
「そうねえ強いて言うなら……浮気かな?」
「浮気? 入沢君が?」
どうもそれだけは、ちょっと信じられない。
「うふふ……それが浮気でもないんだと思うわ。本当は何でもないんでしょうけど、まあ、引っ掛かってないと言えば嘘になるわね」
「でも、相手がいるわけですよね」
「ええ、まあね。彼の病院に来る患者さんよ」
「患者? 病院の?」
「そうなの。私見ちゃったんだけどね。それがスッゴイ美人なのよ。こう、背がスラーッと高くて、髪の毛がソバージュで、もう女優さんみたいに奇麗な……バッチリお化粧してて、なんていうのかな、こう、神秘的なムードのオンナーって感じなの。どっか謎めいているっていうのかしらね」
と言って、彼女は芸能人の話題でもしてるかのように、明るく笑いながら言う。とても嫉妬しているようには見えない。わざとオドケているのかもしれない。
「その女の子がね、うちの玄関の前で、泣きながら立ってたの。私が健の事を駅まで迎えに行ってる間来たらしいんだけど、待ってたのよ、うちの前で」
「ええ! なんで、このウチを知ってるんですか?」
「さあ、それも聞いてないのよ。でも、私、その人の事をどうこうあって離婚っていうわけじゃないのよ。だって私、その人の事は健には何も聞いてないんだもの。そんな事聞かなくても、彼の事信じられる、なんて思ったのかしらね。全くバカよね。本当は気になってたんだと思うのよ」
美樹は結構冷静に言うが、私は思わず黙り込んでしまった。美樹に浮気などと前置きされたせいもあったが、私は瞬時に美樹のカンは当たっているのではないか、という気がした。
勿論入沢が浮気をしているとは到底思えない。入沢は美樹を愛していると思うし、それ以前に入沢という男には結構、そうした面に関しては堅い部分があると思う。ただし彼はそうでも、彼の周りにいる女はどうだろう。
高校時代も入沢は結構モテる男で、随分と壮絶な片思いをしている下級生などいたのを私は覚えている。由有子でさえ転校してきた当初は、周りの視線を気にしていた感じがあった。
やがて入沢と由有子はそうした周りの連中も公認のカップル、というムードになっていったが、それでもある時、私と由有子が学校の廊下を歩いていた時に、すれちがった下級生の女の子に、
「これ、入沢さんに渡して下さい!」
と唐突に声をかけられ、由有子が無理やり手紙を握らされた事があった。
「頭来るわね。なんなのよアレは。由有子、そんなの捨てちゃいなさいよ」
と私が由有子に言うと、由有子は、
「ねえ、あの子、健ちゃんの事好きなんじゃないかしら」
などと人のいい事を言った。
「これって、ひょっとしたらラブレターかもしれないわよ」
とエライ鈍さで反応している。
「当たり前じゃないのよ」
私はカリカリしながら由有子に言った。由有子のこの手の鈍さは入沢にも共通する所がある。
ところで、入沢の恋人(でもなかったんだな……と後で思ったんだが)である由有子自身に、入沢への恋文を握らせるという異常さは、どう受け取ったらいいのだろう。由有子に挑戦しているようにも、入沢に恋心を伝えるためにはどんな手段をも厭わないようにも思えて、由有子はともかく、私には非常に不愉快な出来事だった。
私には例え患者であろうがなんだろうが、家まで追い掛けて来る、というその女性の行動は、入沢に付きまとう女心のそうした異常さを思い出さずにはいられなかった。
「どうでもいい事だと思って、なんとなく聞きにくかったのよ。彼も私も忙しかったし、そうこうしているうちに時間がたっちゃって……でも、そうだなあ。こうして話してるって事は、結構どうでもいい事じゃなかったのかもしれないわ」
「それは……でも、美樹さんだけのせいじゃないわ。入沢君だって、どういう人か一言説明するべきだったんですよ」
私は美樹に同情した。すると美樹は、
「それがねえ」
と言ったきり、溜息をついてその先を黙った。何かそこには、入沢に対して投げているような雰囲気がなくもない。
来る者は拒まず。私は入沢の、あの希に見る優しい表情が、今や博愛主義的な色合いを帯びて浮かんで来た。相手が患者では仕方がない、とでもいうような答えが彼から既に返って来ているように思える。そして、そういう入沢に付け入る患者の姿をつい思い浮かべてしまう。
「でもね、本当にその人がどうこうじゃないの。今となっては。ちょっと意味深だったけど、きっと病気の事か何かで悩んでいたんだと思うのよね、その人。私、その人自身より、患者さん全員にやきもちやいてたのかもしれないなあ。患者っていうより仕事に。医者っていう。この先、もっともっとあんな患者が増えるんだろうなって思ってね。自分も同じような立場にいるっていうのに、おかしいわよね。情けないわ」
そういう美樹には、激しい良心の呵責が感じられた。同じ医学部で、これから医者になろうとする入沢の姿にひかれ、彼を応援し続けてきた美樹にとって、入沢の仕事に嫉妬を覚える矛盾はどんなにか苦しいだろう。
ましてや美樹も研究の道を進みたいと思っているのだ。ただの奥さんだったら、患者に腹を立てていれば済むけど、彼女には入沢の気持ちがわかる立場にいるだけに、それが出来ないのかもしれない。
美樹にもそれがひっかかったのだろう。医療に携わる人間としての自分と、医者の妻としての自分をもう一度よく考え直してみたいのだと彼女は言った。
「留学の事は私も急いではいないわ。もう一度夫婦でよく話し合ってからって、何度も思ったのよ。ただ、今度の事で、私自分ではっきりとした結論を出せたと思うの。
夫婦としてスタートしてから、あちこち修正を加えながら無理やりつっ走って行く事に、自信が持てなくなってきたの。結婚って事が今、どんなものか少しはわかった気がするの。その頭で、もう一度結婚する前に戻って考えたいのよ」
一旦白紙に戻したい。美樹はそれを強調した。