「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉2
 
  美樹はそのころ、まだ研究室に残っていた。結婚した時に大学院は一応終了したのだが、大学院には行かずまっすぐ医者になった入沢とは違って、彼女は研究の分野に身を置いている。きっとその道を極める上では海外留学が必要不可欠だったのかもしれない。
  だからそれはまあいい。首を傾げたくなるのは、妙に傾いた結論への導き方についてだ。彼女がこの話しを承諾した時、彼女の頭に、夫婦の別居は手段として存在しなかった、と言うのだ。別々に暮らすのなら、夫婦としての意味はない、これが彼女の理屈なのだ。つまりその時から離婚の意志があったという事になる。
  海外へ留学するようになったら離婚するつもりで、その留学を今もまだ諦めていない。という事は、初めから離婚するために結婚したようなものじゃないだろうか。
  第二の理由。入沢の帰りが遅すぎる事。
「バカバカしい事だと思われるかもしれないけど、本当に話をする暇もないのよ」
  と美樹は言う。そして、入沢の帰りが遅くなるたびに、そのように家庭生活を放り出して仕事に専念したいのは、自分も同じだ、とつい思ってしまう。それがますます留学への欲を駆り立てられる結果になった。
「それ、入沢君に話しました?」
「話したわ。もっと早く帰って来られないかって」
「そしたら?」
「なるべく早く帰るって言ってくれたのよ。でも、それは無理なの。私にもわかっているんだけど、大学病院って、結構雑務が多くて、彼はとにかく新米でしょう? 学会論文も書かなきゃならないし、そのための研究もあるし、とにかく忙しいのよ。わかってた事なのに、今さらなのよね。でも、このところ、あの人無理して、論文も出来るだけ家に持って帰って書いてくれてたの。私、それ見て、自分がわがまま言ってるんだなあってつくづくわかったわ。悪いと思って、もう何も言えない気がして……。でも、家で書いてくれたって、話しが出来るわけじゃないのよね」
  そして第三にお互いの親の問題。私はそんな事はないと思うんだが、美樹は入沢の両親に気に入られてないと言う。
「私も始めのうちは、そんな事問題じゃないと思ってたんだけど、健は長男でしょう? いつかは入沢のうちに私も入る事になるわけなのよ。健が居てくれるならともかく、私一人で舅、姑と……と考えると、なんだか急に自信がなくなってきちゃって」
  その上、美樹の両親が又、今頃になって入沢を婿として迎えるわけにはいかないか、と言い出した。
「私はね、何バカな事言ってんのよって言い続けて来たんだけど、父が病気をしていて、私に帰って来てほしかったらしいの。今はもう良くなって、そんな事問題じゃないんだけど、なんだかこの先、そういう事が原因で揉めたりするのが、突然どうしようもなく嫌気がさしてきてしまって」
  美樹の妹は嫁いでから、夫の転勤で九州に入っている。初めから妹の方は相手の家に入るつもりで結婚したので、九州には夫の両親も連れていっている。こちらは当てには出来ない。
  入沢の弟が、この時医大に行っていたが、これは入沢と随分と年も離れているし、今から親と同居するの、家を継ぐのという事は決められない。それに、例え弟が継いでくれても、入沢が美樹の田舎に行くなど考えられない。反対に、美樹の両親を東京に呼び寄せるなども難しい。
  第四に、美樹は結婚したら子供が早く欲しいと思っていた。
  この辺の心境というのは、子供を産むは愚か、結婚さえしていない(というより、その気にさえまだなってない)私には、ちょっと縁遠くてなんとも言えないが、言わせてもらえば入沢の言い分の方が思慮があるような気がする。つまり入沢は、子供をつくるのはまだ当分先でいいと言っているらしい。
  彼らの結婚は、学生時代にお互いをよく知り合っての仲だから、愛し合って結婚して、後は子供が欲しいと思うのも、当然と言えば当然なのかもしれない。新婚生活の中でお互いをよく知り合うという過程は通過した、と考えるのもおかしくはない。
  だが、美樹の方はともかく、入沢はまだ大学を出てやっと医者になったばかりなのだ。入沢からみれば結婚するのも早すぎたかもしれない。その上、子供の事まで考えるゆとりは、精神的にも経済的にもまだ難しくはなかろうか。美樹が、そういう事を思いやれないほど子供だとは、私には思えない。
  美樹が不満を持っているとすれば、多分入沢との間に、じゃあいつごろ子供を作ろうとか、親といつごろ同居しようか、といった会話が成立しない事なんじゃないだろうか。私には、この時、常々私の目の前で展開している入沢夫婦の、それこそ幸福を絵に書いたような光景が、意外と美樹一人の力量に頼って成り立っているのかもしれない、と思えてきた。
  美樹には海外留学の希望があったのだから、彼女なりに子供をいつ作るとか、どう育てるとかいう事は、自分の将来を左右するポイントだったに違いない。それによって彼女の研究に対する計画と、家庭生活への計画に折り合いをつけていきたかったのだろう。
  結婚というものの実感が涌かない私には、百パーセントがわかったわけではないが、ナルホド、こうやって話をされると、確かにずいぶんと困難な状況だと、取り合えず理屈だけは飲み込めた。
  でも、だから離婚になるのだろうか。そういう状況というのは、多かれ少なかれ、どこの夫婦にもあるものなんじゃないだろうか。
  そりゃあ、そういう事柄を解決するのは容易な事ではないだろう。それにしても、私は美樹がそうまで固く決意するに至った確証を得ていない気がして仕方なかった。何か、美樹の説明が立派すぎて、返って納得がいかなかった。
「私、わがままでしょう? わがままよね。私、本当に自分がどんなにわがままな人間か、とてもよくわかったわ。わがままで、バカで子供だったのよ」
  と言って彼女は締めくくろうとした。
  確かにその話しだけ聞くと、美樹の一方的なわがままにしか聞こえない。そういう困難があるのなら、乗り越える努力をすべきではないか。
  でも、私はそうは思わなかった。私には美樹が責任を全部、彼女の身ひとつにひっかぶろうとしているように思えて仕方なかった。彼女の言う「わがまま」には、どこかウソっぽさがあった。呼び付けるなり、唐突に結論を言い、有無を言わさずその原因を並び立てる。何か欺瞞的なものを感じないではいられない。
  そして、ふと、彼女が話をする前に、私にしつこく念を押して何かを確認していた事を思い出した。電話での彼女の様子も、私に悟らせないように、何かを窺っているかのような感じがあった。私はそれを、電話で話す彼女の回りにお客でもいて、それを気遣いながら私としゃべっているかのように勘違いしてたのだが、あれは他ならぬ私への警戒だったんじゃないだろうか。
「あの人、あなたには何も話してないの?」
  彼女は確かに二度ほど、私が入沢から何らかの情報か相談でも受けてないか確認していたのだ。
  美樹は頭がよく、用心深い。一体、入沢が私に何を話したと思ったのだろう。
  入沢の両親、あるいは親戚、彼女の話に出て来た人物で、私が知っているのはこの辺りだ。片桐のオバチャンは、入沢の結婚相手に私の事を薦めていた、と後で聞いた。しかし美樹が私と入沢の関係を疑っているとは思えない。もし、疑っていたとしても、直接私に探りを入れるような陰湿な事を美樹がするとは思えない。
  入沢の母親は、由有子を気にいっていた。美樹ほど何事にもよく気を配る嫁が、夫の両親に気にいられないとは信じ難いが、もし、直接入沢の母親に由有子の事でも持ち出され比較されれば、美樹だっていい気持ちはしないだろう。
  しかし、美樹の由有子に対する好意を考えると、この憶測は的外れのような気もする。だいたい入沢と由有子には、昔はともかく、今はもう兄妹のような絆しかない。それは夫婦の間に割って入るようなものでもないし、どんなに由有子を気に入っていたとしても、入沢のあの品のいい、優しそうな母親が、今更由有子を持ち出して嫁いびりをするとも、とても考えられない。
  それと、少なくとも美樹には、入沢という人間をわかっている筈だ。わかった上で彼を愛している事は私にも伝わって来る。だからこそ、入沢は他の女性に対しては決して見せない意外な甘えん坊ぶりを美樹に発揮していたのだ。入沢の周囲に由有子を含む過去があったとしても、許せない種類のものとは思えない。
  それとも単に、甘えられる事に疲れたのだろうか。そういう事はあるかもしれない。美樹が入沢に甘えられないと言うより、入沢が受け入れないのかもしれない。


 

1p

戻る

3p

進む