「光の情景」
作/こたつむり


〈第4章〉1
 
  由有子は、アメリカに帰る前に、入沢夫妻の家に訪れ、一泊して帰ったそうだ。
  以前、入沢が北海道にいる頃、由有子は、入沢の下宿に泊まるわけにもいかないと言っていたが、入沢に妻のいる今は、返って泊まり易くなったようだ。新婚旅行に行けなかった入沢夫婦の家には、新婚を憚って誰もが遠慮して来ない、と美樹はボヤいていたそうだから、由有子が遊びに行くと、きっと引き留めたのだろう。美樹にはそんな所があった。
  私も入沢家には、ちょくちょく出入りした。美樹の姉ご肌的な優しさには、私もすっかり妹気分になって甘えてしまうのだ。
  それと、驚いたのは入沢だが、彼にはこんな面もあったのかと思う事しばしば……。私と美樹がしゃべっていると、イキナリ立ち上がって冷蔵庫から果物を取り出し、
「ねえ、これ食べてもいい?」
  などと子供が母親に聞くように、美樹に聞いたりする。
「いいわよ。でも、ちゃんと久世ちゃんの分も切ってあげるのよ」
  と、まあ美樹も美樹で、母が子を諭しつつ仕付けるように入沢に許可してやる。そうかと思えば、これから三人で外食しようという時も、
「今日、俺何着ればいいのかな……」
  などと、タンスを開けもしないうちから、美樹に甘える。すると美樹は、私に向かってキュッと額に眉を寄せて笑って見せ、
「全く、しょうのない人でしょう?」
  といったような表情をしてから立ち上がる。
  私はこんな入沢に、いつも吹き出してしまいそうになるのをこらえるのが大変だった。入沢という男は、こんな甘えっ子だったのかと思った。そして、この二人を見ていると、心から、
「夫婦っていいなあ。私も結婚したいなあ」
  という気分になれる。それほどこの二人は、心から許しあい、共に暮らすのが当然に思えるほど仲がいいのだ。
  カッコイイ人、優しい人、面白い人、……そりゃあ私にも、いろいろ好みもあれば、結婚相手に対する理想もある。しかし、この二人を見ていると、何でも言いあえて、とにかく一緒にいるのが幸せに思える男の人なら、ちょっとくらいブ男でも、横暴でも、人づきあいが下手でもいいと思えた。
  だから、私はこの二人の離婚を聞いた時には、それこそ天地がひっくり返るほどショックだった、なんでそんな事になったのか、その本当の理由については、今でも私にわかっているとは言えない。また、いかなる理由があったとしても、やはりこれ以上の組み合わせはなかった、と今でも思っている。
  それはある日の事、そう、入沢が結婚して、ようやく一年が過ぎようとしたばかりの頃、美樹から電話がかかって来た。
「あ、久世ちゃん? 私、入沢美樹です」
「あ、こんにちは。ご無沙汰しています」
「いいえ、こちらこそ……」
  美樹は電話の向こうで、朗らかに笑った。ただちょっと畏まったようなしゃべり方をしている。軽く挨拶を交わした後、
「どなたか、いらっしゃってるんですか?」
  と、つい聞いた。
「いいえ、誰も。私一人よ。どうして?」
「あ、いいえ……なんとなく」
  と私が口ごもっていると美樹はちょっと黙った。そして、
「実はね、ちょっとお話ししたい事があるのよ。もし良かったら、来て戴けるかしら?」
「いいですよ。いつ伺おうかしら」
「そうね、いつでもいいんだけど、……今日お忙しい?」
  今日? ずいぶんと急だ。私はこの時にちょっと美樹の様子がおかしい気がした。
「じゃあ、お伺いします」
  何事だろうと思いつつも入沢家に行ってみた。
  実はそれまで、柿崎先生のお宅に仕事で行っていて、その間にも美樹から電話があったらしい。母がそう言っていたのだ。
  入沢はいなかった。平日である。美樹は私にお茶を出してくれた後、
「久世ちゃんって、私たちの事、何か健から聞いてるかしら」
  と尋ねて来た。
「え? 何かって?」
「あのね、驚かないでね……と言っても無理でしょうけど」
「あの、何かあったんですか?」
  私には既にこの時、何となく嫌な予感があった。とにかく、いつもの美樹とは様子が違う。美樹は、なんでもテキパキとこなしてしまう人だったが、かといって、物事を焦ったり、急いだりはしない性質だった。
  なのにこの日は、電話をかけて来た時から、妙にセカセカしている。いつもなら、どこに本心があるのかわからないほど、過激な事にはオブラートで包んで表現するのに、私が来るなり急に本題に入った。
「ええ、実はね、私離婚しようと思うの」
  と、まるで先に言った方が勝ち、と言わんばかりに切り出したのだ。
「ええっ!」
  当然、私は驚いた。寝耳に水である。実際耳を疑い、
「離婚? 離婚ですか? あの……入沢君と?」
「そうなのよ」
「どうして」
「ゴメンナサイね。イキナリ呼び出しといて、こんな話しで、本当に済まないわ」
「いや、そんな事より……」
  私はうろたえ、デリケートな問題である事への配慮もできずに、
「どうして? 入沢君が何か?」
  と、思わず理由を迫った。すると、美樹は試すかのようにジッと私を見た。
「じゃあ、あの人、あなたには何も話してないの?」
「何も……何も聞いてません。そんな、離婚だなんて、どうして?」
  私は、同じ質問をただ繰り返したあげく、理由など簡単に訊けないかもしれぬ、とようやく思いが到った。
「あの、じゃあ、入沢君は、知ってるんですか? その事。って言うか、どっちが言い出したんですか?」
「私よ。彼にはもう言ったわ」
  美樹はいつもと変わらず落ち着き払っている。片や、私は泣きそうな気分になった。
「いり……入沢君は何て?」
「ええ、ただ一言、君がそうしたいのなら……って」
  と言って、入沢の言葉を思い出すかのように、美樹はちょっと遠くを見つめた。
「それだけですか?」
「ええ、ちょっとガクッと来たけど、でも私ももう、はっきりと決めてた事だったの。ホッとしたわ、正直言って」
  と彼女は、ちょっ茶目っ気に笑った。
「あの、離婚するって言うんですか? 彼も」
「そうなの。ごめんなさい」
  誰に謝っているのか、彼女はちょっと頭を下げた。
「そんな……。どうしてか聞いちゃいけませんか?」
「そうよね。まずあなたに話すわ。私、まだ誰にも話してないの。これから、いろんな人に話さなくちゃいけないのよね。大変だけど仕方がないわ」
  と言って、彼女は溜息をついた。
  その、離婚の理由というのが、結構いろいろあるのだ。
  まず第一に、美樹には前々から海外留学の希望があったのだが、このごろになって、彼女のいる研究室の先生から、行ってみないか、という薦めがあった。行き先は確か北欧の方面だったと覚えている。まあ行き先なんかどうでもいいんだが、期間が長い。一年か二年。
  もっともその先生は、
「結婚したばかりなんだから、旦那さんとも相談してよく考えてから決めなさいね」
  と助言してくれた。別に会社の転勤じゃないのだ。どうしても行かなきゃならないというわけではない。この世界の事はよくわからないが、通常なら、もうちょっと夫婦生活が落ち着いてから……とか考える所だと思う。ところが美樹は、
「行きます」
  と即答した。というのも、実は美樹は、前から、行ける時が来たら是非行こうと思っていたそうだ。行ったら、そうそう途中で帰って来るわけにも行かない。だから、この時は、それを承知でその話しを受けた。


 

<第3章>
7p

戻る

<第4章>
2p

進む