「光の情景」
作/こたつむり


〈第3章〉4
 
 美樹は決していたずらに博士過程をやってるわけじゃない。ただ、大学院でも、就職となると、頭の良すぎる女というのは敬遠される。これここに勤めるから結婚は出来ない……とも両親に言い訳できなくなってしまった。美樹の親は要するに、田舎に帰ってさえ来れば就職なんかしなくてもいいと思ってるらしいが、美樹にしてみれば、それだけは避けたいと言ったところだろう。
「え? じゃあ結婚の話しは美樹さんの方から?」
  と、私が聞くと、入沢は、
「うーん、そういう事になるかなあ……」
  と答えた。
  なんという幸運な男だろう。あれほどの美人の才女に結婚をせがまれるとは……。うらやましい限りじゃないか。だいたい入沢という男には、この手の幸運がついて回るように出来ているのかもしれない。
「でも私、健ちゃんには、ああいうしっかりしている、お姉さんタイプの人の方が似合ってると思うわ。だって、健ちゃんってイザとなると、面倒くさい事はどうでもいいや……て所があるんですもの。しっかりタズナを握ってくれる頭のいい人との方が、この先うまく行くと思うのよ」
  さっきは、しょぼくれてたくせに、相手が美樹と聞くや、由有子は忽然と賛成派に回ってしまった。これはやはり、美樹の人柄だろう。私と由有子は、美樹にはたった一度しか会ってないが、美樹には何か、そういった人徳のようなものが感じられた。
  ところで由有子だが、彼女が、実はひそかに入沢に対し、私が時々感じる「ことなかれ」的なものを同じく感じていた点はおかしかった。私はともかく、由有子にとって入沢は、恋人というよりは、兄という、ひたすら保護者的な要素が強く、彼女が関沼先生と離れ、日本で留守番をするハメになりそうな時も、入沢が、決して「ことなかれ」的ではない実行力を以て、由有子の渡米のお膳立てをしてやったのだ。それでも、なおかつ、彼に対し、
「面倒くさい事は、どうでもいいや……ていう所」
  を感じている、というのは、ちょっと、
「それはあんまりじゃない?」
  と思えなくもないが、なんとなく笑ってしまう。確かに入沢という男は、彼がどんなに誠実で、物事に真面目に取り組んでも、どこかそんな風に見えてしまう所があるのだ。受話器を耳にくっつけながら、つい私も、
「そうそう、あるある……」
  と、うなづいてしまうのだった。
  入沢にとって、そうした面は、損と言えば損かもしれないが、逆に、なんとなく面倒な事を頼みにくい面が、彼を救っている事だって、ままある。彼は私から見れば、要するに「世渡り上手」な男だった。
  そういう入沢に対し、唯一美樹は、
「それじゃあダメよ」
  と、はっきり指摘して引けを取らぬ女性に思えた。第一、以前会った時、既に入沢は美樹に対して、一本取られている感があった。
 今までは世渡り上手にやってこられた入沢でも、この先、避けて通れぬ面倒な事態は、いくらでも予想されるのだ。いつまでも涼しい顔で済ましてるわけにもいくまい。そういった面を、美樹ほど巧みにカバーできる人は他にはいないと私は思った。
  夏が終わり、私は、もう一度投稿する気を起こし、構想を練ったり、キャラクターデザインを書き散らしたりして、日を過ごした。そして、だいたいまとまったので、さて、今度は、どこに出そうかな、それとも持ち込みにしようかな……などと思いながら、雑誌を買い込んだ。
  私は、買った漫画雑誌は、どんな作品でも全部読む習慣がある。書き手としての勉強心や作家への共感云々より、貧乏根性と言ってよい。子供のころ、少ないお子使いでやっと買った漫画本を、後生大事に何回も読み返したからだろう。その時も、懸賞のコーナーはうっちゃって、漫画を読むほうに没頭した。よく、年末の片付けなどしていて、奥にしまった卒業アルバムなど見付けると、、やたら懐かしがって中を開け、時間をいたずらに費やす行為に似たものがある。
  漫画を全部読むと、枠外断ち切りいっぱいに書き込まれる、ちょっとしたコメントまで読んでしまう。そのうち、私は、ふと投稿するのはちょっとやめておこうかな……という気になった。
  売れ線を狙った最近の漫画にガックリきたわけではない。この頃は、結構面白い漫画雑誌が出ていたと思う。かと言って、商業漫画の技量の高さに自信を失ったわけでもない。
  私が中学の頃から目をつけていた漫画家がアシスタントを募集しているコメントを見付けたのだ。
  アシスタントを始めて、そろそろ一年が過ぎようとしていたのだが、ハッキリ言って、それのおかげで何かが上達した、と言えるものは、ほとんど身についてなかった。
  それというのも、結局アシスタントというのは、指定されたコマの中を埋める道具か機械のような所がある。自分の苦手の局面に関しては、仕事があまり回って来ない。それぞれのアシスタントがひたすら得意な技術をそれぞれ売ってるだけなのだ。むろん数をこなす事によって、上手に早く書けるようにはなるのだが、漫画というのは、極端な局部だけ変にうまくなってもあんまり意味がないのだ。
  コメントを出している漫画家は、柿崎円子という人だが、そのコメントある、
「自分の作品見てもらいたい人、大歓迎。苦手な事もガンガンやらせる鬼のマルコに連絡ちょーだい」
  という、決して柔らかくない表現に、返って興味がそそられた。
  私は、このままアシスタントを続けるのは、自分にとってあまりプラスにはならないと思っていたのだが、この時は、ちょっとこの人に原稿を送ってみよう、という気になった。
  募集要項にはイラストか小品を送ってほしいと書いてあったんだが、私は、投稿する気でいた作品を三十ページ生真面目に仕上げて送った。こんな長いのに時間を取られて、他の候補者に先を越されはしないかとも思ったが、遅れて送りつけた所、なんと三日後に葉書で採用の返事が届いた。
  私は指定された日に柿崎先生のお宅に行った。十月の終わりの事だ。私にとって、この先生との出会いは、とても意義があった。それまでは、特に誰の専属という事なく、呼ばれるままに仕事を受けていたのだが、柿崎先生は私の時間をアッサリと拘束した。おかげで、今までお世話になった先生方の所へは、頼まれても、そうそう出入り出来なくなってしまった。でも、あちこちの先生方の間を渡り歩くより、柿崎先生ひとりの所についている方が、当時の私には何かと勉強になる事が多かった。私はアシスタントというよりは、書生に近い経験を踏む事となった。

  入沢と美樹の結婚式は、入沢がH大を卒業した直後の四月に行われた。入沢はその翌月から、東京のM大付属病院に行く事に決まっていた。
  私は一度くらい、その前に美樹に会っておきたいし、お祝いの品を届けにも行きたいと思い、何度かコンタクトを計ったが、入沢も美樹もものすごく忙しくてそれどころじゃない。入沢とさえ、美樹と結婚すると聞いた、あの七月以来、一度も会えなかった。由有子からことづかっていた祝いの品だけでも渡したかったのだが、(由有子はわざわざアメリカから、私の元に送って来たのだ)それもままならぬうちに、結婚式の日が来てしまい、結局アメリカから祝いに駆け付けた由有子自身に渡してもらう事になってしまった。
  由有子は、彼女の結婚以来初めての帰国だったが、関沼先生の方がこの年の九月から、南カリフォルニア大学での講義が始まる事になっていて、こちらも忙しそうだった。先生も一緒に日本に来たのだが、二、三日しか東京にはいられない。由有子だけ、十日ばかり一人で残る予定だった。
  由有子は入沢の結婚式の三日前に帰って来たんだが、私は柿崎先生の所での仕事がかなり遅れたせいで、結婚式の当日、会場でイキナリ由有子に鉢合わせする事になってしまった。実の所、この結婚式にも間に合わないんではないか……と気を揉むほど、この月の原稿は遅れに遅れていた。
「由有子、子供はまだなの?」
  テーブルにつくなり私は聞いた。このテーブルは入沢の親族だらけだったが、おかげで席は由有子の隣だった。入沢と美樹の配慮だろう。
「まだまだ……、私、忙しいのよ」
  由有子は笑った。以前に比べると健康そうに見えた。カリフォルニアが合っているのかもしれない。
  披露宴は結構愉快なものだった。由有子の時は先生の知り合いが多く、年令層が高かったが、入沢と美樹の時のは、同世代の友人知人が多く、賑やかだった。特に大学の仲間が多い。
 
 
   

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