「光の情景」
作/こたつむり


〈第3章〉2
 
  そしてこれを逃すと、てめえでなんとか稼げる身分になっている三十代の半ばごろ。なにしろ医者になって、その先安定してやっていくためには、やれ学位論文だのなんだのがあって、とにかく忙しく、どうしたってハッと気付いたら、そういう年になっているものなのだ。入沢のように、父親も医者だったりすると、結構そういう情報が入って来て、貰い損ねないように早く手を打とうとするのかもしれない。今の内にほうぼうに手を回して、嫁さんを見繕っておこう……という動きがあるのも、開業医の家の長男であるかぎりやむを得ない。
  実は、片桐のオバチャンあたりから、このころ、すでに私の名前も候補に上がっていたというから驚くではないか。
  家柄も学歴もたいした事もなく、本人もプー太郎しているが、プー太郎してるからには、仕事に執着しているわけでもなかろう。漫画家になりたいとか言っているが、漫画なら家にいてもできるし(甘い。家事をやるとは限らない。ピアノの先生みたいなキレイな仕事じゃないんダゾ)、ひょっとして花嫁修行でもしているのかもしれない(漫画家修行してるんだ)。時々いなくなるのも、お茶やお花を習いに行ってるのかも(ビルや自動車やリンカケフラッシュの書き方を習いに行ってる)。それにあの子は昔から入沢や由有子と仲が良く、入沢には返ってああいう気心のしれた女友達の方が、何かと話が通じ易いかもしれないし、あの腰つきなら丈夫な子供も産めそうじゃないか……などという、一割弱は有り難く、しかし残りの九割強はド迷惑なお妃選びではあった。
  しかし、私は結構片桐のオバチャンとは気が合っていたので、向こうもそこを良しとしてくれていたのかもしれない。
  いつになく入沢から、
「相談したい事があるんだ」
  という電話を受け取ったのもこのころだ。このころというのは、正確には、由有子が結婚し、アメリカに行ってしまってから、半年強経った七月。入沢は、夏休みのため帰って来ていた。
  忙しいようだったが、来年からいよいよ医者になる予定で、どこの病院に勤める事にするか……などいう事を親と相談しなくてはならない頃だったわけだ。彼は東京に戻って来るつもりではあったらしいが、父親もまだ自分が元気なので、お前はもうちょっとどっかで修行して来い……という気でいたようだ。彼には彼なりに、進路を定めてはいたようだったが、親に報告に来る辺り、やはり長男らしい。
  以前、由有子と二人で、入沢が医学部を出たらH大の医局に入るのではないか……などと噂していた事があったが、他の大学の医局に入るのもそれほど問題でもないのか、その後の入沢からは、結構スンナリと思った所に入れたように思う。後は国家試験に受かりさえすれば万事めでたし……という運びのように見えた。
  漫画家も漫画大学なんて出来て、そこを出れば、自分から編集社を選べるといいのに……と私は思ったものだ。少なくとも医者は患者の人気投票などでその進路が左右される事はない。
  もっとも入沢が相談を持ち込んで来たのは、そういう話とはまるで違い(そんな相談されても私にわかるハズもないし)、今の話は、実際には彼が卒業してから聞いた事もだいぶ入っている。
  入沢から相談事を持ち込まれるのはこの時が初めてだったが、このころから、私は、入沢の良き(?)相談相手になったようだ。私は入沢の家に行った。
  久し振りに会った入沢は、少々痩せてはいたが、健康そうで快活さも失われてはいなかった。
  私は、由有子が結婚してしまってからの彼の事が少々気掛かりだったのだが、結婚式の時から、彼の様子には失恋によって落胆しきっているような印象は受けなかった。
  むしろ、同年代の男性と比べると、いつも、どこか大人びていた彼が、この日には、逆に少年のように素直な笑顔を浮かべた事が、驚くとともに、安心さえ与えてくれた。
  私には、取り合えず決められた線路を順調に歩いている入沢より、おそらく、当分は安定した波に乗るまで、まだ苦労の多かろう由有子の方が、少しだけ多く心配だった。なのに、その由有子に、いつも先に手紙をもらってしまい、その書面に記された、
「健ちゃんにもヨロシク」
  の文字を見ると、慌てて入沢に電話をし(以前の要請の効果あって入沢は三年前から、部屋に電話を引いていた)、しかるのち由有子に返事を書く、という具合だった。
  私はこのころ、アシスタント稼業が忙しい上に、不規則な生活も祟って、ちょっと体をこわしていた。だから気に掛けつつ、同じく多忙な入沢とは、時々電話で互いの健在を確かめ会うのが関の山だった。
  だから、以前より多少若く見える入沢の、前以上にかわいい笑顔は嬉しかった。また、彼の口から由有子のことが、ようやく片付いた妹の事にでも触れるように、自然に語られる事にもホッとした。とにもかくにも、体の弱い彼女が結婚し落ち着いた事を、彼は安心しているようだった。
  彼にとって由有子は、決して重荷などではなかったと思うが、どちらかと言えば、保護してやらねばならぬ存在ではあった。由有子の言った通り、由有子の去ったさみしさの反面、そのために彼が彼の将来を自由に専行できているのも、また事実かもしれない。
  彼は、私が体をこわしている事を案じてくれた。
「好きでやってるなら(漫画のアシスタントの事)仕方ないけどなあ……。ただ、完徹の連続じゃ体がもたないよな」
「わあ、もうお医者さんみたいな事言ってる」
  なんだか、アメリカに行った由有子のかわりに、帰って来た入沢に体の心配をされているようで、くすぐったい。
「あはは。みんなにそう言われてる。この前も遠藤(高校時代、例のケンカ騒動で入沢を殴って、女の子達の顰蹙を買った奴だ)に会ってさ……、アイツすごいんだよ、俺んちに来てたった一時間にタバコを十本くらい吸って、あげくの果てに、最近なんだか調子が悪いんだって言うんだ。つい、それよりタバコ止めたら? って言って、『すっかり医者だな』って笑われたよ」
「あ、タバコね……」
  私は舌を出した。今、入沢の目の前で吸っている。入沢は笑った。
「仕方ないさ、止められないんだろ」
  入沢はそんな所、高校の頃とあんまり変わってない。お医者お医者してないのだ。由有子が病院に行くのが苦手で入沢の家に遊びには来ても、入沢医院の方には、入沢に言われないとなかなか行かなかったのを思い出す。入沢は無理強いはしなかった。
「おふくろばかり由有子に会っているって、親父がぼやいてるんだ」
  ってな事を言って、上手に由有子の同情をひき、なんとかかんとかなだめつつ彼女を病院に連れて行くのがウマかった。
「帰りに前田のウチに連れて行ってやるよ」
「本当? うれしい」
  なんて会話が教室で聞かれたものである。入沢のこんな面倒見の良さを自分が子供だったから……と、由有子が反省するようになったのは、その分、彼女が大人になった証拠なのかもしれないが、私にはこうした入沢は、やはりなつかしいものを感じないではいられない。私も今、高校時代の思い出が蘇って来る。由有子も入沢に北海道に行かれて、しみじみ彼の優しさが身に染みたんじゃないだろうか。
「そうねえ。漫画家さんの仕事場ってのは、周りがみんな吸ってるから、一人が禁煙した所で無意味なんだよね。周りの煙を結局吸わされたりして……自分が吸ってるくせして、時々、なんてけむいんだろうって、みんな言ってるのよ。みんなで、セーノでやめよう、なんて話しがよく出るんだけどさあ」
「ああ、それがいいね。その方がやめやすいだろ?」
「逆効果だわ。足引っ張りあっちゃって。禁煙の話しが出ると、早速、でも俺達は無理だよなあ……なんて言う奴がいて、そうだそうだ、という事になっちゃうの」
「そっかあ……そりゃあ泥沼だなあ」
  入沢は笑いながらそう言った。彼の「そっかあ」も久し振りだ。

       

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