「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉17
 
  女の人が喫茶店のような所のテーブルの前に座って、構図いっぱいのガラス窓の外を見ている。外は雨。自分ではガラス窓にかかる雨の滴に自信があるつもりではあった。外の風景は、雨にぼかされながらも河があり、丸橋が掛かっている。その橋の上の人影が傘をさしながら河をのぞき込んでいる。
  私は喫茶店の女と、橋の上の男が、恋愛中かなにかのようなムードを出したかったのだが、仕上げてみると、この二人の視線は、全くかみあってない。橋の上の人影は、男性とははっきりわからないし、河をのぞいていて喫茶店の方は見ていない。女の方は、その人影の方を見てはいるのだが、恋する瞳というよりは、何だかさみしげだったように思う。
  まあフンイキ絵なので、全体的には、自分でも結構ロマンチックなムードに上がっていると思うし、高校時代に由有子にあげたレモン色のより、ちょっとは絵も上達している。
  ただ、弟の話によって、シューマンが精神病院に入った原因がライン河における投身自殺未遂だったと知れ、彼女に渡したイラストの構図が一瞬アタマをよぎったのだ。
  なんだってあんな暗い絵を渡してしまったのだろう。いくら毎日雨が降っているからといって、絵の中にまで、雨を降らせる事もなかったのに……という思いがその時になって起こって来た。
  ところで、以前由有子にあげたレモン色の方は、由有子がアメリカに行く日、私が見送りに行くと、彼女が、
「これ、預かってもらえないかしら」
  と言って、私に返してくれたのだ。
  袋に入っているのでその時は中がわからなかった。私が中身を尋ねると、彼女は答えない。ただ、
「気を悪くしないでね。私ね、これを日本にどうしても置いておきたいんだけど、ただ置いておくだけじゃなくて、誰かに時々見てもらいたいの。それで、ひさに預けるのが一番いいと思ったの」
  どういう心境だったのか、よくわからないのだが、渡された時には中身を知らなかったので、私は取り合えず預かった。
  由有子の見送りは友人知人が結構多くて、このイラストを渡された時、二三、言葉をかわすのがやっとだった。私は、由有子との別れの名残りを、彼女の両親に譲ってやらなければならないと思ったのもあって、由有子の無事な出発を見届けるだけの事で満足した。
  ところで、この日は、入沢も来ていた。入沢は、由有子が発ってから私が帰ろうとすると、
「良かったらお茶でも飲もうか」
  と、珍しく私を誘ってくれた。 考えてみたら、彼と二人っきりで喫茶店に入るのなど、この時が初めてであった。
「入沢君忙しいんでしょうに……」
「いや、今はそれほど」
「毎日勉強?」
「そろそろ……ポリクリって言ってね……」
「ポリ……?」
「……クリ。病院に行かされるんだよ。病院の中を廻る……実習みたいなものだな」
  以前彼に会った時、例の解剖の話で盛り上がった記憶しか私にはない。あれはもう終わっちゃったらしい。
  この時の入沢は内科医になる事に決めていた。彼の家の入沢医院は内科なので、それでだな……と私も思った。H大の病院の中をグループを組んでグルグル廻って研修を受けるのだと聞いて、
「内科だけじゃないの? じゃあ大変じゃない。忙しそう……」
「来年はもっと忙しいんじゃないかなあ……」
「大学院かなんかに行くの?」
「いかないつもりだよ。早く医者になりたい」
  と言って彼はニコッと笑った。
「前田は会社を辞めてから、どうするの?」
「うーん、考えてないんだなあ、それが……」
  これから医者になろうという入沢と、ただプー太郎する事だけが決まっている私との差は著しいものがある。しかし入沢は説教めいた事は言わなかった。ただ笑って、
「いつやめるの?」
「八月……入沢君、由有子の結婚式には来れる?」
「うん、出来るだけ来るつもりだよ」
  由有子はこの時すでに十二月の挙式が決まっていたのだ。
  その予定は結構忙しいものだった。由有子だけが十二月の中旬に戻って来て準備をし、下旬に入るや、先生が戻って来て式を挙げ、ハネムーンに行き、そのまま日本には帰らず、アメリカの新居に帰る。私はそれを入沢に聞かされて、
「じゃあ、結婚式の時には、もう由有子とゆっくり会うゆとりはないかもしれないわね」
 と。ちょっとガッカリした。入沢は笑いながら、
「そうだな。でも、時々は戻って来れるんじゃないかな?」
  と屈託なく言って慰めてくれた。
「由有子と前田は仲良しだったからなあ」
  そう言って、彼は私を見た。私は彼のその言葉に少し感傷的な気分を引き出された。この日の由有子を取り巻いている友人の中で、高校時代の友人はどうやら私と入沢しかいなかった。入沢だけが私と由有子の友情をわかってくれる唯一の存在だったのだ。
  入沢もそんななつかしい思いでもあるのか、少し沈黙していたが、やがて、
「前田に会う時は、いつも由有子がいたんで、今までこの事は言った事がなかったけど……」
  と前置きした。
「前田には礼が言いたいんだ。俺が言うのもおかしいんだけどね」
「お礼? なぜ?」
「由有子の母親の事。由有子に聞いていたんだろう? ずいぶん前に、由有子がそう言ってたんだ。俺は前田に話した……という事にちょっと驚いたんだけどね。由有子はあの事は、誰にも話した事がないんだ」
「由有子のお母さんの病気の事?」
「そう。由有子は、本当に前田にだけは、由有子の全部を開いているんだなって思って、嬉しかったんだよ。ただ、前田にその事を言う機会がなかった」
「そんな……入沢君はもちろん知っていたわけよね」
「うん」
  入沢も又、由有子をずっと見守って来たのだろう。
「私ね、前から知りたかったんだけど、入沢君って、由有子と結婚したかったんじゃなかったの?」
  私は思い切って聞いた。
「今さらこんな事聞いても始まらないけど、聞きたかったのよね。私も由有子がいる前では聞けなかったんだもの」
  入沢は、テーブルの上でひじをついて指を組んでいた。彼の目には、やはりどこかさみしげなものがある。
「今さら、こんな事言っても始まらないけどね」
  彼はちょっと笑いながら、私の言葉を繰り返し、
「そのつもりだったよ」
  と言った。私の心にその言葉は、ポツンとさみしく反響した。
「由有子もそうしてくれると思っていた」
  彼の目は、優しく、なつかしげに遠くを見つめている。

  由有子の結婚式の時は、入沢の言っていた通り、私は、由有子とゆっくり話をするチャンスは全くなく、バタバタと慌ただしかった。由有子の着たウェディングドレスがとても似合っていて、私が今まで見たどんな花嫁よりも、由有子が美しかったとしか書く事もない。
  結婚式の後、ロビーに集まっている親族の中で、片桐のオバチャンと由有子の両親だけが私の知っている人達で、この片桐のオバチャンが、入沢のひじをつついて、
「今度は健治の番ね」
  と言っているのが聞こえた。入沢は、
「いやあ……それよりとにかく大学を出ない事には……」
  とテレ笑いをする。入沢の両親は、直接、由有子の親族ではないのだが、由有子がよく世話になった関係上、列席してて、この時私は、入沢の家族を初めて見た。以前、二度ほど入沢の家に行った事があるが、その家族には会った事がない。入沢の父親が、
「全くだ。早く出てくれん事には……」
  と言って機嫌よく笑っている。すると、母親の方が、
「由有子ちゃん、奇麗だったわねえ」
  と半ば涙ぐみながら、反芻するように言う。
  この入沢の母親というのが、由有子をとてもかわいがっていたという人だ。人柄の良さそうな、上品で美しい人だった。
  この人も、ひょっとしたら、由有子が入沢の妻になる事を望んでいたのかもしれない。私には、式の後で、友人に囲まれながら、写真を撮られている由有子を、うらやましそうにじっと見つめている入沢の母親を見て、そんな気がしていた。
       

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