「光の情景」
作/こたつむり
〈第2章〉16p
先生はその六月に行ってしまったが、私は、その日が平日だったので、送りにはいけなかった。
七月に入って、由有子が私の家に遊びに来た。梅雨がまだ晴れきっていなくて、毎日ジメジメとうっとおしかった。
「本当によく降るわねえ。由有子がアメリカに行くまでに、一日でも晴れないかしら。日本の晴れている空を見て行ってほしいわ」
私はそう言って、由有子を迎えた。由有子は家の中に入ると、
「あれ?」
と言って、ウチの居間に置いてあるクラビノーバに目をとめた。
「どうしたの? これ」
さすがにピアノの好きな彼女だ。すぐに気付いたな……と思いながら、私は、これは弟がアルバイトをして買ったんだと説明した。なんで、こんなものを弟が買ったかというと、なんと、ハズカシイ事に、実は弟は高校の頃からバンドを組んでいて、キーボードを弾いているからなのだ。
私も弟も小さい頃から、ピアノを習っていたんだが、私は中学の時に練習がイヤでやめてしまったのに、男のくせに、弟の方は、結構しつこく高校生になるまで習い続けていたのだ。
私より、弟の方がよほど音楽の素養があったと思う。高校生になって、イキナリ髪を伸ばし始め、いわゆるロック少年をやるようになってから、弟の部屋には訳のわからぬ音楽機材が満ち溢れるようになった。
大学で電気工学の方面に進んでからは、それに輪を掛けて、今ではちょっとしたコンピュータールームみたくなっている。機械音痴の私が入ると、何も触らないうちから、
「こわすなよ」
というのが、弟の口癖だ。機械についているすべてのボタンが弟にしかわからない配置をなしていて、確かに、うかつには触れない。
その弟が最近ふいに、ピアノの音がかなり正確に出るクラビノーバを買った。弟の部屋には、もうキーボードがあって入らないし、私もクラビノーバなら、時々、イタズラに弾いたりするので、居間に置いてある。ピアノは音が外に漏れるし、値段が高いので、買えないのだが、クラビノーバなら、ヘッドホンで聞けるし、そんなに高くない。
「ねえ、こんなの買う必要あるの?」
と私が言うと(ジャズでピアノならわかるんだが、ロックで、しかも素人ふぜいでピアノは贅沢なんじゃないかと思う訳だ)
「うるせーな、じゃあ弾くなよ」
と弟は言い返す。しかし勝手に弾いても、このクラビノーバに関しては彼には文句は言わせない。何しろこれを買うのに当たっては、私が半分近くも出資してるのだ。
ところで、由有子がそれに目を留めたので、この前、絵の事で聞かれたお返しという訳じゃあないが、
「由有子は、まだピアノを弾いてるの?」
と彼女に聞いた。
「ええ、時々ね」
彼女はそう言って笑った。
「何か弾いてくれる?」
と私がせがむと、高校時代、クラスメートに頼まれて、ピアノを弾いて聞かせてやっていたように、その日も彼女は、クラビノーバの前に座って、時々弾いてるというわりには、なめらかな演奏を聞かせてくれた。短い曲だった。
一曲弾くと、
「わあ、だめねえ、楽譜がないとわからなくなってる」
と言った。
うちにも何冊か楽譜があるにはある。
「今の何の曲?」
聞いた事のある曲だと思ったんだが、曲名を知らない。
「今の? 今のはね、『異国から』という曲よ」
異国から……。
彼女の言った曲名が胸に響いた。むろん、彼女には特別な意図があってその曲を弾いたわけではなく、楽譜がなくてもすぐに弾ける曲を選んで弾いてくれただけの事なのだろうが、私には、目の前にいる長年の親友が、やがて異国に行ってしまうという思いがある。すでに由有子がアメリカに行ってしまい、そこから私にピアノで話し掛けてきたかのような気がしつつ、今、彼女の弾いたメロディーを心の中で繰り返した。
「誰の曲?」
「作曲者? シューマンよ。今のは、『子供の情景』という小品集の中の初めの曲なの。そんなに難しくないし、私は結構好きなの」
「『子供の情景』か……。聞いた事があるけど、残念ながら、うちには楽譜がないわ。今の他にも何曲かあるんでしょう?」
小品集の初めの曲というからには、何曲か他にもあるハズだ。
「ええ、全部で十三曲。全部、曲に名前がついているから、イメージを浮かべ易いのよ」
「今の他のは、楽譜がないと本当に弾けない?」
「ええー。どうかなあ。指が覚えてるかしら」
「良かったら弾いてくれないかしら」
「わあ、どうしよう。練習しないと……ちょっと今弾けるかどうかわからないわ」
私はヘッドホンを持って来てクラビノーバにつないだ。ヘッドホンをつけさせられた彼女は、私が聞くとカチャカチャと、キーボードをたたくだけの音を刻み、各曲のさわりだけを弾いて確かめた。やがて、
「弾けそうだわ、でも、つっかえるかもしれないなあ」
と、ちょっと不安気味に言った。
「由有子、例のイラスト、由有子がアメリカに発つ日までに、私、完成させるわ。だから、シューマンを弾いてくれる?」
と、彼女を釣ってみた。果して彼女は釣られた。
「わあ。ホント? じゃあ、がんばらなきゃ……」
と、弾き始めた。もう一度「異国から」を弾き、その先の曲も弾き続いた。私は彼女が何曲めかを弾き始めた時、突然、これは、うちにレコードがあるかなんかで、私も知っている曲だと思った。
しかし、私が聞いた事がある演奏家との解釈が多少異なるのか、それとも、聞いている環境や、心境の違いからなのか、その日に聞く由有子の演奏は、以前に何かで聞いたものとは、だいぶ印象が違った。以前聞いたものからは、どこかしっとりと落ち着き払った、優しいなつかしい匂いのある曲だと思っていたのだが、由有子のその日の演奏からは、何というか何かキラキラしたような、それでいて、ガラス細工の置物かなにかのように、こわれやすい所がある気がした。
こわれやすいというのは、彼女が危惧していたように、演奏を途中でつっかえたから……という意味ではない。心配していたわりに、彼女は素人の私が聞く限りでは、ミスタッチなしで弾いたんじゃないかと思う。
その印象を説明するのは、大変難しいのだが、強いて言うなら、光り輝くようなキラキラした音で綴られるメロディーが、時に応じて、どこか虚ろいやすく、浮いたり沈んだりするような感じなのだ。曲名の「子供の情景」という題名から察するに、子供の楽しさ、うれしさなどを表す反面、子供が怖がったり、泣いたりする面もあるのかもしれない。
そんな事を感じながら聞いているうちに、台所にいた母や、二階にいた弟も居間に聞きに来た。折しも曲は、あの有名な「トロイメライ」にさしかかっている。彼らの顔にあらわれる感嘆の表情。どうだ……という得意な気持ちが私にはある。
全曲弾き終わると、由有子は、エヘヘ……と舌を出した。
「恥ずかしいわ。おばさんや努君にまで聞かせちゃて」
弟の努は、姉の友人の演奏を誉めたい気持ちがいっぱいのくせして、
「ステキな演奏でした」
なんていうキザな事が言えなくて、かわりに私に向かって、
「お前も、あれくらい弾ければ、ヘッドホンなしで弾いていいよ」
などと、悪態をつく事で、由有子の演奏を誉めている。
「よく言うわよ。あんたも、あれくらい弾けたら、コンサート聞きに行ってやるわよ」
と、私も言い返した。
後になって、これは、由有子がアメリカに行ってしまってからの事だが、私はこの生意気な弟から、いきなり、シューマンと「子供の情景」についての講釈を垂れられた。
なんで急に今までクラシック音楽の事には無関心だった弟が、そんな事を言い出したのかよくわからないし、どこでそんな事を調べてくれたのかもよく知らない。由有子の演奏が誰々の演奏解釈に似ている……などという、高度と言えば高度、生意気と言えば生意気な彼の講釈をとうとうと聞かされながら、その熱の入れように、
「存外、コイツは由有子に気があったな」
なんて気にもなった。後の祭りだ。由有子はもうその時アメリカに行った後だったし、関沼先生という婚約者もいる。だいたい弟では、どんなに背伸びをしても由有子の相手ではない。
しかし彼の好意には感謝した。由有子の行ってしまった後の私は、若干シンミリしていたし、弟にしてみれば、いつも喧嘩ばっかりしている私がそんなではつまらないから、元気づけようとしてくれたのかもしれない。かわいい奴だ。
弟はその説明の最後の方に近づくと、
「シューマンって奴は、最後には気が変になっちまうんだと……」
と付け足し、それを聞いた私はハッとした。そして意味もなく何だか不安になった。私は弟の話しをその後も聞きながら、由有子がアメリカに発つ日までに、慌てて仕上げたカラーイラストを思い出した。
今となっては、どうしてあんな絵を渡してしまったのだろう……と思うんだが、完成させる事を急いでいたせいか、思い付いたままに構図をとり、下書きをし、ペンを入れ、色を塗って、なんとか由有子の出発の日までに間に合せたのだった。
由有子にピアノを弾いてもらったお返しという約束のあったせいで、あせっていた事もあった。また、イラストに取り組みはじめたのが、由有子のピアノを聞いた日の夜だったため、気分がちょっと感傷的になっていたのかもしれない。