「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉15
 
「私……でも、六月に一緒に行っても、ろくな事できないと思うのよ。返って足手まといになっちゃうかもしれないし……」
  彼女は言い訳でもするように、入沢の顔を覗いて答えた。
「でも、ついていきたいだろう? 先生が六月に行ってしまったら、当分帰って来れないって言ってたじゃないか」
  入沢はいつになく粘った。由有子は急に笑いながら、
「仕方ないのよ。それが、先生のお仕事ですもの。私も、お母さんにお料理とか習わなくちゃいけない所だったし……ちょうど良かったかもしれないわ」
  と明るく答えた。入沢は考え込むように腕を組みながら、しばらく由有子の顔を見て黙っていたが、やがて、
「由有子は我慢強いな……。でも、一緒に行きたいって言わなきゃだめだよ。言わなきゃ先生だって連れて行けないじゃないか」
  と、優しく由有子を諭した。私は、そういう入沢に少なからず感動した。入沢という男を、私はどこか、事なかれ的に見ていたのだが、こんな面もあるのだ……と思った。
「でも、私がそんなわがままを言い出したら、先生は困ってしまうと思うわ。お父さんもお母さんも、私が今すぐについて行く事には反対なんですもの。私が言うならともかく、先生にそんな事させる事はできないわ」
  由有子はちょっと当惑してしまった。由有子も入沢がこんな事を言い出すとは思わなかったのだろう。しかし入沢はいつになく頑固に、
「由有子……」
  と、由有子の言葉を遮った。
「そんな事を聞いているんじゃないよ。先生が今度向こうに行って、ずっと由有子に会えなくなってしまう……。由有子はそれでもいいのか? 本当はついて行きたいんだろう? 本当の事を行ってごらん。他人の事なんて考えなくていいから……」
  由有子は驚いたように黙った。そして、入沢の顔を身動きもせず見詰めた。すると、驚いた事に、由有子の目からポロポロと涙がこぼれ始めたのだ。
「由有子、ついて行きたいのね」
  私は思わず彼女に同情した。由有子の髪をなでながら、困ったように、入沢を見た。入沢は組んでいた腕を解いて、
「由有子、よくわかった。泣くんじゃないよ」
  と言って、由有子の肩に手を置いた。
「オジサンとオバサンには、俺が説得してあげよう。きっとわかってくれるよ。由有子は先生と一緒に行けるさ」
  入沢はそう言って、いつのまにか私の代わりに彼女の頭を撫でてやっていた。由有子は、ベソをかきながらもコクンとうなずいた。
  入沢はその時、知り合いの結婚式があると言って戻って来てただけで、そんなにスケジュールにゆとりがあるわけでもなかったのだが、由有子の家に行き、彼女の両親を説得した。どんな風に言ったのかわからないが、その後、由有子の両親は、入沢の説得に折れたようだった。ただし、六月というのは、間がなさすぎるから、一か月延ばして、七月からということになった。
  由有子がアメリカに行ってしまうとなると、由有子の両親は少しあわてて、由有子の結婚の予定を速める事を考え始めた。婚約しているとはいえ、まだ独身の娘が、アメリカで男性と共に暮らすのだ。世間体を考えて、十二月のクリスマス休暇に先生が戻って来る時に、式を挙げて二人を夫婦にしてしまった方がいい、という事になった。
  先生もアメリカから帰って来て、その話しを聞くと、驚いたようだったが、元々先生は、出来る限り由有子を連れて行きたいと言っていたので、異存は勿論なかった。しかし、もし、先生が予定変更が困難だと困ると思ったのか、入沢は、北海道に帰るのを二日延ばして、先生が帰って来るのを待ち、先生の所に由有子を連れて行って、先生がいない間に変わった事情を説明してやった。
  はっきり言って、私は、入沢の実行力に驚きつつも、内心、平伏する思いだった。私は、由有子のあの涙を見るまでは、由有子がそんなに残されてしまう事を辛く思っているとは推し量れないでいたのだ。私も由有子の両親と同じように、やはり由有子との突然の別れが名残り惜しく、自分勝手な独占欲で、由有子を縛り付けようとしていたのだ……と、この時、初めて気付いた。そして、由有子がそうした周りの人間の気持ちを思いやって、人知れず、先生と別れて暮らす事をガマンし、覚悟していたのかと思うと、あの時、入沢が、由有子の本心を聞き出してくれた事に感謝せずにはいられなかった。
  むろんの事、由有子も先生も入沢には感謝していた。入沢が北海道に帰ってしまった後、私が由有子にくっついて、先生の家に、遅ればせながら借りていた漫画本を返しに行くと、
「あの縁結びの神様は、あの後大丈夫だったのかな」
  と、由有子に心配そうに聞いた。入沢は、先生がアメリカから帰って来るのを待っていたおかげで、大学の授業を二日もすっぽかしたのだ。
「でも、彼はきっといい医者になれるね。僕は医学の事はよくわからないけど、人の気持ちをわかってあげられる、という事は、医者の第一条件じゃないかと思うよ」
  と、入沢を誉めた。私も今度の一件で、入沢は男を上げたと思った。先生は私にも笑いながら、由有子を指して、
「でも、あんなイイ男が日本にいるんじゃ、この人はやっぱりアメリカに連れて行かないといけないね」
  と、臆面もなくのろけたので、私も、
「そうですよ、先生。それに由有子は、ウチのクラスじゃ、みんなの憧れの的だったんですからね」
  と言い返した。さみしいけどこの時には、やはり先生に由有子を連れて行ってほしいと、素直に思うようになっていた。
         

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