「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉14p
 
 先生は察しがいい。
「いや、よくわかりました。あなたも忙しいのに、わざわざ申し訳ありませんでしたね。ありがとう。彼女はいい友達を持って幸せだね」
  と、一言礼を言い。
「彼女には留守番をしてもらう事にしましょう。正直言って、日本を急に離れる事になって、ちょっと困っていたんです。こちらで文献を集めたり、資料を整理して向こうに送ったり、そういう事務をたくさん残していかなくてはならなくてね。勿論、大学内にもそういう事に慣れた人がいるにはいるんだが、何せ急な事なんで、結構、無理をお願いする事になりそうで……。雑務も多いからね。彼女には、日本にいてやってもらえる仕事を残していく事にしましょう。大学にはちゃんと、そういう事を教えてくれる人もいるから、彼女なら大丈夫でしょう。それなら、おいてきぼりという事にはならないからね。いっそ彼女の方が、いろいろ頼みやすい事も多いし……」
  と、間を置かずに結論を出した。驚くべき決断力。あるいは元々、先生はそういうつもりもあったのかもしれない。大学の事務ならともかく、独身の先生の細々とした世話は、なるほどやってくれる人がいないのだろう。海外で生活するための準備なら、由有子も父親の事で、よく心得ているかもしれない。あるいは、そういう事なら由有子の母親も喜んで協力してくれるんではないだろうか。
  とにかく私は先生の言葉を信じて、その日は大学を後にした。
  この日は、まだ春休み中で、正門は閉まっていた。私は研究室を出ると、裏門に遠回りしながら、夜桜をボンヤリと見た。
  四つ谷駅に行っても、駅のホームから見える桜並木を見ながら、しばらく電車に乗らないでいた。仕事の帰りに直行してきたので、少々疲れた。
  そのうち突然、入沢が北海道に行ってしまった春の事を思い出した。入沢が行ってしまった後、……あれは、確か私が短大に入って一週間くらいたった頃、最初か二回めの日曜日だったと思うんだが、やはり、この四つ谷駅のホームで、由有子と二人で腰掛けて、遠くにけむる桜並木の景観を楽しんだのだった。
  なんで、わざわざここに来たのか、よく覚えていない。前も書いたが、どういうわけか、この頃の私の記憶は曖昧なのだ。T大に進むかJ大に進むかを由有子が選びかねて、どちらかに決めるために見に来たわりには時期が遅い。桜の季節にはとっくに決めて、T大に入学していた筈だから、J大に用があって来たわけではなかったのだろう。しかしこの場所だったのは確かだ。当時、ホームの桜の見える所にベンチが置いてあって、二人で腰掛けて見た……と思うのだが、今夜は置いてない。ひょっとしたら、前来た時もなかったかもしれない。
  由有子も私も、特に忙しくもなく、随分長い事そうしてボーッとしていた。すると、
「お父さん、早く帰って来ないかな」
  急にそんな事を彼女がつぶやいたのだ。そして、
「お母さんって、お父さんがいないとダメなのよね。私のためにお母さんは日本にいるんだわ。かわいそうなの」
  と続けた。 私は当時、なんで突然そんな事を彼女が言い出したのか、よくわからないながらも、
「お母さんじゃなくて、由有子がお父さんに会いたいんでしょう?」
  なんて言いつつ、なぐさめた気がする。
  あの時、由有子は入沢の事を考えていたんじゃないだろうか。私は、夜のホームに一人座ってボーッと通勤客の行き交う様を見る内に、ふと、そういう思いにかられた。
  お父さんがいないと、お母さんってダメ……というのは、きっと、彼女の母親が気鬱になってしまう状態の事なんだろうが、そこには、行ってしまった入沢に対する、
「健ちゃんがいないと、私ってダメなのよね」
  という思いも内包されていたのかもしれない。私には、なぜか、そんな気がしだして仕方なかった。
  私は、ようやく腰を上げ、電車に乗ってウチに帰る事にした。夜の電車の中で、瞬くネオンを見ながら、ちょっと余計な事をしたかな……という後悔に胸を痛めた。由有子は、今どんな事をしても先生について行きたいと思っているのかもしれない。まあ、たった一年くらいなんだが、その論法で、入沢ともたった六年くらい……と引き離された事を思うと、彼女にとって、別れる事、おいてきぼりにされる事は、それを繰り返すだけの、どこまで行っても終わる事のない運命のように思えた。いつもいつも、父親にも、入沢にも、そして関沼先生にも置いていかれてしまう由有子が、哀しく、不憫に思えるのだった。
  どういう訳か、丸の内線は四ツ谷駅だけ地上に出る。私の瞼の奥に艶やかな夜桜だけを残して、電車は地下に潜り、後は闇が続いた。

  五月のゴールデンウィークに、アメリカに行った関沼先生と入れ違うように、入沢が帰って来た。
「去年は結局帰って来なかったわね」
  と私が言うと、彼は笑いながら、
「いやあ、実は、危なくってね……単位を落とす所だった」
  と言い訳をした。
  入沢は髪が伸びてしまい、ちょっと女の子みたいになっている。
「きのう、バッタリ上月に会ったよ。アイツ変わってないなあ」
  などと、笑いながら話す所を見ると、由有子の事にはそれほどショックを受けてないように思えた。
  逆に、ちょっと由有子の方がションボリしている。先生がアメリカに行っているからではなくて、六月に先生が再び渡米するのに、ついて行けそうもないのが、ほぼ決まってしまったから……というのと、入沢に先生を会わせられなかったからだろう。私が、
「先生、今は講義もないんでしょう? わざわざゴールデンウィークに行く事ないのにね。入沢君がせっかく来たのに……」
 と、なぐさめるように言うと、
「先生と一緒に向こうに行かれる、他の先生が、お休みが取れなかったんで、仕方なかったのよ」
  と、教えてくれた。明るい言い方だった。入沢に久し振りに会えたのだ。しょぼくれていてはイケナイと思ったのだろう。
「でも、私、健ちゃんに会えてうれしい。本当に久し振りですもの」
  と言って彼女は笑った。入沢は、目を細めてほほ笑んだ。そして今度は私の方を見て、
「前田は体をこわしたんだってね、もう大丈夫?」
  と聞いてくれた。
「どうしてそんな事知ってるの? あ、由有子、教えたわね」
「だって……」
  由有子は、まだ時々私の体調を気遣っている。もうとっくにどこもどうもないのだ。まったく、会社の連中にこそ気を使ってほしいくらいなのに、私は相変わらず会社では忙しい。由有子はそこを指摘した。
「どうして病気をした人に、そんなにたくさん仕事を押し付けるのかしらね。もう、ひきうけちゃダメよ」
  といつになく過激な事を言った。すると入沢が、
「でも、もうやめるんだろう? そこは。やめた方が正解かもなあ……」
  と言ったもんで、私は又、由有子に、
「由有子、それも入沢君に言ったの?」
  と聞いた。
「ごめんなさい。でも、私もやめた方がいいと思うわ。ひさには、もっといい仕事があると思うの」
  と由有子は言う。私は、
「私が就職して仕事をするのを、偉い偉いって誉めてたくせに」
  と、由有子の気のかわりようを笑った。由有子も笑いながら、
「あら、それはそうなのよ。お仕事をしてお金を貰うのって、だって、大変な事じゃない? 私なんて、今でもまともな仕事ひとつした事ないもの。やっぱり、そこは、ひさの方が偉いわよ」
  と言ってくれるので、私も、
「そんな事ないわよ。由有子が日本に残っていても、先生はドッサリお仕事を置いて行く……っておっしゃてたわよ」
  と言い返した。すると入沢が、
「由有子は日本に残るの? 先生は六月からずっと向こうへ行くんだろ?」
  とちょっと驚いて言った。
「由有子ったら、私の事は報告しているのに、自分の事をちゃんと言ってないでしょう?」
  と、私は由有子を冷かした。由有子はあわてて入沢に説明する。
「そうだ、そうなのよ。私はお留守番なの。先生の渡米がね、急に決まったものだから、私、日本にいて、いろいろ資料の整理をしないといけないの。どうしよう。私、先生がいなくても、ちゃんと出来るかしら……」
「大丈夫よ、先生もきっと電話で教えてくれるわよ」
  と、私は励ました。
「そうよね、がんばらなくちゃ」
  由有子はかわいいガッツポーズを見せてそう言った。もう、置いてきぼりの件は、みじんも恨んでなさそうに見えた。
  入沢は、私と由有子の会話を、腕を組みながら聞いていたが、突然、
「でも、由有子、一緒に行きたいだろう?」
  と、由有子に言った。由有子は、ハッとするように入沢を見た。
       

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