「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉11p
 
 由有子は、私が退院してしまってから、この事を知り、慌てて家まで見舞いに来てくれた。
「本当にサボッてんのよ。ホラどこもどうもないの」
「ううん、でも疲れてるのよ。ただでさえ忙しいのに、私の事まで持ち込んじゃって、……私のせいだわ」
「大袈裟ね。由有子とは関係ないわよ」
  実はなくもない。関沼先生と会った日に取った代休の事で、あの後ちょっと社内でもめた。実際それで私はつくづく会社勤めが厭になってしまった。代休をどう過ごしたのかを、とうとうと質問されたのだ。どうだっていいじゃあねえか、という風に答えたもんだから、顰蹙を買った。
「そんな事より、あの後、気にかけていたんだけど、どうなった?」
「先生の事?」
「そうよ。先生は返事はいつでもいいって言ってたけど、大学院の方はそうもいかないでしょ?」
「ああ……私、やっぱり諦めたわ」
「お母さんがダメだって?」
「うーん、ひさの言ったとうりね。私、お母さんには弱いのよ」
  彼女の母親の病気の事もあるのかもしれない。由有子の母親の、由有子に対する心配というのは、由有子自身、その重みをよく知っている。
「お父さんは、就職したくないなら、無理にしなくてもいいんだぞって言うんだけど、そういう問題じゃないのよね。私、今からでも就職活動しようかなって思ったんだけど、お父さんが今からしても、ろくな所には入れないぞって言うの。それでお父さんの知り合いの人に頼んでやるとか言われちゃって、これでは親の思う壷だなあって思って、私もついに言ったわ。先生の事」
「結婚の事?」
「そう、もうちょっと間をおいてから……と思っていたんだけど。だって関沼先生の作戦では、後一年くらい経ってから、という事だったの」
「作戦」
  悪いが、思わず笑いが出てしまった。関沼先生の口から出ると、こっちも軍事参謀にでもなってるような気になれるんだが、由有子の口から出ると、子供がたかだか、いたずらするのに背伸びして言ってるようにしか聞こえない。
  由有子が大学院に行くために、結構勉強していたのを知ってた私は、それが叶わずに、残念がっている由有子の気持ちを察する事は出来た。かわいそうだと思う反面、次に由有子から、
「でもね、結婚の事は賛成してくれたわ」
  と聞かされた時には、驚愕するとともに、やや、不安を感じないではいられなかった。早すぎる……。
「お母さんが?」
「ええ、でも、多分お父さんもそう言ってくれてるんだと思うの」
「いつ? いつ話したの?」
「きのうよ。私、それをひさに報告しようと思ってきのう電話したんだけど……ひさが、病気してるなんて知らなかったわ」
「そう……」
  正直言って、由有子の両親の賛同には、もっと時間がかかると思っていたので、気が抜けた。こんなに早く決まるとは……。私は、取り合えず大学院に行くかどうかで一悶着あるので、結婚の話しはもっと後になると思っていたのだ。
  関沼先生の人柄は私も多いに魅かれたし、結婚を反対する気も、もうなかったんだが、もう少し、結婚に踏み切るまでに猶予があるものと思っていた。しかし、両親の賛成を得られてしまえば、もう後は結婚するのを待つばかりではないか。大学院に行かない事と結婚の事は、切り離して考えていたのだが、妙に性急ななりゆきに、若干、面食らわざるを得ない。
「でも、まだすぐにってワケじゃないでしょう?」
「ええ、それはね……、ひさ、寝てなきゃダメよ」
  由有子は持って来てくれたチューリップの花を花瓶にいけながら、私を寝かそうとした。
「もう、うんざりなのよ。寝てばっかりだもの」
「ひさ」
  由有子は、ちょっと睨んだけど、すぐに笑って、
「良かったわ。でも、たいした事なくて……」
  と言った。
「たいした事あるわけないでしょう? この前のイラスト書いてるわよ」
「え!」
  見る見る由有子のうれしそうな顔。
「私に?」
「そうよ。でもまだ見せないわ。下書きだもの」
「うれしい。……でも無理しないでね」
「大丈夫よ。私、頼まれでもしなきゃ書かなかったかもしれないわ。久し振りに書くと、やっぱり絵を書くのって好きだなあって思うわ。忙しすぎたみたい。今まで」
  これは実感していた。由有子に触発されたのも事実だし、書いてみて、しみじみ自分はこういう事をするのが好きなんだな、と思って、涙が出そうになった。由有子のように、真っすぐに自分の道を歩いて行くことはできないが、私もこれからは、少しづつ自分を取り戻していきたいと思っていた。
「ところで、入沢君には言ったの?」
  由有子はハッとして、首を横にふった。
「まだなの」
「入沢君は、この事は全然知らないの?」
「ええ、でも、もし、お母さんが片桐のおばに話せば、すぐに知れると思うんだけども……」
「そう……」
  私の今ひとつの気掛かりは、やはり入沢の事だった。由有子の話しからは、入沢が由有子に対して、妹に対する感情しか抱いていないかのように受け取れるんだが、私には、入沢が由有子の縁談を聞く時に、いつも由有子を見る時に浮かべる、あの限りなく優しい目が、ふと、さみしく曇るような気がして仕方なかった。
  それと、しつこいかもしれないが、こうも早く結婚の話しが決まってしまうと、私には、入沢の意向が気になりだしてしまう。……というのも、入沢という男には、どこか私にも見抜けぬ由有子の内面を、よくわかっているような所があったからだ。色めいた感情を抜きにしても、由有子に関する専門家のような所が彼にはある。彼のそうした面を見て、単純に恋愛感情と結び付けて考えていたのは、確かに私の短絡思考だったかもしれないと反省してはいるが、入沢だったら、入沢がいたらこの結婚に関してなんと言うだろう。その事が執拗に気になってきた。
  しかし、当時の私は、由有子を飛び越えて、北海道にいる入沢に相談を持ち込む程の気概はなかった。私は入沢の、あの妙に冷静な顔立ちを思い浮かべて、彼が、
「なんでそんな事、俺に相談するの?」
  などと言いかねないものを感じたとたん、まあそのうち知れる事には違いない、と思い返した。
  私が入沢の事を考えたのには、多分、もし由有子が関沼先生と結婚してしまったら、私と入沢には、ただの同窓生というだけのつながりしか残らなくなる。その事へのさみしさも、少しあったのかもしれない。
  それと白状すると、ほんの少しだけ、入沢が由有子を引き留めてくれたら……という思いもあったような気がする。関沼先生は、私にとっては、やはり遠い存在に過ぎない。その先生の奥さんになってしまったら、由有子は私から離れて行ってしまうのでは……という思いがなかったとも言い切れない。
  しかし、それが女友達というものなのかもしれない。私もそのうち、誰かと結婚して、ますます由有子との距離ができる。由有子の言うとおり、誰でもやってる、仕方ない事なのだ。わかっていても、なんだか、とてもさみしい……そして、めでたいと言えば、めでたいが、少しつまらない気がした事は否めない。
         

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