「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉10p
 
 入沢なら、こういう事は言わないだろう。四十才でも五十才でも男は男だ。関沼先生は、入沢にはない「男」の顔を出した。欲しいものを手に入れようとする強さを見せた。女は古来、そういうものには弱い。由有子も、そこに魅かれたにちがいない。
「ただし、さっきも言ったけど、曲がりなりにも教育者と名のつく者が、女子大生に対して、 『俺とつきあわない?』 なんてアプローチをとるわけにはいかない。そんな事を言ったら、大問題だよ」
  私と由有子は先生の、いかにもその辺のナンパ男っぽい、
「俺とつきあわない?」
  の部分で、口の中に入れたものを噴き出しそうになって、同時にむせた。
「言うからには、結婚の意志がある所まで言う必要がある……と思って、彼女にはそう言いました」
  確かに、こんなステキな先生にプロポーズまでされて、断らなきゃいけなかったら、さすがの由有子も性格が歪むかもしれない。だいたい話を聞いてる私からして、まるで、自分が口説かれてでもいるような陶酔感に包まれてしまった。うむ、これでは仕方ない……くれてやるか。もはや、そんな気になりかけた。
  先生は、由有子に助手になってもらう気でいるらしい。
「僕は、まだ彼女は、カウンセラーになるとかならないとかの決定を下す段階まで来ていないと思えるんです。向き不向きの問題は、あくまで彼女自身が決めるべき事なので、これ以上僕は口を差し挟まないつもりですが、今の所、まず彼女のご両親が賛成していらっしゃらないようだし、それを押し切って大学院に進んで、その道に入っても、彼女の体力がその先を許すかが気掛かりではある。ただ、それだからと言って、学問の道を閉ざす必要はないんじゃないかな……そこまであきらめてしまうのは、少し惜しいなって思うわけです」
  先生はそう言いながら、視線を由有子に移した。私も由有子を見ながら、
「お母さんたち、大学院の事はやっぱり反対なの?」
  と聞いてみた。
「ううん勉強するのはいいことだって、お母さんはともかく、お父さんは、反対まではしないでくれているわ。ただ、カウンセラーとなると、もう二人とも疫病神でも見るみたいな顔をして、
『そんな事を女の子がやって、どうするんだ。やめなさい』
  の一点張りなのよ。
『お父さんはそんな事をさせるために、お前を大学に入れたんじゃないぞ』
  なのよ。古いでしょう? 全然わかってないんだから、まいっちゃうわ。あげくの果てに、
『そんな事がしたいなら、看護学校にでも行けば良かったんだ』
  なんて言うのよ。こりゃあ無理だって私思ったわ。私も先生のおっしゃる通り、将来何になりたいっていう目的もないのに、大学院にまで行く必要はないなあって思うもんだから、カウンセラーになるんじゃないなら、大学院まで行ったって仕方ないなって、ちょっとあきらめかけているの」
「そうだったの……残念だわ」
「そうなの」
「ねえ、大学院にいかないと、カウンセラーにはなれないのかしら」
「そんな事はないらしいわ」
「何か、国家試験みたいのを受けるんでしょう?」
  世間知らずの私は、そんな風に単純な質問をしてしまったのだが、由有子は、優しく笑いながら、
「そんなのないのよ」
  と答えた。
「私もよく知らないんだけど、そういうのがあれば、まだがんばりようもあるんだけど、さっきも先生がおっしゃったように、カウンセラーなんて、そんなにちゃんとした資格があるわけじゃないんですって」
「じゃあ……」
「コネなのよ。病院に勤められるかどうか、大学院に行ったってわからないの。でも大学の先生に紹介してもらう以外に、方法はないの」
「え? そうなの?」
  由有子はコクンとうなずいた。ああ……それで、さっきから大学院に行くの行かないのと言ってるわけなんだ、と今ごろになって、ようやく納得し始めた私だった。わかりが遅い。
  先生は、私たちの会話を聞きながら、
「今、無理押しするより、少し時間をおいた方がいいんじゃないかな。もし彼女が、どうしてもカウンセラーになりたいと、この先思うようなら、僕はそうさせてあげたいと思っているしね。僕にもそういう知り合いがいないでもないからね」
  なるほど、これはそうとうな事だ、と私は再び舌をまいた。ついで私には、このときから急速に、関沼先生に由有子を託す気持ちが湧いてきた。
  由有子の両親が反対する理由は、なんとなく想像に困難はない。要するに、カウンセラーなどという得体の知れぬ職業についたら、嫁の貰い手がなくなるのではないか、という心配をしているに違いない。こういう事となると、学問の世界には関係なくどこの世界でも同じなのだ。親の考える事なんてそんな所だと私にもわかる気がした。
  だから、もし由有子が先生と結婚してもいいと思っているのであれば、大学院に行く行かないは別として、先生のそばにおいて置くほうが、むしろ彼女の向学心のために良いのではないか。私は、そう思い始めたのである。おそらく関沼先生もそういう気持ちがあるのだろう。
  大学院に行かないのに、教授の助手をする。そういう事は、あんまりないらしい。普通だと大学院に残った後、自分の所属する教室の助手という形でおさまる。そうなると特別に一人の教授の手伝いというより、教室全体の助手という事になる。だいたい一教授の個人的な助手なんて、少なくても、由有子の大学を見る限り存在しないという事だ。
  その上関沼先生は、我々から見れば年長者だが、まだ助教授の身分である。また、いくら権威のある先生でも、普通頼まれても私的機関として特別の人材を確保する事には、いろいろ問題がある。意外とこの世界はそういう事にウルサイらしい。ましてや、独身の教授と若い女性となれば、又、厄介な噂になる。
  ただし、助手が婚約者という事になれば話しは別だ。それに「助手」というよりは、関沼先生個人のアシスタント、あるいは秘書という、なんとなく世間を煙にまくようなウマイ方法にするらしい。給料とかはどうするのかよくわからないが、どうせ結婚するのだ。所帯が一緒になれば、サイフも一緒になるではないか。
  ふむふむ、ナルホド。考えたな。策士だ。私はしみじみ関沼先生を見てそう思った。
  しかし由有子の両親がどう出るかが問題だと思った。いくら大学助教授でも、十八才も年が離れているのだ。大学院を出て一生独身でカウンセラー……という由有子の母親の考えそうな将来よりはマシかもしれないが、それでも由有子の両親が一人娘に対して思い描いている、幸福な結婚、明るい将来の図には、やや遠い気もした。
  しかし逆に、由有子が仮に就職でもして、サラリーマンなどと結婚したら、由有子にとって、それは幸福と言えるだろうか。
  サラリーマンにもピンからキリまである。由有子なら、あるいはこの先、百点満点の男を見つけられるのかもしれないが、彼女の進みたい学問の道を優先させて考えるなら、関沼先生以上の夫は、そう簡単に見つからないだろう。増してや、先生は、結婚してからでも、学問の道を由有子に歩ませるか、場合によっては、カウンセラーへの道を切り開いてやるだけの経済的にも、身分的にも、社会的にも、相当な力を発揮できる男性なのだ。逆に彼女に相応の年頃の男には、到底そこまではできまい。なにしろ、理解の足らぬ親に変わって、彼女に、経済的にも精神的にも、援助、投資をすると言うのだ。
  まあ、打算と言えばそれまでだが、そんな事は関沼先生も百も承知だ。後になって、
「よくも俺を利用したな」
  とか、
「だましたな」
  だの、情けない事を言い出しそうな軟弱な男らとは全然違うタイプの男性だ。むしろ利用する事はドンドン利用しなさい、と胸を張って言い、由有子の才能をドーンと受け止めてやるだけの器量があるではないか。何よりも力強いのは、先生がそうまでしてくれる程、由有子を愛してくれている、という事だ。これほどの包容力は、二十代の男には、到底望めない。確かに由有子が、
「自分を必要としてくれる」
  という実感を持つだけの事はある。こういう男性に、決して打算だけではなく応えて行きたいと由有子が思ったとしても無理もない。又、彼女にしては、ずいぶん遠慮なく先生の好意を受け入れているではないか。親にかける負担も悪いと思うものを、関沼先生には素直になれる……。それも、やはり、先生への由有子の信頼ゆえに他ならない。

  ところで、この日のわずか二週間後、私は原因不明の関節炎にかかってしまい、検査のため、一週間ばっかり入院した。
  検査の結果は、これといってどこにも異常はなく、強いて言えば冷えが原因だろう、という事だった。
  退院してからも、一週間、自宅療養する事になった。実は、もうほとんどどうもなかったんだが、私はこのころから、会社に行くのが、どうにも面倒になってしまい、病気を口実に長期休暇をとりサボタージュを決め込んだ。代休もたまりにたまってるし、去年から有給休暇も全く消化していないのだ。はっきり言って、仕事は合理的にこなせば、休暇のひとつやふたつ取っても問題はないのだが、取りにくい。
「休みを取りたいんですけど……」
  の一言で社内全体の空気が険悪になる。要するに仕事の出来、不出来に関係なく、
「みんなで休日出勤しようぜ! 残業しようぜ!」
  という雰囲気を楽しむ会社なのだ。
     

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