「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉9p

 そこで先生は、反応をうかがうように私を見たが、私は頷いて話の続きを促した。先生は続ける。  
「ところが、彼女は真剣に聞いている。彼女は、
『私は、もっと勉強したい』と、こう言って来た。
『勉強して、それを役立たせたい』ってね。僕は感心して、
『じゃあ、やりなさい』と言って励ました。ところが、
『でも、そうも行かないんですよ先生』とイキナリ、僕の前でベソをかき始めた」
「ベソなんか、かいてないわ。ウソよ、ひさ」
  由有子は、あわてて先生の言葉を否定し、私に弁解した。顔が赤い。先生は笑い出した。由有子のあわてる顔を面白がっているのだ。その笑い方が又、ぎょっと驚く程若い。はじけるような少年の笑顔なのだ。
「違うの。聞いて、ひさ。私ってそんなに丈夫じゃないでしょう? 結婚しないで、この道を進んでカウンセラーになりたいなんて、もし私が言い出したら、お父さんもお母さんもびっくりして寝込んじゃうと思ったのよ」
「カウンセラー? 由有子、カウンセラーになるつもりなの?」
  私は初耳だったので、思わず聞き返した。
「ううん、わからないわ。ただ、もしかしたら……そうね、なれたらなりたいと思ったの。その時はね……」
「その時は……って、じゃあ今は? もうやめたの?」
「やめないわ。でも私には無理かもしれないのよね。それに、お母さんが絶対反対なのよ。ウチは……」
  そう言って、由有子はちょっと俯いた。由有子の母親の病気の事を考えると、私にも少々複雑な思いがないでもない。
  彼女の母親にとっては、娘がよりによって精神医のような職業につく事には抵抗があるかもしれないし、あるいはそういった事とは関係なく、単に、由有子の縁談の障りにでもなっては、という心配をしているのかもしれない。その事を、今、先生の目の前で聞くわけにもいかないので、私は黙ってしまった。
「いや、僕もあまり賛成しないな。彼女にはむかないよ」
  先生は、あごをしゃくるように由有子をさして、そうはっきりと言い切った。
「向きませんか?」
  別に由有子がカウンセラーになった方がいいと思ったわけじゃない。だいたいそれがどんな仕事なのか、私にはピンと来ない。先生が由有子をどうとらえているのか……むしろ関心はそっちにあった。
「うん。でも決して、彼女がひ弱なお嬢様だから、という意味でもないし、やめろと言ってるわけでもない。むしろ僕は彼女には意外と筋金入りの根性があると見込んでますよ。ただね、そういう職業というのは、ある意味、自分と他人とをスパッと見放すぐらいの冷酷さがなければ、勤まらないと僕は思うんです。僕は臨床畑の人間じゃないからね、あんまり口出しできる立場ではないけど……」
  今年に入ってから、由有子は結局、臨床心理方面の論文を書く事にした。その論文と関係があるのかどうかは知らないが、由有子の家にお邪魔した時に、由有子から、病院にいかされる実習がある……と聞かされた。心理学などまるでわからない私は、専門過程では全員がそんな実習をやるのかな……と思っていたんだが、実際は違うらしい。
  むしろ、由有子の大学では、病院実習を選ぶ学生は少ない。マスコミ関係やコンピューター関係など、社会心理学とどういう関係があるのか、よく知らないが、とにかく、臨床とはちがう進路を希望する人の方が圧倒的に多い。関沼先生もどちらかというと、そういう手合の学生によく就職の相談を持ち掛けられる。
  ただ、関沼先生は臨床畑の知り合いも多いし、何よりも、学生は就職部などより、よほど関沼先生を頼りにしている。大学の就職部なるものが、名ばかりあって実足らずなのは、どこの大学でもそうなのだろうか。関沼先生に対して、巷の学生が雪崩を打って就職相談に来る図というのは、毎年の事らしい。ただ人気があるから、というより、関沼先生は、今までの経験で、どんな学生がどんな方面に進んで、その後、それがうまくいった、いかなかったという事を、実によく把握している。学問にとって、どういう人材が理想的か……という事より、学生にとっての適性の方を先に見抜いてしまう。そういう意味では、現実的でも親切でもあって、由有子がやはり関沼先生に相談に行った事も納得がいく。
  ただ、現在の由有子は、臨床心理の先生にお世話になっている。
「鳩山先生(由有子がとっているゼミの教授)は、彼女に大学院に行ってみてはどうか……と言っていらっしゃるそうですよ」
  関沼先生は、由有子の方をチラッと見ながらそう言った。
「あの先生の手前、カウンセラーになるって、私が言ってるからだわ。そう言っとかないと、本当に大学院に行く時とか、病院に行く時に、先生に助けていただけないかもしれないよって……」
  と由有子があわてたように言うと、関沼先生が笑いながら、
「そう、僕が入れ知恵した」
  とつけたした。 私はなんだかおかしくなった。関沼先生が、学生と一緒になって悪巧みをしているようで、愉快だった。こういう先生は、学生にとって頼もしい限りである。
「ただねえ……もうひとつ残念な事に、日本ではまだまだカウンセラーなんてのは、立場があってないようなもんなんですよ。心に悩みや病気を抱えている人達を救いたいという気持ちは、とても大切な事だと思うが、なかなかその気持ちに沿うほどの環境が、揃っているとも言えない。勿論それでも……という人もいる。いるからこそ少しづつ、世間でも認められてきてはいる。最後は彼女の判断なのだが、今の所、気掛かりなのは、そういう確立されていない状況の中で、彼女自身の身の安定を、ご両親が心配なさっても無理もないと僕は思いますし、なにより、彼女の適性にあっているかという事も、余計なお世話だが気に掛かる。人の内面に細かく触れる……という事には、これはなにも、カウンセラーという職業に限らないと思うけど、病人につきあってのめり込んでしまうと、自分の精神が保てなくなる事だってある。真剣勝負なんですよ。でも、真剣に勝負する人は返って危ない。前田さんは、彼女を見てどう思いますか?」
  関沼先生は、まだ若い私に対して、少しもナメた態度をとらない。誠意のある人柄に私は、少なからず感動した。
  私は、しみじみと由有子を見た。由有子はあどけない顔で、それでも真剣に私を見返している。確かに向かないかもしれない。急にそんな気がしてきた。
「由有子は優しすぎるわね、他人に」
「そうかしら」
「そうよ」
「私、でも、まだなれる気でいるんだけど」
  由有子はいつになく強情に言った。
「じゃあ、お母さんの反対を押し切れる?」
  私はズバリと聞いた。由有子は案の定詰まっている。
  由有子には、どこか、自分の人情もろい面を否定しようとする気丈さがあるのだが、いつか、高校時代、嫌われものの上月の話題でも同じような場面を私は見ている。
「心配なんてしてないわ。興味があるだけよ」
  自分で自分にそう言い聞かせようとする由有子の言い方には、どこか無理があった。由有子が上月に好意を抱いていたわけでないのはわかっている。だが、それならなおさら、彼女が情に動かされやすい性癖を持っている事は否定しにくい。今の由有子にだって、上月に、罵倒のひとつも浴びせられるか? 欠点を指摘できるか? できないだろう……それが同情なのだ。
  他人を突き放す事なんか、由有子にはできない。むろん、今から意識的に自分を職種に近付けることは可能だろう。しかし私には、由有子が今もっている人格を否定してまでカウンセリングの仕事をする事に、むしろ反対だった。その事を、由有子にどう伝えるべきだろう。由有子は、又、自分を「偽善」と言うかもしれない。
  しかしそういう、人間の良いとされる性格を、細かく分析して、どこまでがエゴイズムで、どこまでが善良である、などと突き詰めていけば、きりがないし、底もない。人間の適性に哲学を持ち出してはじまらない。殊、職性に関してはなおさらだ。現実に仕事をもっている私には特に、人の適性を割りきる癖が身についている。仕事をしながら、人の生き方の根源を説いていくゆとりなどない。性格の良しあしより、向き不向きの方が より重要になってくるのが現実ではある。
  と、あれこれ考えていると、ふと、私の目は関沼先生の目とぶつかった。関沼先生は、ふいに、
「僕は、彼女の事を愛しています」
  と、他の男が言えば鼻血の噴き出そうなセリフを吐いた。しかし言ってから、彼は小鼻を膨らませるようにニッと笑った。場を飲み込んでしまう強い威が彼にはある。
「彼女が優しすぎるが故に、彼女を愛しているし、そういう彼女を変えてまで、カウンセリングにつかせるのはイヤなんですよ」
  まさに私の思う所を彼はかわりに言って除けた。この時、はっきりと先生が、心から由有子を理解し、愛しているのだとわかった。それに、さすがに大人ではないか。私が言えば、
「由有子に変わって欲しくない」
  という、わがままな、押し付けがましい願望になってしまうが、彼が言うと、
「変わる必要がない」
  と断定して、どこか世間を納得させうる強さがにじみでる。さすがだな、と内心舌をまいた。
  ウェイトレスが再び現れ、昼食を運んで来た。
「僕はね」
  以後、昼食をとりながら、再び彼は話し始めた。
「まだ若い彼女の将来を、自分と結び付けて考える事の危険を思わないでもなかったんですよ。彼女なら、何も、僕みたいな中年男と一緒にならなくても、これから、いくらでも良い男性が現れるでしょうしね。しかし、そこが人間。理性だけでは総てを割り切れない。つまり他の生徒と同様に、彼女が通り過ぎて行く事には、耐えられないと思ったわけです。ま……下世話な言い方になるが、自分のモノにしたいと思った、というところかな」
   

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